信長&秀吉VS浅井長政~箕浦の戦い
元亀二年(1571年)5月6日、浅井長政が信長傘下の堀秀村が守る箕浦城を攻撃しました。
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永禄十年(1567年)に斎藤龍興(さいとうたつおき)の居城=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させ(8月15日参照>>)、城の名を岐阜城(ぎふじょう)と改めて、以後、岐阜に拠点を置いた織田信長(おだのぶなが)・・・
そんな信長に、
「僕を京都に連れてって~」
と、足利義昭(あしかがよしあき=義秋・後の15代将軍)が打診して来たのは永禄十一年(1568年)の事でした(10月4日後半部分参照>>)。
義昭の申し入れを快諾した信長は、岐阜から京都への経路に当たる諸将に、その旨を打診するわけですが、南近江(滋賀県南部)を支配する大物=六角承禎(じょうてい・義賢)と畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)はNO=「俺んとこ通るな!」の返答・・・(9月7日参照>>)
(ちなみに、三好家の嫡流である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)と重臣の松永久秀(まつながひさひで)はOKでした)
そんな中、以前は六角傘下であったものの、ここんとこ力をつけて来て(10月7日参照>>)いた北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)は、妹(もしくは姪)のお市の方を嫁がせて懐柔したおかげで、完全なる味方となってくれました(2011年6月28日の前半部分参照>>)。
そして、信長は無事上洛を果たし、義昭も第15代室町幕府将軍に就任(10月17日参照>>)・・・
以来、信長は長政の事を「我が弟」と思ってたわけですが、その2年後の元亀元年(1570年)、再三の上洛要請に従わない越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻めるべく金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう=福井県敦賀市金ヶ崎町)へ向った信長を、なんと長政が挟み撃ち!(4月26日参照>>)
あわや、信長は命を落とすところでした。
(4月27日:金ヶ崎の退き口>>)
(5月19日:杉谷善住坊の狙撃>>)
命からがら岐阜に戻った信長・・・当然、このままでは終われません。
こうして、その1ヶ月半後に起こったのが、ご存じ、姉川(あねがわ)の戦いです。
【信長の判断ミス?姉川の合戦】>>
【姉川の七本槍と旗指物のお話】>>
この時、勝利した信長は、敗走する者を深追いせず、追撃を停止した事で、負けたとは言え、浅井&朝倉もある程度兵力を温存・・・
そのため、その後に信長は、浅井&朝倉の残党に宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市南滋賀町)を攻撃されて(9月20日参照>>)弟の織田信治(のぶはる)と重臣の森可成(もりよしなり)を失う事になるのです。
その報復をすべく、信長軍が堅田(かたた=滋賀県大津市)を抑えると、浅井&朝倉は比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)の援助を受けて、堅田砦に奇襲をかけて来たのです。
これが元亀元年(1570年)11月の堅田の戦い(11月26日参照>>)ですが・・・
この戦い自体は、正親町(おおぎまち)天皇の合戦中止の綸旨(天皇の命令)が下された事で、12月14日に一応の終結をみるのですが、もちろん、こんな講和は、天皇様のお顔を立てたのと、雪深い湖北の冬を見据えての一時的な物・・・
年が明けた正月早々、織田方が動きます。
信長の命を受けた木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が浅井方の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を兵糧攻めにして城将の磯野員昌(いそのかずまさ)に降伏の説得する一方で、琵琶湖上を封鎖して小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)の長政との連絡を遮断すると、小谷からの援軍を期待できなくなった員昌は、城兵500余名の命の保障と引き換えに元亀二年(1571年)2月24日に開城しました(2月24日参照>>)。
そこで信長は、この佐和山城を丹羽長秀(にわながひで)に、その北に位置する横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を秀吉に守らせて、浅井との最前線の守りを強化します。
ちょうどその頃、前年の野田福島の戦い(8月26日参照>>)で、信長と敵対していた三好三人衆の味方をして参戦した本願寺・第十一世=顕如(けんにょ=証如の長男)の呼びかけによって、ここ近江でも本願寺門徒による一向一揆が活発化して(9月3日参照>>)来ていた事から、秀吉は横山城の周囲を何重もの柵や垣で囲んで、防備を固めていたわけですが・・・
そんなこんなの元亀二年(1571年)5月6日、浅井長政が5000余の兵を率いて姉川を越え、横山城を奪取せんと南下して来たのです。
この時、織田方の最前線の守備についていたのは、秀吉配下の前野長康(まえのながやす=将右衛門)でしたが、浅井方は、それをもろともせず、前年に浅井から織田方へと転身した堀秀村(ほりひでむら)と、その家老=樋口直房(ひぐちなおふさ)が守備を担当している箕浦城(みのうらじょう=滋賀県米原市箕浦)へと押し寄せ、民家に放火し、略奪し、狼藉の限りを尽くしますが、その動向を知った近江の一向一揆宗徒が浅井方に加勢し、同じく、手当たりしだい民家に狼藉を働くのです。
この知らせを横山城で聞いた秀吉・・・箕浦城を救いに行きたいけど、ここ横山城も対・浅井戦線では要所中の要所なので守らねばならず・・・
そこで秀吉は、弟の木下小一郎(こいちろう=秀長)&竹中半兵衛(たけなかはんべえ=重治)ら3800余を横山城の守備につけたまま、自らは蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)や先の前野長康などの直属の配下=400足らずと、自らの馬廻り=100余人の合計・約500ほどだけを従えて、真夜中、密かに横山城を出陣します。
闇の中、敵に知られぬように箕浦城間近まで迫り、狼煙(のろし)を合図に城内の堀秀村&樋口直房と息を合わせて、まずは一揆勢に攻めかかります。
この時の一揆勢は約5000ほどだったと言われていますが、お察しの通り、一揆の衆というのは、この時に寄せ集まった烏合の衆でもあるわけで・・・数に劣るとは言え、統制の取れたプロの精鋭たちによる猛攻撃にタイミングを狂わされ、またたく間に300ほどが討ち取られてしまいます。
さらに、一揆を撃破した秀吉勢が浅井軍に突入し始めると、だんだんと押され気味になり、徐々に長沢(ながさわ=米原市)から下坂浜(しもさかはま=長浜市)方面=つまり琵琶湖の方へ琵琶湖の方へと追い込まれ、やがて逃げ場を失い湖中へと・・・こうして、浅井方は多くの溺死者を出したのだとか
やがて、秀吉側の少数精鋭の猛攻にて敗色が濃くなった浅井勢は、撤退して小谷へと戻り、生き残った一揆勢も山中へと姿を消して行ったのでした。
こうして箕浦の戦いは終了・・・大軍を以って出陣した浅井側にとっては、手痛い敗北となってしまいました。
この後の信長は、5月に勃発した長島一向一揆(5月16日参照>>)を相手にした後、9月に、かの近江の一向一揆の拠点であった金ヶ森城(かねがもりじょう=滋賀県守山市・金ヶ森御坊とも)を落とし、その9日後に、あの比叡山焼き討ちを決行するわけですが・・・
【信長の比叡山焼き討ち】
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】
ところで・・・
ドラマや小説で描かれる信長さんは、「怖くて」「恐ろしくて」「鬼のような人」のイメージが強く、一般的にも、そう思われている事が多いですが、何度か、このブログにも書かせていただいておる通り(【信長の蘭奢待・削り取り事件】参照>>)、私個人的は、信長さんは「案外イイ人なんじゃないか?」と思っております。
今回の出来事の流れなんか見ていると、やっぱり、そう思ってしまうのです。
もちろん、世は戦国ですから、「ヤラれたらヤリ返す…倍返しだ!」的な雰囲気はありますが、そもそもの金ヶ崎城は、再三の上洛要請(←コレ一応将軍=義昭名義での要請ですから)に応じなかったのは朝倉に方ですし、そこに・・・昔からの縁があるとは言え、同盟を蹴って挟み撃ちにしようとしたのは長政です。
それで姉川に至りながら、深追いされなかったおけげで温存できた兵力で、弟と重臣をヤッちゃったわけだし、そこに比叡山は協力したわけだし・・・
その比叡山にも信長は、再三「浅井&朝倉に協力せんといてくれるか~」と勧告をしてたのを、比叡山が聞かなかった末の焼き討ちですから・・・
一方、今回、浅井長政が攻撃した「前年に浅井から織田方へと転身した堀秀村と、その家老=樋口直房…」ですが、この寝返りは「信長が武力で以って…」ではなく、完全なる話し合いで堀さんたちは織田方に寝返っているのです。
この流れを見る限り、先にヤッっちゃってるのは浅井&朝倉や比叡山や一向一揆の方で、信長は、「ヤラれたからヤリ返してる」だけな気がしないでもない・・・確かに、長島一向一揆などの話を聞くと、返しが何10倍ものスゴい物になってる感ありますが、なぜか巷では、信長さんだけがドラマや小説等でクローズアップされてるだけで、殺戮的な報復攻撃は、この時代の戦国武将ならほとんどの人がやってます。。。なんせ、そうしないと納まらない時代でもあったわけですから・・・
そんな信長=イイ人の最たる物が、信長最期の本能寺・・・イイ人でない限り、こんなけ力を持つ人が、あんなけ無防備な状態で寺で寝てへんやろ!てな気がしてます。。。あくまで希望的観測を含む私見ですが・・・
とは言え、最近のドラマでの信長さんのラスボス感ハンパないから、きっと再来年の大河でも悪役なんやろなぁ~(^-^;
ま、主役が明智光秀なんじゃ、仕方ないですが
●享禄四年(1531年)の六角定頼と浅井亮政による箕浦合戦はコチラ>>でどうぞ
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