備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親の自刃
天正三年(1575年)6月2日、備中兵乱=第3次・備中松山合戦で、毛利元就に敗れた三村元親が、松山城下の松連寺にて自刃しました。
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周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)氏とを倒し、西国の雄となった安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)・・・
その元就の援助を得た成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)は、永禄二年(1559年)の猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)への攻撃を皮切りに庄為資(しょうためすけ=荘為資)を打ち破り、自らの長男=元祐(もとすけ)を為資の養子とし、庄元資(しょうもとすけ=・荘元祐・穂井田元祐)と名乗らせて猿掛城に置き、自身は松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)の城主となり、成羽城は弟の三村親成(ちかしげ)に任せて、事実上の備中覇者となります(2月15日参照>>)。
しかし、その家親は、永禄九年(1566年)、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下にあった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまいます。
父の死を受けて三村家の当主となった家親の次男=元親(もとちか)は、兄=元資とともに父の弔い合戦をすべく、翌永禄十年(1567年)に直家の明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市・明善寺城)に夜襲をかけますが、
この合戦は、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれるほどの三村側の敗退となって、その追撃戦で兄も討死にしてしまい(元資の死に関しては諸説あり)、かえって直家の浦上家内での地位を上げてしまう事になってしまったのです(7月14日参照>>)。
こうして力をつけた直家は、やがて浦上家からの独立を画策し、主君=宗景と敵対していた毛利と結ぶ事になります。
この同盟に関しては、直家が暗殺&謀略&騙し討ちと腹の中真っ黒けの男だった事で、吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)をはじめ、毛利家内では反対する者も多かったと言いますが、結果的に毛利と宇喜多の同盟が成った以上、ここまで毛利とともに生きて来た元親とて、父の仇&兄の仇と結んだ毛利に対して、物申さぬわけはござんせん。
天正二年(1574年)、「敵の味方は己の敵」&「敵の敵は味方」とばかりに元親は、畿内を制し、さらに西へと進みつつあった織田信長(おだのぶなが)と通じ、浦上宗景とも連携を取る事に・・・となると、毛利も黙ってはいられません。
天正二年(1574年)11月、小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)が、配下の諸将に激を飛ばし、甥の輝元(てるもと=元就の孫)とともに、三村討伐のため、備中へと侵攻したのです(吉川元春は尼子と抗戦中)。
第3次・備中松山合戦(びちゅうまつやまかっせん)、または備中兵乱(びっちゅうひょうらん)と呼ばれる一連の戦いです。
まずは小田(おだ=岡山県矢掛町)に陣を置き、天然の要害と名高い松山城を避けて、先に備中に点在する三村方の諸城を攻略する事にした隆景は、これを機に元親と袂を分かち毛利方に降った三村親成を先鋒に、国吉城(くによしじょう=岡山県高梁市)を攻撃・・・城主の三村政親(みむらまさちか=元親の叔父)は脱出して松山城へと向かうものの、城は年が明けた正月元旦に落城し、残っていた城兵は、ことごとく惨殺されました。
備中兵乱・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
1週間後の1月8日には、楪城(ゆずりはじょう=岡山県新見市・杠城)を陥落させて城主の三村元範(もとのり=元親の弟)を討ち取ります(城外へ逃走後に討たれた説あり)。
次に、元親の親類筋にあたる家臣=河西之秀(かわにしゆきひで=川西之秀)の守る荒平山城(あらひらやまじょう=岡山県総社市)を囲みますが、城兵による鉄壁の守りに阻まれたため、一旦、元親の弟=上田実親(うえださねちか)の守る鬼身城(きのみじょう=岡山県総社市)を数日の攻防の末1月29日に落として実親を自刃させた後、鬼身城の落城を知って戦意を消失した荒平山城を奪いました。
この勢いに、荒平山城の東南に位置していた幸山城(こうざんじょう岡山県総社市)の城主=石川久式(いしかわひさのり・久孝=元親の妹婿)は、松山城を救援すべく、この城を諦めて脱出したため、この幸山城も3月中に陥落しました。
残る三村方の城は、本拠の松山城と、元親の妹が嫁いだ上野隆徳(たかのり)が守る常山城(つねやまじょう=岡山県岡山市)の二つとなってしまいました。
2月の末に宇喜多直家軍が合流した毛利方では、先に常山城を包囲して松山城との連絡を断ち、3月16日、いよいよ松山城への攻撃を仕掛けるのです。
午前6時、高梁川を渡って鶏足山(けいそくさん=岡山県高梁市)に陣取った毛利軍が、城の麓の陣屋を襲撃すると松山城から三村軍の精鋭部隊が押し寄せ、激しい攻防・・・4月4日に、再び毛利軍が、別の陣屋の攻めかかると、今度は陣屋に火をつけて三村軍は一旦、城へ戻る・・・
この攻防戦の後、いよいよ戦場は山城本体へと移りますが、これまでの攻防を見た小早川隆景は、4月24日、長期戦を視野に入れて、松山城の西に位置する成羽の本陣に仮の城を構築します。
なんせ、以前もお話させていただいたように、この松山城は、あの竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市・12月21日参照>>)に勝るとも劣らない雲海に浮かぶ「天空の城」として有名な山城・・・ご存じの方も多かろうと思いますが、日本で最も高所に建つ城で、主郭へと向かう道は、完全に登山道です。
つまり、松山城は複雑な山の地形を利用した天然の要害・・・現存する建物は江戸時代の物ですが、この時代も、山に沿って下から下太鼓丸→上太鼓丸→小松山→天神丸→大松山と、複数の櫓が効果的に配置された防御に富んだ造りで、しかも、本城の小松山にはいくつかの出丸も用意されていましたから、そう簡単に落とせない事は、小早川隆景は百も承知・・・
しかし、ここに来て、先の仮城の構築、そして、同時進行で行っていた三村親成による「内応してくれたら命と身分の保障を約束する」の旧友懐柔作戦が、徐々に功を奏して来たと見え、ポツポツと三村から毛利へ降る者が登場し始めます。
やがて、有力な諸将までもが内応してしまう中、5月20日になって、いよいよ天神丸からの内応者が出て、石川久式の妻子を人質にして数百人が反旗をひるがえして味方に攻撃をし、ほどなく天神丸は陥落したのです。
上記の通りの位置関係で連なっていた松山城・・・中ほどの天神丸が落ちた事によって、本城の小松山と大松山が遮断されてしまい、ここで一気に小松山の本陣から、元親の近習約50名が城外へと逃亡してしまいました。
奪った天神丸を軸に他所も占領する毛利軍は、いよいよ小松山本城の出丸へと迫りますが、真正面からぶつかっても、落とすにはかなりの時間がかかる様子・・・そこで隆景は、今度は、この出丸の諸将に向けて「今すぐ降伏すれば、身分を保障する」の矢文を、5月21日の早朝に射かけます。
すると、その日のうちに出丸の将兵も降伏を申し出・・・残る小松山は完全に孤立してしまいました。
そうなると、さらに離反者が加速し、とうとう元親の近習は石川久式をはじめとするわずかの者だけとなってしまいます。
「もはやこれまで!」
と元親は自刃を決意しますが、家臣に説得されて城外への脱出を試みます。
天正三年(1575年)5月22日・・・・ここで、備中松山城は落城という事になります。
こうして逃走を図る元親でしたが、この脱出の途中に足を踏み外して山道から転落し、しばらくの間気を失っていたところ、悲しいかな、この間に大部分の将兵が逃亡し、残ったのは、わずかに5名の家来たち・・・
彼らに支えられるように高梁川を渡り、阿部山(あべさん=岡山県南西部)へと入る元親ご一行でしたが、今度は、大事な太刀(たち)を鞘走り(さやばしり=刀が自然に鞘から抜け出る事)させてしまい、その拍子に右ひざを深く傷つけてしまいます。
「どんだけ運ないねん!」
と、お気の毒になってきますが、さすがに元親自身も、「これで己の天命が尽きた」と悟り、松山城下の松連寺(しょうれんじ=岡山県高梁市)へと入り、毛利側に使者を送って、
「自刃するので検分(けんぶん=見届け)を…」
と願い出て、
天正三年(1575年)6月2日・・・もともと歌の才能に長けていた元親は、数首の辞世を残した後、切腹・・・旧知の仲(もともとは毛利と同盟関係やったので)であった毛利の家臣=粟屋元方(あわや もとかた)の介錯により、この世をさりました。
♪人といふ 名をかる程や 末の露
きえてぞかへる もとの雫に ♪ 三村元親 辞世
その5日後の6月7日、松山城と同時に囲まれていた常山城も落城します(6月7日参照>>)。
また、間際まで近くにいた石川久式は、元親と離れた後、すでに落城していた幸山城へ戻る事ができないため、部下の友野高盛(とものたかもり)のもとに身を寄せますが、彼の裏切りにより居場所を密告されて殺害されたとも(『桂岌円覚書』)、その密告により毛利方に囲まれ、主君が逝った20日後の6月23日に自刃したとも(『備中兵乱記』)・・・
さらに、その後、捕縛された元親の息子が小早川隆景によって殺害された事で、事実上、戦国武将としての三村家は滅亡したのです。
「昨日の友は今日の敵」・・・毛利と三村の関係を見ても、戦う相手が瞬時に変わる事は戦国の常ではありますが、この後、先の同盟成立時に吉川元春が疑念を抱いた通り、かの宇喜多直家が、信長に降伏して傘下となり、毛利の敵となるのは4年後の天正七年(1579年)10月の事でした。。。【織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦】参照>>
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