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2018年5月19日 (土)

織田信長軍による福知山攻略戦

 

天正七年(1579年)5月19日、織田信長の命により、丹波平定を進める明智光秀をサポートすべく、丹羽長秀が丹波玉巻城を攻めました。

・・・・・・・・・

室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)でしたが、その後、義昭との関係がギクシャクし始めた事から、もともとの反信長勢力と義昭絡みの反信長勢力が入れ替わり立ち替わり&入り乱れつつ形成されていた、世に言う『信長包囲網』・・・

そんな包囲網を一つ一つ崩すべく、信長は配下の武将たちを各地に派遣するわけですが、そんな中で天正三年(1575年)頃に、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)の平定を命じられたのが明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らでした。

とは言っても、当然、一朝一夕には事は進まない・・・初めは好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)の裏切りに手間取ってる間に、初戦で奪った亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)を奪い返され、やはり最初は味方してくれた八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野秀治(はたのひではる)も、この間に裏切り・・・

まぁ、ここらあたりの武将たちは、東に京都&畿内があり、西に毛利という大大名が控えるという、常に微妙な立ち位置に苛まれており、今回の信長の台頭にあたっても、旧知の毛利につくか?新勢力の信長につくか?・・・そこが、その運命の分かれ道だったわけで・・・

信長の味方になってみたり、イヤやっぱり毛利よね?と寝返ってみたり、ジィ~っと様子見ぃしてみたりと、イロイロと難しかったのです。

Aketimituhide600 そんなこんなの天正五年(1577年)、いよいよ信長は、西国の雄毛利輝元(もうりてるもと)との直接対決を決意して、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)播磨(はりま=兵庫県南西部)へ派遣し、光秀には、その側面や背面を援助すべく、再びの丹波攻略を命じ、それに応えるがの如く、光秀らは、天正五年(1577年)の10月に、奪い返した亀山城を拠点に籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)をはじめとする丹波諸城の攻略を、徐々に成功させて行くのですが(10月29日参照>>)

もちろん波多野側もジ~っとしているわけではなく、翌天正六年(1578年)には波多野配下の江田行範(えだゆきのり)が支城の綾部城(あやべじょう=京都府綾部市)の守りを固めて抵抗の姿勢を見せます。

こうして迎えた天正七年(1579年)・・・一説には、この頃、波多野氏は、一旦偽りの和睦の話を持ちかけて信長を殺す計画を立てていたものの、家臣の小野木吉澄(おのぎよしずみ)の密告によって発覚して失敗したとも言われていますが、

そんな事件があったからか?どうなのか?
この年の5月になって、信長は光秀の支援をすべく、羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)丹羽長秀(にわながひで)丹波に派遣したのです。

もちろん、これに対して波多野側も、配下の者を集結して対抗しますが、5月4日に西丹波に侵入した羽柴軍は、鬼ヶ城(おにがじょう=京都府福知山市)を落とし、綾部城を落とし、さらに翌・5月5日には、籠城戦となっていた氷上城(ひかみじょう=兵庫県丹波市・霧山城とも)も陥落させ、城主の波多野宗長(むねなが)宗貞(むねさだ)父子が自害しました。

一方、この間に丹羽長秀軍は、久下重治(くげしげはる)の籠る玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)を攻めました。

一説には、この時、玉巻城の救援に駆けつけたのが波多野宗貞で、その命を惜しんで降伏を勧告する長秀を突っぱねて力戦に挑み、かなりの抵抗を試みながらも、ついに天正七年(1579年)5月19日「もはや、これまで!」とばかりに、城に火を放ち、重治・宗貞以下、久下一族も、皆ことごとく自害し、綾部城を落とされてここに逃げ込んでいた江田行範も戦死したと・・・つまり宗貞は、父とともにではなく、この玉巻城で自害したという話もあります。

その後、6月4日には、明智光秀がようやく波多野の本拠である八上城を落とし(1月15日参照>>)、残るは例の黒井城の赤井、山家城(やまがじょう=京都府綾部市)和久(わく)横山城(よこやまじょう=京都府福知山市・現在の福知山城)猪崎城(いざきじょう=同福知山・猪ノ崎城)(7月22日参照>>)塩見・・・といったところ。。。

そこで、光秀は黒井城等を目の当たりにできる位置に金山城(きんざんじょう=兵庫県丹波市)を築いて、ここを拠点をして攻略を継続し、8月9日には黒井城を攻略します(8月9日参照>>)

続いて8月20日には、四王天政春(しおうてんまさはる)林半四郎(はやしはんしろう)らを加えて横山城への攻撃を開始すると、その日の内に抵抗空しく城は陥落・・・塩見信房(しおみのぶふさ)信勝(のぶかつ)兄弟も自刃して果てました。

これを知った猪崎城の塩見利勝(としかつ)自ら城に火を放って逃走しますが、その途中で林半四郎に追撃されて討死します。

これらと同時に山家城にも攻撃が仕掛けられますが、コチラは城の破却を条件に降伏・・・(翌年、約束通りに城を破却しなかった事で再び攻められ逃走しますが)(←6月20日参照>>)

こうして、福知山一帯が攻略された事で、明智光秀主導による丹波の平定は完成されました。

その後、10月に、今回の丹波平定を信長に報告した光秀は、塩見の拠点だった横山城を、近世城郭へと大幅改築し、それを福知山城(ふくちやまじょう)と名付けます。

これが、現在、JR福知山駅近くにある復元天守の建つ福知山城址ですね。

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現在の福知山城天守閣から見る猪崎城址と城下…奥に連なる山のうち、アーチ型の橋の右側にある1番手前の小ぶりな山が猪崎城址です。

よく、ドラマや小説では、この丹波平定に、光秀が、思いのほか手間取った事に信長の怒り爆発で、その時の叱責やなんやかんやが、光秀が後に起こす本能寺の変の原因の一のように描かれる事がありますが、それは後の世の(本能寺の動機探しとしての)勝手な想像で、実際には、この丹波平定を、信長さんはメッチャ喜んでいたらしい・・・

この翌年に佐久間信盛(さくまのぶもり)に対して出したとされる折檻状(7月24日参照>>)で、「光秀の働きはスゴイ!」とベタ誉だった事を踏まえても、やはり、叱責等は無かったのではないか?と、私は考えております。
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コメント

初めまして、羽柴茶々様

とても歴史に詳しい方ですね〜♪
北摂に住んで居てバイクで近場の丹波篠山方面には良く行きます。

黒井城や金山城には歩いて登りましたが、あんな所に攻めたり、石を運んで城等作りたく無いです(笑)
平和が一番!!

現在でも(侵略者であり統治期間が短いのに)、明智光秀に対する地元の方は、厳しい見方をする方には殆ど会いません。
余程、良い統治だったのか〜?

ヤハリ、(負けた側の)明智光秀は、もっと高く評価されるべき人なのでしょうね〜

投稿: コージー大阪 | 2018年5月31日 (木) 18時59分

コージー大阪さん、こんばんは~

そうですね。
福知山のドッコイセ祭も、地元住民が福知山城を構築する際の掛け声がもとになってるそうですから、やはり光秀さんは、住民への対応が良かったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2018年6月 1日 (金) 02時46分

こんばんは、羽柴茶々様〜♪

返事を有難うございます。

バイクでウロウロして知ったのは、丹波篠山方面の神社仏閣は、戦国時代より古い建築物は稀で、殆ど,明智光秀等の織田勢が破壊していました。
(此れは、宗教と地域支配体系は殆ど同意語だから分かりますが〜)
それなのに明智光秀の評価が地元で高いのは驚くべき事です。
しかし、具体的な統治の詳細を聞いた事がありません〜
もし、何か知って居られたら気長に待つので教えてくださいね〜

地域限定なら、超マニアなネタを知っていますが、羽柴茶々様の様に広い知識は無いですね〜♪

今後はちょくちょく覗きますので、宜しくお願い致します。

投稿: コージー大阪 | 2018年6月 1日 (金) 23時28分

コージー大阪さん、こんばんは~

そうですね~
やはり、敗者ですから、誉めてる文献は少ないでしょうね~
でもドッコイセの福知山音頭の歌詞なんかみると、やはり庶民には好かれてたのかなぁって思いますね。

投稿: 茶々 | 2018年6月 2日 (土) 02時42分

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