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2018年6月26日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦…前野・大森・米田城攻略

 

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する大森城を包囲しました。

・・・・・・・・・

わずか13歳の時に、織田家重臣だった父=森可成(もりよしなり)と兄=可隆(よしたか)宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)で同時に亡くして家督を継いだ森長可(もりながよし)は、以来、主君=織田信長(おだのぶなが)の下で、年上の重臣たちに交じって、彼らに引けを取らぬ働き・・・いや、むしろ年齢が若いぶん、数々の戦いで先陣を切って縦横無尽に戦場を駆け抜ける大活躍ぶりで、天正(1572年~)に入った20歳頃からは、信長の嫡男=信忠(のぶただ)配下の与力として軍の一翼を担う武将となります。

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)でも先陣を切って武田領へと入り、高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)攻め(3月2日参照>>)等で活躍・・・その功績により、戦後の論功行賞で、武田の旧領のうちの信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられます(3月24日参照>>)

ちなみに・・・
これにより、父から受け継いだ美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)は弟の森蘭丸(らんまる=成利)が譲り受けています。

で、翌4月に海津城に入った長可は、早速、新領地の統治に取りかかるわけですが、当然、これまで敵地であった場所を治めるのは容易ではなく、まして、未だ健在の上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後(えちご=新潟県)に近い信濃北部には、これを機に上杉と結ぶ残党もいたわけで・・・

そんな中、織田軍の北陸方面担当だった柴田勝家(しばたかついえ)が絶賛攻撃中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)への救援に、景勝率いる上杉本隊が向った事を知った長可は、信濃の国衆らと交渉しつつ、翌5月には留守となった越後への侵攻も開始します。

ところが、そんなこんなの6月2日・・・ご存じ、あの本能寺の変(6月2日参照>>) が起こります。

主君=信長の死とともに、小姓として本能寺にいた弟たち=蘭丸&坊丸(ぼうまる=長隆)力丸(りきまる=長氏)の死も知った長可。

しかし悲しんでる暇はありません。

当然、仇も討たねばなりませんが、それより、敵地の真っただ中にいる自身の身の安全も・・・早速、撤退を開始した長可ですが、「信長死す」のニュースはまたたく間に敵にも知られる事となり、なんと信濃の国衆では、埴科郡(はにしなぐん)出浦盛清(いでうら もりきよ)以外、全員が驚きの手のひら返しで敵に回ったのだとか・・・

しかも、ともに甲州征伐を成し遂げて、その功績で信濃木曽谷2郡を与えられたばかりの木曽義昌(きそよしまさ)までもが「長可の命を狙っている」てな噂も・・・

なんせ、旧武田の本拠だった甲斐(かい=山梨県)を与えられた河尻秀隆(かわじりひでたか)などは、この時、武田の残党による一揆で、その命落としてます(6月11日参照>>)からね。

この状況を、絶好のチャンスと見たのが、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)でした。

実は忠政は、もともと、本拠としていたこの米田城以外にも、前野城(まえのじょう=岐阜県加茂郡八百津町)という支城や馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)を持つ、このあたりの有力武将でしたが、信長が美濃に侵攻した際に、いち早く味方になった事で、その領地を安堵されたものの、その後に、信長直臣の長可が、自らの領地に隣接する金山城に入った事に嫌悪感を抱きながらいるところを、さらにその後、前野城と馬串山砦を長可に譲渡というか占拠されてしまっていたのです。

しかし、それも、バックに信長が居る事を踏まえて、波風立てないように我慢していたところわけで・・・

その信長がいなくなったわけですから・・・しかも長可は、未だ敵地です。

信長の死の翌日=6月3日の夕刻に、このニュースを知った肥田忠政は早速、兵を集め、5日の早朝に出陣し、わずかの守護兵がいるだけの前野城と馬串山砦を攻撃するのです。

守護兵は守る間もなく金山城へと逃走・・・こうして城と砦を奪還した肥田忠政は、ほどなく金山城から敵がやって来るものと想定していましたが、さすがに、この状況に金山城も右往左往していたのか?(城主の蘭丸も死んでるので)、金山城から新たな兵が来る事は無かったため、しっかりとその動きが無い事を確認した後、守りの兵を置いて、自らは米田城へと引き揚げ、次は、長可が、この美濃に戻って来るところを討ち果たさんと、その準備に入ります。

一方、この間にも、命がけの撤退を決行していた長可・・・近寄る残党を斬って捨て、襲いかかる者すべてをなぎ倒し、鬼の形相で駆け抜けた長可は、6月24日、何とか旧領の金山へと帰還します。
(この事で、その後の長可は、『鬼武蔵』と呼ばれるようになる…らしい)

翌25日、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に立ち寄って織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)らに挨拶を済ませた長可は、留守の間の肥田忠政に行動に怒り爆発な中、彼に味方する東美濃を攻略すべく、その日のうちに出陣したのです。

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

まず向ったのは金山城の南西に位置する上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)・・・当時の城主だった長谷川五郎右衛門は、森勢の攻撃を予想して、すでに防御を固めてはいましたが、城に集う兵はわずかに100・・・

一方の森勢は300ほど・・・しかも可児川(かにがわ=岐阜県木曽川水系)河畔に建つ上恵土城は、河畔側の大手(おおて=正面)は、その段差を利用する絶壁となっていましたが、搦手(からめて=裏面)は緩やかな丘陵でわずかな堀しかなく、いたって守りが弱い。

それを百も承知の森勢は、その数を武器に搦手から一気に攻めまくり、無勢の城側は、またたく間に窮地に陥り、ほどなく落城・・・城内の者は近くの今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)を目指して敗走していきます。

この今渡城には、長谷川五郎右衛門の弟=長谷川彦右衛門が、兄に同調して立て籠もっていましたが、コチラは防御策もほとんど無い、城というよりは居館のような建物であったため、上恵土城からの逃走者を追撃する形で森勢が押し寄せると、その勢いにひとたまりも無く陥落・・・長谷川兄弟も、いずこともなく逃走していきました。

この両城の落城の知らせを聞いて、「いよいよ次は我が城への森勢来襲!」を悟ったのは、大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)・・・要所に柵を配し、女子供を非難させて臨戦態勢を整えた天正十年(1582年)6月26日、森家の重臣=林為忠(はやしためただ)率いる300の先陣が、大森城を取り囲みました。

ただ・・・もはや援軍を望めない大森城が決死の覚悟で防戦したため、容易に落とす事ができなかったため、林為忠は金山城へと援軍の要請をし、合計500となった攻め手で猛攻を仕掛けます。

やがて、多くの死傷者を出すに至った大森城は、「これ以上支える事は不可能」と判断した奥村元広によって火が放たれて落城・・・元広は、この混乱の中、雑兵に紛れて逃走しました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて、この頃、長可は、本能寺で亡くなった弟たちの葬儀を7月2日に執り行おうと準備を整えていましたが、これを知った肥田忠政は近隣の諸将に声をかけ、この機会に金山城を襲撃しようと計画します。

もちろん、この計画を知った長可の怒りはMAX・・・葬儀そっちのけで2日の未明に木曽川(きそがわ)を渡って前野城と馬串山砦をすぐさま奪い返し、その足で米田城に先制攻撃を仕掛けます。

「夜が明けたら…」と思っていたところの思いがけない襲撃に驚いた肥田忠政は、にわかに腹痛に襲われたとかで、応戦を家臣に任せて、自らは素早く加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃れます。

残った城兵は、家老の指揮のもと、なかなかの戦いぶりを見せますが、さすがの大軍相手にはどうにもならず、やがて城に火が放たれて、米田城は落城しました。

こうして、米田城を落とした長可は、すぐさま金山城へと戻り、当初の予定通り葬儀を行ったのだとか・・・

さぁ!次は当然、肥田忠政が逃げ込んだ加治田城~という事になりますが、その続きのお話は、城への攻撃が開始される7月3日のページ【森長可の東濃制圧後半戦】>>でどうぞ・・・m(_ _)m
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