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2018年5月29日 (火)

『馬乗り袴』をリメイクした『たっつけ袴=カルサン』の作り方

 

戦う戦国女子の必須アイテム『たっつけ袴(もどき)を作ってみました~
(注:あくまで「もどき」&「なんちゃって」です)

・‥…━━━☆

5月29日は、ご)(ふ)(く)の語呂合わせで、「呉服の日」って事で、以前は『江戸時代の帯結び』の話(2012年5月29日参照>>)なんかもさせていただきましたが、本日は、自分で作っちゃった話です(*´v゚*)ゞ

Tattuke900mk

『たっつけ袴』とは、大河ドラマ等の戦国時代劇で、奥方や姫が、馬に乗る時、あるいは、自身の城が城攻めに遭った時などに、小袖の下にはくアレ・・・
(戦国時代は「カルサン」と呼ばれていたらしい)

ドラマ出演中の女優さんの写真を勝手にブログに貼るわけにはいかないので、どんな物かを確認されたい方は「大河ドラマ 姫 乗馬」で画像検索してみてください。

『江』の時の上野樹里さんや『直虎』芝咲コウさんなどのたっつけ袴姿のお写真が出て来ると思います。
●追記:大河ドラマ「江」のクランアップの時のニュース記事がありました(コチラ>>別窓で開きます) ・・・コレコレ(o^-^o)コレです!

「ええなぁ」「戦国好きとしては着てみたいな~」と思いながらも、巷の呉服屋さんには売ってるの見た事無いし、何でも揃うさすがの「A→Z」さんでも、たっつけ袴は、忍者装束か祭りイベント用か南京玉すだれ装束か・・・しかも、けっこうイイ値段がする(;ω;)

「なら、作るしかないか~」とは思うものの、和裁どころか洋裁の知識も学校の家庭科で止まっている茶々といたしましては、イチから作るのは至難のワザ・・・つくづく、こういうのを見た目だけでイチから作っちゃう巷のコスプレイヤーさんは、エライ!

Umanoribakama って、思ってたところに、某ネット通販サイト(結局A→Zですが…)で、コスプレ用の安価な『馬乗り袴(←)を発見!
2807円でした…これは反物を買うより安いかも?です)

これをアレンジするだけならいけるかも!!
とばかりにチャレンジしてみました~

ちなみに『馬乗り袴』とは、ズボンのように右足&左足に分かれてる袴の事で、一つの筒状になっているスカートのような袴は『行燈(あんどん)袴』と言います。

コスプレ用ではなく、普通の着物通販のサイトでも、男性用の安い物なら7~8000円くらいからありますし(もちろん高い物はキリがないです)、リサイクル着物のお店なら3~4000円くらいの掘り出し物もありますヨ(残念ながら、着物通販や呉服屋さんで女性用の馬乗り袴を売ってるのを、私は見た事ありません…女性用は行燈袴ばかりです)

そして、さらに・・・
Datezimem いつも見に行く着物通販サイトで、すでに白の伊達締め(だてじめ=着付けの際に帯の下に締めるヤツ)は見つけていたので、早速、その伊達締めを2本購入・・・

Daezime 上の伊達締めは夏物の伸縮性のあるメッシュでマジックテープで止めるタイプ(大特価の250円でした)

下の伊達締めはお腹部分に芯が入ってる一般的な伊達締めです(これも大特価500円

上記の通り、材料費は合計=3557円!
白の伊達締めは必須ではありませんが、大河ドラマの戦国の姫様は、ほとんどが、袴の紐の部分は白ですし、何たって、コレを付けておくと着やすいですから・・・

で・・・作り方は↓です。
Tattukebakamatukurikata

1、まずは、ウエスト部分の紐と、両足の裾から30cmほどの部分をハサミでカット。
(ご自分に合うサイズを確認してカットして下さいね)

2、カットした筒状の裾部分の片方の端っこを斜めに縫います。
(これも、ご自身のサイズで…これで良いと思ったら、いらない端っこはカット)

3、袴の上部分と切って縫った裾部分を縫い合わせ。
(袴は前部分にヒダがあるので、ヒダの折り目部分はそのままに、残った部分は裾部分と合うように等間隔でヒダを作って)

4、袴のウエスト部分の前後外側に伊達締めを縫いつけます。
(私の場合、後ろ側(背中)にメッシュのを、前側(お腹)に普通の伊達締めを縫いつけました…メッシュのは伸縮性があるので、背中の中心部分に楯に1本線を書くように、前部分の伊達締めは、芯が入ってるので、芯を避けるように伊達締めの下側を袴の紐の下側ピッタシに合わせて横に縫いつけました)

5、最後に、1で切った袴の紐を、切った部分をキレイに整えておいて、膝から下の部分に結ぶ用に使います。
(必要なら固定する意味で、袴のふくらはぎ部分に縫いつけるとイイです)

以上、最初の切るところから、わずか20分で完成しました~
Dscf3811tf3c600 完成品がコレ←です。
(あくまでそれっぽく見えるナンチャッテたっつけ袴ですが)

袴をはく時は、本来は、前からはく(前の袴をお腹に宛て紐を結ぶ)のですが、この『たっつけ袴もどき』は、先に背中側のメッシュの伊達締めを締めてから、前の伊達締めの芯の部分をシッカリお腹=メッシュの伊達締めの上に宛てて、1回まわして前で結ぶと、はきやすいし、楽です。

いかがでしょう?

ついでに、もともと、少し(ゆき=背中から手首までの長さ)が狭い、母からのお下がり着物の袖を、さらに小袖風にアレンジして合わせてみました~

これで、いつ戦国時代にタイムスリップしても、即座に戦えます!
わくわくp(^-^q=p^-^)qウキウキ

で、着てみて思った事は・・・
これ、メッチャ楽で動きやすいです。

これなら、乗馬はもちろん、山登りだってできるし、忍者のように素早く行動できるのも納得です。

実は、不肖私・・・
「ちゃんと正統な物を知っていなければ、崩す事もできないし、知らないで崩すのは邪道だ」
という観点から、一通り着付けを習い、一応、着付け講師の免許も持っているのですが、その知識を得て、歴史も好きな者からすれば、現在の「着付け」による着物の着かたは、戦後の高度成長期くらいから始まった着かたで、いわゆる、普通に日本人が毎日着物で暮らしていた時代の着かたとは違うのでは?と感じてます(←あくまで個人の感想です)

現に「着付け教室」のような物ができたのもその頃からのはずですよね?
だって、それまでのオバサマ方は教えてもらわなくても着れるはずですから・・・

ちなみに、着物=伝統的と思いがちですが、現在主流の六通柄の袋帯や名古屋帯が登場して来るのも、実は戦中戦後くらいからなんですよ。

現在の着かただと、まず腰巻巻いてから肌着に1本、長襦袢に1本、着物に2本・・・ここまでで、最低でも5本の紐的な物を結び、その上に帯をして、さらに帯枕と帯締めと帯揚げと、体に巻く紐状の物は、合計で8本という事になります。

「なんで?こんな苦しいくてしんどい着物の着かたをするんだろう?」

だって昔は・・・
あの十二単でさえ、体に巻く紐は1本なんですよ!
江戸時代には、帯揚げも帯締めも帯枕も無かったんですよ!

おそらく、大昔の人は、もっと気軽に、もっとサラッと着物を着ていたはず・・・(なんせ常に着てますから…)

もちろん、セレモニー的な正式な場所に行くのであれば、それなりのTPOをわきまえてキッチリしなければなりませんが、普段着なら、もっと気軽に、もっと自由に、そしてもっと楽に着物を着て良いんじゃないかな?って、個人的には思ってます。

どうか、着物に携わる方々・・・安価で気軽に着れる着物や帯を、もっとプッシュしてくださいませ。
(今でも、半幅帯だけで着るとメッチャ楽ですから)

だって、ゴルフしかり、釣り道具しかり、ギター等の楽器もしかり、
上手になってくれば、自然と高い物が欲しくなって来るのが人の常・・・

最初は、安いのを何度も着て、やがて慣れて、着るのが楽しくなってくれば、どのみち高級な物が欲しくなりますって。
伝統に培われたホンモノを身につけるのは、それからでも遅くはないのでは?と・・・

関係者様、是非とも御一考くださいませ~

てな事で、今回は「呉服の日」にちなんで・・・歴史の話ではなくてゴメンナサイです。
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2018年5月24日 (木)

前田利家~最大の汚点?越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」

 

天正四年(1576年)5月24日、越前で起こった一向一揆にて前田利家が1000人を処刑しました。

・・・・・・・・・

第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)に反発した三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)との、元亀元年(1570年)に起こった野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)の戦い(8月26日参照>>)に参戦した事で、反信長を表明した石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)

そんな教祖様の扇動もあって、翌元亀二年(1571年)から、各地の本願寺門徒が蜂起して一向一揆を起こします。
長島一向一揆(5月16日参照>>)
近江の一向一揆(9月3日参照>>)

その中の一つが天正二年(1574年)1月からの越前一向一揆です。

この越前(えちぜん=福井県東部)の地は、ご存じ朝倉義景(あさくらよしかげ)が領地としていましたが、天正元年(1573年)に、その朝倉を倒した(8月6日参照>>)信長によって、その本拠だった一乗谷城(いちじょうだにじょう=福井県福井市)を与えられて越前守護代に任ぜられたのが前波吉継改め桂田長俊(かつらだながとし)、そして龍門寺城(りゅうもんじじょう=福井県越前市)を与えられて府中領主に任じられていたのが富田長繁(とみたながしげ)だったわけですが、この二人の間に内紛が勃発し、長繁は一向一揆勢の力を借りて長俊を倒し、越前一国をほぼ掌握・・・(1月20日参照>>)

しかし、上記の通り信長と本願寺は抗戦中なわけで、越前を掌握した後に信長配下に戻る事を、ともに戦った一向一揆勢が許すはずもなく、長繁が、慌てて信長宛てに詫状を書いて領主の座を認めてもらおうとした途端、今度は一向一揆と町衆によって長繁は討たれてしまったのです(2月18日参照>>)

つまり、信長が朝倉から奪った越前が一向一揆の物になったわけで・・・

そこで天正三年(1575年)8月、信長は自ら越前へと出陣し、10日余りで一向一揆をせん滅するのですが、この戦いは、一向一揆側の死者と捕縛者とを合わせた数が3~4万にも達し、「府中の町は死体だらけで隙間もない」ほどだったのだとか・・・(8月12日参照>>)

こうして再び越前を平定した信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)に越前8郡を与えて統治を命じ、以後、勝家は、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を居城としました。

Maedatosiie 同時に、この勝家の目付役=世に言う「府中三人衆」となったのが、小丸城(こまるじょう=福井県越前市)佐々成政(さっさ なりまさ)、龍門寺城の不破光治(ふわみつはる)、そして府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)でした。

この時、佐々成政の小丸城の築城には、捕虜となった一向一揆衆の多くが駆り出されたと言います。

当然、彼ら本願寺門徒の中には「いつかチャンスがあれば!!」との思いが残る物・・・

やがて年が明けて天正四年(1576年)・・・
2月に信長が安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の築城に着手(2月23日参照>>)する一方で、北陸では、あの越後(えちご=新潟県)の雄=上杉謙信(うえすぎけんしん)富山に侵攻して来ます(3月17日参照>>)

さらに5月3日には、総本山=石山本願寺と信長との直接対決があり(5月3日参照>>)、その5日後には、長年に渡って反目していた謙信が石山本願寺と和睦し、反信長を表明したのです(5月18日参照>>)

これをチャンスと見た一向一揆衆は再び、あちこちから立ち上がり、かの府中三人衆を襲撃したのです。

しかし所詮は、急きょ集まった烏合の衆・・・プロの戦闘集団相手には太刀打ちできず、ほどなく鎮圧され、多くの者が捕縛されました。

かくして天正四年(1576年)5月24日、この時捕えられた1000人ほどの信者が、前田利家によって、ある者は(はりつけ)にされ、ある者は釜茹で(この頃の釜茹の刑は熱湯ではなく油)にされて殺されたのだとか・・・

この信長をも真っ青な大量虐殺は、前田利家の残虐性を示す物で、利家・・・いや、前田家最大の汚点!なんて事も囁かれたりします。

しかし、それは、現代の価値観を戦国に持ちこんだ故の錯覚???

実は、この出来事が世に知られるキッカケとなったのは、昭和七年(1932年)に、先の小丸城跡の本丸付近から発見された1枚の瓦・・・

この瓦に、瓦が焼きあがる前=まだ生乾きのうちに釘か何かで書かれたであろう文字が刻まれていたのです。

『一向一揆文字瓦』と名付けられたこの瓦に書かれていたのは、
『此書物後世ニ御らんじら□れ御物がたり可有候(あるべく)
然者(しからば)五月廿四日いき(一揆)おこり候まま
前田又左衛門尉殿いき
(一揆)千人ばかりいけどりさせられ候也
御せいばいハはっつけ
(磔)かま(釜)にいれられあぶられ候也
如此候
(かくのごとく) 一ふで書きとどめ候』

これは、
「この話が後世まで語られるよう…
5月24日に一揆が起こり、
前田利家殿が1000人ほど生捕りにされ、
その処刑は磔や釜茹ででした。
このような事があった事を一筆書き残しておきます」

という事なのですが、

ここに書かれてあった文字が達筆過ぎて怪しかった事や、
未だ文献の記録として残っていたのは、先の天正三年(1575年)8月の越前一向一揆の記録だけであったため、この瓦に書かれている「5月24日」は天正三年(1575年)の5月の事だと推測され、その頃には、鉄砲隊を率いて長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)に出ていたはずの利家にできるわけない・・・と考えられた事から、発見当時、この瓦は偽物説が有力だったのです。

また、もしかして本物だったとしても、その内容がかなり衝撃的な事から、利家を恨みに思う一向一揆側の生き残りが、後世にその悪行を伝えるために、密かに書き残したのでは?と思われていて、『呪いの瓦』なんて別名で呼ばれたりもしていたのですが・・・

しかし、近年になって同時代の城や遺構の発掘調査も進み、また最新技術による最新の解析等によって、この瓦は確かに信長の時代に作られた物、しかも、信長配下の職人集団の手による作品である事が有力になって来たのです。

んん?信長側の人が書いたの???
という事を踏まえて、あらためで原文を読むと、
『前田又左衛門尉殿』
『…いけどりさせられ候』
『…いれられあぶられ候』

どう見ても敬語で書いてます。

そう!
これは「呪いの瓦」ではなく、「自慢の瓦」だった・・・

つまり、彼らにとって、この一件は、悪行でも汚点でもなく、むしろ後世に残したいほど誇れる武勇だったわけです。

当時の「大量虐殺して鬼のように恐れられる」という表現は悪口はなく、誉め言葉でしたからね。

古くは「悪源太(あくげんた)と呼ばれた源義平(みなもとのよしひら)(1月25日参照>>)・・・
近くは、森長可(もりながよし)「鬼武蔵(おにむさし)しかり(4月9日参照>>)
佐久間盛政(さくまもりまさ)「鬼玄蕃(おにげんば)しかり、
そう言えば、柴田勝家も「鬼柴田」でした~

て事は、信長さんの長島比叡山(9月12日参照>>)も・・・
家康さんの気賀(きが)のアレ(3月27日参照>>)も・・・
汚点ではなく名誉・・・

もちろん、現代社会において殺戮や虐殺は許される事ではありません。

しかし、平和な時ではなく戦時下・・・それも戦国時代の事を現在と同じ物差しで測っては、本当の歴史を見失ってしまうと思います。

そこを踏まえつつ、歴史のあれやこれやを考えねば!!

戦国とは、ここまで人の価値観を変えてしまう物なのですから・・・
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2018年5月19日 (土)

織田信長軍による福知山攻略戦

 

天正七年(1579年)5月19日、織田信長の命により、丹波平定を進める明智光秀をサポートすべく、丹羽長秀が丹波玉巻城を攻めました。

・・・・・・・・・

室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)でしたが、その後、義昭との関係がギクシャクし始めた事から、もともとの反信長勢力と義昭絡みの反信長勢力が入れ替わり立ち替わり&入り乱れつつ形成されていた、世に言う『信長包囲網』・・・

そんな包囲網を一つ一つ崩すべく、信長は配下の武将たちを各地に派遣するわけですが、そんな中で天正三年(1575年)頃に、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)の平定を命じられたのが明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らでした。

とは言っても、当然、一朝一夕には事は進まない・・・初めは好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)の裏切りに手間取ってる間に、初戦で奪った亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)を奪い返され、やはり最初は味方してくれた八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野秀治(はたのひではる)も、この間に裏切り・・・

まぁ、ここらあたりの武将たちは、東に京都&畿内があり、西に毛利という大大名が控えるという、常に微妙な立ち位置に苛まれており、今回の信長の台頭にあたっても、旧知の毛利につくか?新勢力の信長につくか?・・・そこが、その運命の分かれ道だったわけで・・・

信長の味方になってみたり、イヤやっぱり毛利よね?と寝返ってみたり、ジィ~っと様子見ぃしてみたりと、イロイロと難しかったのです。

Aketimituhide600 そんなこんなの天正五年(1577年)、いよいよ信長は、西国の雄毛利輝元(もうりてるもと)との直接対決を決意して、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)播磨(はりま=兵庫県南西部)へ派遣し、光秀には、その側面や背面を援助すべく、再びの丹波攻略を命じ、それに応えるがの如く、光秀らは、天正五年(1577年)の10月に、奪い返した亀山城を拠点に籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)をはじめとする丹波諸城の攻略を、徐々に成功させて行くのですが(10月29日参照>>)

もちろん波多野側もジ~っとしているわけではなく、翌天正六年(1578年)には波多野配下の江田行範(えだゆきのり)が支城の綾部城(あやべじょう=京都府綾部市)の守りを固めて抵抗の姿勢を見せます。

こうして迎えた天正七年(1579年)・・・一説には、この頃、波多野氏は、一旦偽りの和睦の話を持ちかけて信長を殺す計画を立てていたものの、家臣の小野木吉澄(おのぎよしずみ)の密告によって発覚して失敗したとも言われていますが、

そんな事件があったからか?どうなのか?
この年の5月になって、信長は光秀の支援をすべく、羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)丹羽長秀(にわながひで)丹波に派遣したのです。

もちろん、これに対して波多野側も、配下の者を集結して対抗しますが、5月4日に西丹波に侵入した羽柴軍は、鬼ヶ城(おにがじょう=京都府福知山市)を落とし、綾部城を落とし、さらに翌・5月5日には、籠城戦となっていた氷上城(ひかみじょう=兵庫県丹波市・霧山城とも)も陥落させ、城主の波多野宗長(むねなが)宗貞(むねさだ)父子が自害しました。

一方、この間に丹羽長秀軍は、久下重治(くげしげはる)の籠る玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)を攻めました。

一説には、この時、玉巻城の救援に駆けつけたのが波多野宗貞で、その命を惜しんで降伏を勧告する長秀を突っぱねて力戦に挑み、かなりの抵抗を試みながらも、ついに天正七年(1579年)5月19日「もはや、これまで!」とばかりに、城に火を放ち、重治・宗貞以下、久下一族も、皆ことごとく自害し、綾部城を落とされてここに逃げ込んでいた江田行範も戦死したと・・・つまり宗貞は、父とともにではなく、この玉巻城で自害したという話もあります。

その後、6月4日には、明智光秀がようやく波多野の本拠である八上城を落とし(1月15日参照>>)、残るは例の黒井城の赤井、山家城(やまがじょう=京都府綾部市)和久(わく)横山城(よこやまじょう=京都府福知山市・現在の福知山城)猪崎城(いざきじょう=同福知山・猪ノ崎城)(7月22日参照>>)塩見・・・といったところ。。。

そこで、光秀は黒井城等を目の当たりにできる位置に金山城(きんざんじょう=兵庫県丹波市)を築いて、ここを拠点をして攻略を継続し、8月9日には黒井城を攻略します(8月9日参照>>)

続いて8月20日には、四王天政春(しおうてんまさはる)林半四郎(はやしはんしろう)らを加えて横山城への攻撃を開始すると、その日の内に抵抗空しく城は陥落・・・塩見信房(しおみのぶふさ)信勝(のぶかつ)兄弟も自刃して果てました。

これを知った猪崎城の塩見利勝(としかつ)自ら城に火を放って逃走しますが、その途中で林半四郎に追撃されて討死します。

これらと同時に山家城にも攻撃が仕掛けられますが、コチラは城の破却を条件に降伏・・・(翌年、約束通りに城を破却しなかった事で再び攻められ逃走しますが)(←6月20日参照>>)

こうして、福知山一帯が攻略された事で、明智光秀主導による丹波の平定は完成されました。

その後、10月に、今回の丹波平定を信長に報告した光秀は、塩見の拠点だった横山城を、近世城郭へと大幅改築し、それを福知山城(ふくちやまじょう)と名付けます。

これが、現在、JR福知山駅近くにある復元天守の建つ福知山城址ですね。

Dscn0829a1000
現在の福知山城天守閣から見る猪崎城址と城下…奥に連なる山のうち、アーチ型の橋の右側にある1番手前の小ぶりな山が猪崎城址です。

よく、ドラマや小説では、この丹波平定に、光秀が、思いのほか手間取った事に信長の怒り爆発で、その時の叱責やなんやかんやが、光秀が後に起こす本能寺の変の原因の一のように描かれる事がありますが、それは後の世の(本能寺の動機探しとしての)勝手な想像で、実際には、この丹波平定を、信長さんはメッチャ喜んでいたらしい・・・

この翌年に佐久間信盛(さくまのぶもり)に対して出したとされる折檻状(7月24日参照>>)で、「光秀の働きはスゴイ!」とベタ誉だった事を踏まえても、やはり、叱責等は無かったのではないか?と、私は考えております。
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2018年5月12日 (土)

賤ヶ岳で敗れ~「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期

 

天正十一年(1583年)5月12日、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた佐久間盛政が処刑されました。

・・・・・・・・・・

佐久間盛政(さくまもりまさ)は、織田家の家臣であった佐久間盛次(もりつぐ=佐久間信盛の従兄弟)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)で生まれました。

父の盛次が永禄十一年(1568年)の記録を最後に姿を消す事から、おそらく、それから間もなくに父が亡くなったとみられますが、母が、柴田勝家(しばたかついえ)の姉もしくは妹だったという事で、以後、叔父の勝家を父とも頼み、その傍らで勇猛な武者に成長していくのです。

おそらく父が亡くなったとおぼしき永禄十一年(1568年)・・・主君と仰ぐ織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)を阻む、南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義賢)との観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)の戦い(9月15日参照>>)にて15歳で初陣を飾った盛政は、

信長大ピンチの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市金ヶ崎町)からの撤退(4月27日参照>>)時に勝家の大手柄となった野洲川(やすがわ=滋賀県)の戦い(6月4日参照>>)でも大いに活躍した事でしょう。

なんせ、その体格は六尺(182cm)という当時としてはかなりの大柄で、、勝家が北陸方面の攻略担当となり、越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を平定(8月12日参照>>)、越前8郡を与えられた天正三年(1575年)頃には、役職名の玄蕃允(げんばのじょう)に由来する『鬼玄蕃(おにげんば)なる通り名で、その名を轟かせていたのだとか・・・

天正五年(1577年)には南下して来た越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と戦い(9月18日参照>>)、その後、天正八年(1580年)、100年続いた加賀一向一揆を、勝家とともに壊滅させた
【金沢御坊の落城】参照>>
【鳥越城の戦い】参照>>
時には、その功績によって加賀(かが=石川県西部)半国を与えられ、金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)を築城し、その城主となりました。

時に盛政=27歳・・・叔父=勝家の配下として、最も将来を期待される存在となっていました。

その後、越後の謙信の後を継いだ養子の上杉景勝(かげかつ)と抗戦する中、もはや、越後の制圧は時間の問題と見えた魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)陥落(6月3日参照>>)の翌日、2日遅れで、京都は本能寺(ほんのうじ)にて信長が自刃した(6月2日参照>>)事を知るのです。

「天正十年(1582年)6月2日、信長死す」・・・この情報は、ほどなく敵陣にも知られる事となり、意気上がる上杉軍が、越中(えちゅう=富山県)能登(のと=石川県北東部)の国人たちを扇動してかく乱して来たため、容易に上洛できなかった勝家ら・・・

その後、何とか少しずつ撤退した勝家は、富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさ なりまさ)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)、そして金沢城主の盛政に、それぞれの防備を固めさせ、自らは養子の柴田勝豊(しばたかつとよ=勝家の甥・盛政の母の姉の子)らを先鋒に上洛し、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討つ・・・はずでしたが、

ご存じの通り、電光石火の早業で、西国から舞い戻った(6月6日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、あの山崎の合戦で光秀を討ち破ってしまった(6月13日参照>>)ため、勝家ら北陸勢は、空しく矛を収めるしかありませんでした。

しかも、その後の清州会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)での後継者決めでも、何となく仇討ちを成功させた秀吉に主導権を握られた感が拭えない感じ???

まぁ、実際には時代劇や小説で描かれるようなドラマチック感はなく、
(後継者は、信長次男の信雄(のぶお・のぶかつ)か三男の信孝のぶたか)か?と争う中で、秀吉が信長の孫の三法師(さんほうし=織田秀信)を抱いて登場して、皆がハハァとひれ伏すみたいなあの場面の事です)
すでに織田家の家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)が信長とともに亡くなった以上、その遺児である三法師が、幼いとは言え嫡流として後を継ぐのは至極当然の事・・・その中で、信孝は三法師の後見人になるわけですから、信孝を推していた勝家としては、むしろ納得の結果だった事でしょう。

まぁ、領地配分で京都に近いえぇ位置を秀吉に持ってかれたしまった感はありますが、それこそ、光秀を倒したのは秀吉ですから、その領地をモノにするのは当然と言えば当然・・・

ただ、信長の死から4ヶ月後に、秀吉主導で行った、あの派手々々葬儀(10月15日参照>>)には、やはり信孝&勝家はカチンと来たかも・・・なんか、「これからは俺が仕切るで!」感強いですもんね~

こうして、ともに父の後を継ぎたい信雄VS信孝・・・そこに、仕切る感満載の秀吉VS家臣筆頭で信孝推しの勝家という対立の構図が生じ、ご存じの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへ突入という事になります。

この時、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に本拠を持つ勝家が雪で動けない冬を見据えた秀吉は、まずは天正十年(1582年)12月、柴田勢の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を開城させた(12月11日参照>>)後、信孝の本拠である岐阜方面へ・・・さらに、信孝の味方となっている滝川一益(たきがわかずます)の守る伊勢(いせ=三重県)にも転戦します(2月12日参照>>)

明けて天正十一年(1583年)、春の訪れとともに、ようやく勝家らが出陣し、余呉湖(よごこ=滋賀県長浜市)の北まで進出・・・この時、盛政は、勝家が本陣とした玄蕃尾城(げんばおじょう=福井県敦賀市刀根・内中尾山城)の前方(南側)に位置する行市山(ぎょういちやま=滋賀県長浜市余呉町)に砦を築き、ここに布陣しました。

一方の秀吉も、柴田勢の動きに合わせ長浜城に入り、両者、一触即発の睨み合い状態となりますが、この間にも、一旦押さえた美濃(みの=岐阜県)の地が、信孝と結託した一益に襲撃され続けていたために、秀吉は、再び美濃へ・・・(くわしくは3月11日参照>>)

これをチャンスとみたのが盛政でした。

「秀吉のいない間に、この余呉湖周辺に展開した羽柴勢の諸将の砦を潰してしまおう!」と・・・

敵方の砦のうち、大岩山(おおいわやま)岩崎山(いわさきやま)の砦が手薄になっている事を調べ上げた盛政は、早速、この二つの砦に奇襲をかけたい旨を勝家に申し出ますが、この作戦は、敵の懐深く入る事から、かなり危険・・・勝家は反対しますが、盛政の決意は固く、やむなく勝家は、「砦を落としたら、速やかに陣に戻って来る事」を約束させて送り出します。

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賤ヶ岳の戦いの経緯
画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

天正十一年(1583年)4月20日・・・さすがの盛政は、見事、砦を落として勝利しますが、ここで、その勇猛さが裏目に出てしまいます。

どうしても、もう一つ、この勢いの冷めぬまま・・・明日の朝一で、すぐ目の前の賤ヶ岳砦を落としておきたい盛政は、勝家との約束を破って夕方になっても本陣へと戻らず、占領した大岩山砦にて一夜を明かすのです(くわしくは4月20日参照>>)

そこに、あの本能寺の時と同様に、電光石火の早業で美濃から戻って来る秀吉・・・日付が変わった4月21日の午前0時、まさかまさかの南からやって来る秀吉軍の松明の列に気づいた盛政は、後方の飯浦(はんのうら)の切通しに陣取っていた柴田勝政(盛政の弟で勝家の養子)撤退命令を出すとともに、自軍もすかさず撤退を開始します。

おかげで盛政隊は、ほぼ無傷で撤退に成功しますが、勝政は討死・・・それでも、まだ挽回のチャンスはありましたが、ここで、そのチャンスを砕くように、勝家本隊の近くにいた前田利家父子が戦線離脱してしまうのです(くわしくは4月23日参照>>)

反撃を開始しようとした矢先の撤退劇に、北陸勢全体のバランスが崩れ、態勢は一気に敗色へ・・・やむなく勝家は、家臣の毛受勝照(めんじょう・めんじゅかつてる)に後を託して北陸方面へと敗走し、盛政も、それに続きます(くわしくは4月21日参照>>)

その後、勝家は本拠の北ノ庄城まで戻る事ができましたが、盛政は、敗戦のその日、加賀へ戻る途中の越前にて捕えられてしまうのです。

そして、皆様ご存じのように、その後、秀吉軍に北ノ庄城を包囲された勝家は、敗戦から3日後の4月24日、自ら城に火を放ち、妻のお市の方(信長の妹もしくは姪)とともに自害(4月23日参照>>)・・・勝家が推していた信孝も、兄の信雄に攻められ、5月2日に自刃しました(5月2日参照>>)
(ちなみに滝川一益は7月に降伏して出家します)

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賤ヶ岳より余呉湖と古戦場周辺を望む(左手前側が切通し)

そんなこんなの5月7日、生け捕られた盛政は、秀吉の前へと引き出されます。

大きな体格に、いかにも武勇誇る姿の盛政を目の前にした秀吉は、
「君の強さは噂に聞いてるで…どや?この先、九州を平定したら、お前に、そのうちの一国を与えるよって、俺の配下になれへんか?」
と、誘いますが、盛政は、冷やかに笑いながら、
「ウレシイお言葉ですけど、僕を助けて国を与えなんぞしたら、僕は秀吉さんを、今の僕のように生け捕りにして、縄をかけるでしょう。
いくら新たな恩を与えられても、その前に柴田の叔父から与えられた恩を忘れる事はできませんので…」

と言い、「速やかに殺してくれ」と願います。

「ならば、せめて武士らしく切腹を…」
と言うと、盛政は
「願わくば、大紋を染め抜いた紅裏(もみうら=真紅の裏地)の小袖(こそで)に、香を焚き込めた白帷子(かたびら=麻の着物)を賜りたいです。
それを着て人生最期の風流を尽くしたいんです」

と、続けて
「ほんで、縄を打たれた姿で市中を引きまわして、市民に見せびらかしたなら、秀吉さんの名も挙がりますし、それこそ、僕の一世一代の晴れ姿ですわ」
と、罪人として斬刑に処せられる事を願ったのです。

かくして天正十一年(1583年)5月12日、京市中を車で引き回された後、宇治槙島(まきしま=京都府宇治市槇島町)にて斬首されるのですが、その時、検使役(けんしやく=検視する役人・見届人)として同席していた浅野長政(あさのながまさ=秀吉正室・おねの義弟)を前に、
「叔父の進言を聞かずに、このような結果になってしもうたわけやけど…あの猿面郎(さるめんろう・えんめんろう=サル顔の奴)を倒せんかった事だけが、ただ一つ悔やまれる」

Sakumamorimasazansyuehontaikouki その言動に、長政が怒ると、
「君らに武士の志として言い聞かしとくけど…
あの頼朝
(よりとも=源頼朝)さんは、一旦捕まって流罪の身になりながらも諦める事無く、ついには平家を倒して父の仇を討ったんや(2月9日参照>>)
これこそが、大将の志や!
あぁ、気の毒に…その事を、お前は知らんのやな」

と吐き捨てるように言いながら顔をあげ、長政をキッと睨みつけたのだとか・・・

京都市中からここまで、派手々々衣装で引き回されて来たおかげで、この処刑の場にも大勢の見物人が集まって来ていましたが、それらの人々から
「おぉ!」「あっ晴れ」「さすが、噂の剛の者!」
と、次々に声が挙がったにだとか・・・

その後、辞世の和歌を詠じる時も顔色一つ変えず・・・平然と斬首されたという事です。

♪世の中を 廻りも果てぬ 小車は
 火宅の門を 出づるなりけり ♪
 盛政辞世

享年=30・・・

いやぁ~カッコイイ(゚▽゚*)
最期のシーンは、豊臣が滅んだ後に書かれた複数の軍記物等の記述を統合した物なので、話半分な所はありつつも・・・やっぱりカッコイイ!

近代の出来事だと、人の生き死に関わる事について、あれやこれや考えてしまい、素直に表現しづらいのですが、現代とは、価値観もまったく違う戦国の世の事ですから、ここは一つ素直に「カッコイイ~」という事で、お許しを・・・
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2018年5月 6日 (日)

信長&秀吉VS浅井長政~箕浦の戦い

 

元亀二年(1571年)5月6日、浅井長政が信長傘下の堀秀村が守る箕浦城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

永禄十年(1567年)に斎藤龍興(さいとうたつおき)の居城=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させ(8月15日参照>>)、城の名を岐阜城(ぎふじょう)と改めて、以後、岐阜に拠点を置いた織田信長(おだのぶなが)・・・

そんな信長に、
「僕を京都に連れてって~」
と、足利義昭(あしかがよしあき=義秋・後の15代将軍)が打診して来たのは永禄十一年(1568年)の事でした(10月4日後半部分参照>>)

義昭の申し入れを快諾した信長は、岐阜から京都への経路に当たる諸将に、その旨を打診するわけですが、南近江(滋賀県南部)を支配する大物=六角承禎(じょうてい・義賢)と畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)NO「俺んとこ通るな!」の返答・・・(9月7日参照>>)
(ちなみに、三好家の嫡流である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)と重臣の松永久秀(まつながひさひで)はOKでした)

Odanobunaga400a そんな中、以前は六角傘下であったものの、ここんとこ力をつけて来て(10月7日参照>>)いた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)は、(もしくは姪)お市の方嫁がせて懐柔したおかげで、完全なる味方となってくれました(2011年6月28日の前半部分参照>>)

そして、信長は無事上洛を果たし、義昭も第15代室町幕府将軍に就任(10月17日参照>>)・・・

Azainagamasa600 以来、信長は長政の事を「我が弟」と思ってたわけですが、その2年後の元亀元年(1570年)、再三の上洛要請に従わない越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻めるべく金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう=福井県敦賀市金ヶ崎町)へ向った信長を、なんと長政が挟み撃ち!(4月26日参照>>)

あわや、信長は命を落とすところでした。
(4月27日:金ヶ崎の退き口>>)
(5月19日:杉谷善住坊の狙撃>>)

命からがら岐阜に戻った信長・・・当然、このままでは終われません。

こうして、その1ヶ月半後に起こったのが、ご存じ、姉川(あねがわ)の戦いです。
【信長の判断ミス?姉川の合戦】>>
姉川の七本槍と旗指物のお話】>>

この時、勝利した信長は、敗走する者を深追いせず、追撃を停止した事で、負けたとは言え、浅井&朝倉もある程度兵力を温存・・・

そのため、その後に信長は、浅井&朝倉の残党に宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市南滋賀町)を攻撃されて(9月20日参照>>)弟の織田信治(のぶはる)と重臣の森可成(もりよしなり)を失う事になるのです。

その報復をすべく、信長軍が堅田(かたた=滋賀県大津市)を抑えると、浅井&朝倉は比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)の援助を受けて、堅田砦に奇襲をかけて来たのです。

これが元亀元年(1570年)11月の堅田の戦い(11月26日参照>>)ですが・・・

この戦い自体は、正親町(おおぎまち)天皇合戦中止の綸旨(天皇の命令)が下された事で、12月14日に一応の終結をみるのですが、もちろん、こんな講和は、天皇様のお顔を立てたのと、雪深い湖北の冬を見据えての一時的な物・・・

年が明けた正月早々、織田方が動きます。

信長の命を受けた木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が浅井方の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を兵糧攻めにして城将の磯野員昌(いそのかずまさ)に降伏の説得する一方で、琵琶湖上を封鎖して小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)の長政との連絡を遮断すると、小谷からの援軍を期待できなくなった員昌は、城兵500余名の命の保障と引き換えに元亀二年(1571年)2月24日に開城しました(2月24日参照>>)

そこで信長は、この佐和山城を丹羽長秀(にわながひで)に、その北に位置する横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を秀吉に守らせて、浅井との最前線の守りを強化します。

ちょうどその頃、前年の野田福島の戦い(8月26日参照>>)で、信長と敵対していた三好三人衆の味方をして参戦した本願寺・第十一世=顕如(けんにょ=証如の長男)の呼びかけによって、ここ近江でも本願寺門徒による一向一揆が活発化して(9月3日参照>>)来ていた事から、秀吉は横山城の周囲を何重もの柵や垣で囲んで、防備を固めていたわけですが・・・

そんなこんなの元亀二年(1571年)5月6日浅井長政が5000余の兵を率いて姉川を越え、横山城を奪取せんと南下して来たのです。

この時、織田方の最前線の守備についていたのは、秀吉配下の前野長康(まえのながやす=将右衛門)でしたが、浅井方は、それをもろともせず、前年に浅井から織田方へと転身した堀秀村(ほりひでむら)と、その家老=樋口直房(ひぐちなおふさ)が守備を担当している箕浦城(みのうらじょう=滋賀県米原市箕浦)へと押し寄せ、民家に放火し、略奪し、狼藉の限りを尽くしますが、その動向を知った近江の一向一揆宗徒が浅井方に加勢し、同じく、手当たりしだい民家に狼藉を働くのです。

この知らせを横山城で聞いた秀吉・・・箕浦城を救いに行きたいけど、ここ横山城も対・浅井戦線では要所中の要所なので守らねばならず・・・

そこで秀吉は、弟の木下小一郎(こいちろう=秀長)竹中半兵衛(たけなかはんべえ=重治)ら3800余を横山城の守備につけたまま、自らは蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)や先の前野長康などの直属の配下=400足らずと、自らの馬廻り=100余人の合計・約500ほどだけを従えて、真夜中、密かに横山城を出陣します。

闇の中、敵に知られぬように箕浦城間近まで迫り、狼煙(のろし)を合図に城内の堀秀村&樋口直房と息を合わせて、まずは一揆勢に攻めかかります。

この時の一揆勢は約5000ほどだったと言われていますが、お察しの通り、一揆の衆というのは、この時に寄せ集まった烏合の衆でもあるわけで・・・数に劣るとは言え、統制の取れたプロの精鋭たちによる猛攻撃にタイミングを狂わされ、またたく間に300ほどが討ち取られてしまいます。

さらに、一揆を撃破した秀吉勢が浅井軍に突入し始めると、だんだんと押され気味になり、徐々に長沢(ながさわ=米原市)から下坂浜(しもさかはま=長浜市)方面=つまり琵琶湖の方へ琵琶湖の方へと追い込まれ、やがて逃げ場を失い湖中へと・・・こうして、浅井方は多くの溺死者を出したのだとか

やがて、秀吉側の少数精鋭の猛攻にて敗色が濃くなった浅井勢は、撤退して小谷へと戻り、生き残った一揆勢も山中へと姿を消して行ったのでした。

こうして箕浦の戦いは終了・・・大軍を以って出陣した浅井側にとっては、手痛い敗北となってしまいました。

この後の信長は、5月に勃発した長島一向一揆(5月16日参照>>)を相手にした後、9月に、かの近江の一向一揆の拠点であった金ヶ森城(かねがもりじょう=滋賀県守山市・金ヶ森御坊とも)を落とし、その9日後に、あの比叡山焼き討ちを決行するわけですが・・・
【信長の比叡山焼き討ち】
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】

ところで・・・
ドラマや小説で描かれる信長さんは、「怖くて」「恐ろしくて」「鬼のような人」のイメージが強く、一般的にも、そう思われている事が多いですが、何度か、このブログにも書かせていただいておる通り(【信長の蘭奢待・削り取り事件】参照>>)私個人的は、信長さんは「案外イイ人なんじゃないか?」と思っております。

今回の出来事の流れなんか見ていると、やっぱり、そう思ってしまうのです。

もちろん、世は戦国ですから、「ヤラれたらヤリ返す…倍返しだ!」的な雰囲気はありますが、そもそもの金ヶ崎城は、再三の上洛要請(←コレ一応将軍=義昭名義での要請ですから)に応じなかったのは朝倉に方ですし、そこに・・・昔からの縁があるとは言え、同盟を蹴って挟み撃ちにしようとしたのは長政です。

それで姉川に至りながら、深追いされなかったおけげで存できた兵力で、弟と重臣をヤッちゃったわけだし、そこに比叡山は協力したわけだし・・・

その比叡山にも信長は、再三「浅井&朝倉に協力せんといてくれるか~」と勧告をしてたのを、比叡山が聞かなかった末の焼き討ちですから・・・

一方、今回、浅井長政が攻撃した「前年に浅井から織田方へと転身した堀秀村と、その家老=樋口直房…」ですが、この寝返りは「信長が武力で以って…」ではなく、完全なる話し合いで堀さんたちは織田方に寝返っているのです。

この流れを見る限り、先にヤッっちゃってるのは浅井&朝倉や比叡山や一向一揆の方で、信長は、「ヤラれたからヤリ返してる」だけな気がしないでもない・・・確かに、長島一向一揆などの話を聞くと、返しが何10倍ものスゴい物になってる感ありますが、なぜか巷では、信長さんだけがドラマや小説等でクローズアップされてるだけで、殺戮的な報復攻撃は、この時代の戦国武将ならほとんどの人がやってます。。。なんせ、そうしないと納まらない時代でもあったわけですから・・・

そんな信長=イイ人の最たる物が、信長最期の本能寺・・・イイ人でない限り、こんなけ力を持つ人が、あんなけ無防備な状態で寺で寝てへんやろ!てな気がしてます。。。あくまで希望的観測を含む私見ですが・・・

とは言え、最近のドラマでの信長さんのラスボス感ハンパないから、きっと再来年の大河でも悪役なんやろなぁ~(^-^;
ま、主役が明智光秀なんじゃ、仕方ないですが

●享禄四年(1531年)の六角定頼と浅井亮政による箕浦合戦コチラ>>でどうぞ
 .

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