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2018年6月26日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦…前野・大森・米田城攻略

 

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する大森城を包囲しました。

・・・・・・・・・

わずか13歳の時に、織田家重臣だった父=森可成(もりよしなり)と兄=可隆(よしたか)宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)で同時に亡くして家督を継いだ森長可(もりながよし)は、以来、主君=織田信長(おだのぶなが)の下で、年上の重臣たちに交じって、彼らに引けを取らぬ働き・・・いや、むしろ年齢が若いぶん、数々の戦いで先陣を切って縦横無尽に戦場を駆け抜ける大活躍ぶりで、天正(1572年~)に入った20歳頃からは、信長の嫡男=信忠(のぶただ)配下の与力として軍の一翼を担う武将となります。

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)でも先陣を切って武田領へと入り、高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)攻め(3月2日参照>>)等で活躍・・・その功績により、戦後の論功行賞で、武田の旧領のうちの信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられます(3月24日参照>>)

ちなみに・・・
これにより、父から受け継いだ美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)は弟の森蘭丸(らんまる=成利)が譲り受けています。

で、翌4月に海津城に入った長可は、早速、新領地の統治に取りかかるわけですが、当然、これまで敵地であった場所を治めるのは容易ではなく、まして、未だ健在の上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後(えちご=新潟県)に近い信濃北部には、これを機に上杉と結ぶ残党もいたわけで・・・

そんな中、織田軍の北陸方面担当だった柴田勝家(しばたかついえ)が絶賛攻撃中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)への救援に、景勝率いる上杉本隊が向った事を知った長可は、信濃の国衆らと交渉しつつ、翌5月には留守となった越後への侵攻も開始します。

ところが、そんなこんなの6月2日・・・ご存じ、あの本能寺の変(6月2日参照>>) が起こります。

主君=信長の死とともに、小姓として本能寺にいた弟たち=蘭丸&坊丸(ぼうまる=長隆)力丸(りきまる=長氏)の死も知った長可。

しかし悲しんでる暇はありません。

当然、仇も討たねばなりませんが、それより、敵地の真っただ中にいる自身の身の安全も・・・早速、撤退を開始した長可ですが、「信長死す」のニュースはまたたく間に敵にも知られる事となり、なんと信濃の国衆では、埴科郡(はにしなぐん)出浦盛清(いでうら もりきよ)以外、全員が驚きの手のひら返しで敵に回ったのだとか・・・

しかも、ともに甲州征伐を成し遂げて、その功績で信濃木曽谷2郡を与えられたばかりの木曽義昌(きそよしまさ)までもが「長可の命を狙っている」てな噂も・・・

なんせ、旧武田の本拠だった甲斐(かい=山梨県)を与えられた河尻秀隆(かわじりひでたか)などは、この時、武田の残党による一揆で、その命落としてます(6月11日参照>>)からね。

この状況を、絶好のチャンスと見たのが、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)でした。

実は忠政は、もともと、本拠としていたこの米田城以外にも、前野城(まえのじょう=岐阜県加茂郡八百津町)という支城や馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)を持つ、このあたりの有力武将でしたが、信長が美濃に侵攻した際に、いち早く味方になった事で、その領地を安堵されたものの、その後に、信長直臣の長可が、自らの領地に隣接する金山城に入った事に嫌悪感を抱きながらいるところを、さらにその後、前野城と馬串山砦を長可に譲渡というか占拠されてしまっていたのです。

しかし、それも、バックに信長が居る事を踏まえて、波風立てないように我慢していたところわけで・・・

その信長がいなくなったわけですから・・・しかも長可は、未だ敵地です。

信長の死の翌日=6月3日の夕刻に、このニュースを知った肥田忠政は早速、兵を集め、5日の早朝に出陣し、わずかの守護兵がいるだけの前野城と馬串山砦を攻撃するのです。

守護兵は守る間もなく金山城へと逃走・・・こうして城と砦を奪還した肥田忠政は、ほどなく金山城から敵がやって来るものと想定していましたが、さすがに、この状況に金山城も右往左往していたのか?(城主の蘭丸も死んでるので)、金山城から新たな兵が来る事は無かったため、しっかりとその動きが無い事を確認した後、守りの兵を置いて、自らは米田城へと引き揚げ、次は、長可が、この美濃に戻って来るところを討ち果たさんと、その準備に入ります。

一方、この間にも、命がけの撤退を決行していた長可・・・近寄る残党を斬って捨て、襲いかかる者すべてをなぎ倒し、鬼の形相で駆け抜けた長可は、6月24日、何とか旧領の金山へと帰還します。
(この事で、その後の長可は、『鬼武蔵』と呼ばれるようになる…らしい)

翌25日、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に立ち寄って織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)らに挨拶を済ませた長可は、留守の間の肥田忠政に行動に怒り爆発な中、彼に味方する東美濃を攻略すべく、その日のうちに出陣したのです。

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

まず向ったのは金山城の南西に位置する上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)・・・当時の城主だった長谷川五郎右衛門は、森勢の攻撃を予想して、すでに防御を固めてはいましたが、城に集う兵はわずかに100・・・

一方の森勢は300ほど・・・しかも可児川(かにがわ=岐阜県木曽川水系)河畔に建つ上恵土城は、河畔側の大手(おおて=正面)は、その段差を利用する絶壁となっていましたが、搦手(からめて=裏面)は緩やかな丘陵でわずかな堀しかなく、いたって守りが弱い。

それを百も承知の森勢は、その数を武器に搦手から一気に攻めまくり、無勢の城側は、またたく間に窮地に陥り、ほどなく落城・・・城内の者は近くの今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)を目指して敗走していきます。

この今渡城には、長谷川五郎右衛門の弟=長谷川彦右衛門が、兄に同調して立て籠もっていましたが、コチラは防御策もほとんど無い、城というよりは居館のような建物であったため、上恵土城からの逃走者を追撃する形で森勢が押し寄せると、その勢いにひとたまりも無く陥落・・・長谷川兄弟も、いずこともなく逃走していきました。

この両城の落城の知らせを聞いて、「いよいよ次は我が城への森勢来襲!」を悟ったのは、大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)・・・要所に柵を配し、女子供を非難させて臨戦態勢を整えた天正十年(1582年)6月26日、森家の重臣=林為忠(はやしためただ)率いる300の先陣が、大森城を取り囲みました。

ただ・・・もはや援軍を望めない大森城が決死の覚悟で防戦したため、容易に落とす事ができなかったため、林為忠は金山城へと援軍の要請をし、合計500となった攻め手で猛攻を仕掛けます。

やがて、多くの死傷者を出すに至った大森城は、「これ以上支える事は不可能」と判断した奥村元広によって火が放たれて落城・・・元広は、この混乱の中、雑兵に紛れて逃走しました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて、この頃、長可は、本能寺で亡くなった弟たちの葬儀を7月2日に執り行おうと準備を整えていましたが、これを知った肥田忠政は近隣の諸将に声をかけ、この機会に金山城を襲撃しようと計画します。

もちろん、この計画を知った長可の怒りはMAX・・・葬儀そっちのけで2日の未明に木曽川(きそがわ)を渡って前野城と馬串山砦をすぐさま奪い返し、その足で米田城に先制攻撃を仕掛けます。

「夜が明けたら…」と思っていたところの思いがけない襲撃に驚いた肥田忠政は、にわかに腹痛に襲われたとかで、応戦を家臣に任せて、自らは素早く加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃れます。

残った城兵は、家老の指揮のもと、なかなかの戦いぶりを見せますが、さすがの大軍相手にはどうにもならず、やがて城に火が放たれて、米田城は落城しました。

こうして、米田城を落とした長可は、すぐさま金山城へと戻り、当初の予定通り葬儀を行ったのだとか・・・

さぁ!次は当然、肥田忠政が逃げ込んだ加治田城~という事になりますが、その続きのお話は、城への攻撃が開始される7月3日のページ【森長可の東濃制圧後半戦】>>でどうぞ・・・m(_ _)m
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2018年6月21日 (木)

遠江の支配を巡って今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

 

永正十四年(1517年)6月21日、遠江を巡る争いで引馬城に籠った大河内貞綱斯波義達に対し、今川氏親が攻撃を仕掛けました・・・第3次・引馬城の戦いです。

・・・・・・・・・

引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区)は、引間城とも曳馬城とも表記され、住所をご覧になってお察しの通り、現在の浜松城(はままつじょう)の場所に、かつてあったお城です。

かの武田信玄(たけだしんげん)と協力して今川氏真(いまがわうじざね)を倒した(12月27日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)が、遠江(とおとうみ=静岡県西部)に乗り込んだ(3月27日参照>>)元亀元年(1570年)に、この引馬城に入城して、その名を浜松城に改称したわけですが、その浜松城内の北東部分が、かつての引馬城の中心部分で、あの元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)時にも、浜松城の本丸を捨てて、コチラ=北東部分の防備を固めたとされるくらい、この引馬城の建ってた場所は重要拠点だったようです。

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安政元年に描かれた浜松城絵図…二の丸右上の出っ張り部分が引馬城の痕跡

そんな引馬城のあった遠江・・・そもそも、室町幕府政権下で、この遠江の守護(しゅご=県知事みたいな)を任されていたのは今川(いまがわ)でした。

ご存じのように、この今川は、足利(あしかが)一門の吉良(きら)の分家にあたる名門で代々駿河(するが=静岡県東部)の守護を世襲するとともに、この遠江も支配していたわけですが、応永年間(1394年~1427年)の終わり頃から、遠江今川家5代の今川範将(のりまさ)が一揆に関わった事や、守護代の狩野(かのう)が力をつけて来た事などから、息子で6代目の今川貞延(さだのぶ)遠江を追い出されて駿河の今川義忠(よしただ=義元の祖父)を頼り、以後、この遠江は斯波(しば)が守護となったという経緯がありました。

このため、今川と斯波の間には大きな亀裂が・・・

とは言うものの、一方の斯波氏も、室町幕府将軍家の足利一門であり、なんなら細川(ほそかわ)畠山(はたけやま)とともに、三管領(さんかんれい=将軍を補佐する執事を輩出する3つの家柄)の一つ=つまり、室町幕府政権下ではメッチャ中心部の力のある家柄だったわけで、代々守護を任されていた領国も、越前(えちぜん=福井県東部)尾張(おわり=愛知県西部)と広大でしたし、義忠の時代には、あの応仁の乱(5月28日参照>>)も絡んで敵味方の入り乱れ状態となっていましたから、何度か刀を合わせつつも、遠江の情勢は混沌としたまま、結局、文明八年(1476年)の4月、不意を突いた一揆勢に襲われて、義忠は命を落とします(4月6日参照>>)

当主の急死に、後継者を巡る家督争いが勃発した今川家でしたが、そこに仲裁に入ってくれた叔父=北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹のおかげで、無事、義忠の長男の今川氏親(うじちか)が家督を継ぐ事で落ち着きました。

こうして、今川の当主となった氏親は、父の時代にウヤムヤになっていた遠江を奪回すべく侵攻を試みるのです。

永正十年(1513年)、この氏親の動きを受けて、遠江引馬荘の代官で引馬城主の大河内貞綱(おおこうちさだつな)反今川の狼煙を挙げ、そこに見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・見付端城とも)堀越貞基(ほりこしさだもと=用山・今川貞延の息子)も加わったため、氏親は即座に討伐隊を構成し、引馬城へ攻撃を仕掛けました。

これを見込んで、すでに斯波義達(しばよしたつ)に援軍を要請していた大河内貞綱でしたが、氏親軍の動きが予想以上に早く、援軍が未だ来ない永正十年(1513年)3月7日引馬城は陥落し、第1次・引馬城の戦いは終結しました。

この時、敗軍の将となった大河内貞綱は、当然、その命奪われるはずでしたが、貞綱の主家である吉良家が仲裁に入って謝罪したため・・・と、先に書かせていただいた通り、今川家と吉良家は同族なので、その好で氏親は城を奪っただけで、貞綱の命を取る事はしなかったのです。

こうして、貞綱に代わって城には、同じく吉良を主家に持つ、親今川派の飯尾賢連(いのおかたつら)が入ったのですが・・・

ところが、その翌年・・・貞綱は、氏親が軍勢とともに領国へ戻ったのを見計らって、弟の巨海道綱(こみみちつな・おおみみちつな)と組んで飯尾賢連を追い落とし、引馬城に立て籠もってしまったのです。

永正十一年(1514年)8月18日、再び戻って来た氏親軍は、引馬城へと総攻撃を仕掛けるのですが、これがなかなか手ごわい・・・

しかし、やがて一人の武将が、うまく塀を乗り越えて城内へと侵入し、城門を開ける事に成功・・・怒涛の如く流入する兵士を抑えきれず引馬城は陥落し、大河内貞綱らは、裏門から逃走して行ったのです。

これが第2次・引馬城の戦い・・・またしても引馬城を追われた大河内貞綱でしたが、まだ諦めません。

やがてチャンスがやって来ます。

永正十年(1513年)頃から始まった甲斐(かい=山梨県)河内領(かわちりょう=山梨県の西八代郡と南巨摩郡)を領していた穴山(あなやま)(甲斐武田氏の一族)の内紛の末、当主の座を得た穴山信風(あなやまのぶかぜ)が今川派となった事、また、周辺の国衆もが乗っかって今川指示の姿勢を見せた事で、「これはイケる!」とばかりに、氏親が永正十二年(1515年)10月、大軍を率いて甲斐に出陣したのです。

当然、駿河や遠江は手薄になるわけで・・・

こうして、翌・永正十三年(1516年)3月、大河内貞綱が氏親に対する反乱を起こした事で、第3次・引馬城の戦いが始まったのです。

その3ヶ月後の6月には斯波義達も引馬城へと入り、反今川派によって城は占拠されてしまいます。

この状況に、一刻も早く甲斐を出て遠江に向かいたい氏親は、配下の宗長(そうちょう)を使者として、交戦中だった武田信虎(たけだのぶとら=信玄の父)のもとに送ります。

この宗長という人は、島田(しまだ=静岡県島田市)出身の僧で、京都の大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)にて一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から禅を学び、宗祇(そうぎ)から連歌を教わった連歌師・・・当時は、氏親に仕えていた今川お抱え連歌師でしたが、ご存じのように、僧という立場は現世とは無縁ですし、連歌師もまた合戦とは無縁の者・・・

宗長の尽力により、何とか、武田との戦いを講和に持ちこんだ(1月12日参照>>)氏親は永正十四年(1517年)6月、連日の雨により、川幅が大幅アップし、海のようになっている天竜川に船橋を架けて渡り、永正十四年(1517年)6月21日引馬城に到着後、早速、城への攻撃を開始します。

しかし、正面から力づくでぶつかっても、なかなか落とせない堅固な守りに苦戦した氏親は、長期戦へと方向転換・・・梅ヶ島金山(うめがしまきんざん=静岡県静岡市葵区・安倍金山とも)の金堀り職人を召集し、穴を掘らせて井戸の水を抜き、引馬城の水の手を断ちます。

籠城戦において、最も重要な水・・・これを断たれては、もはや時間の問題です。

案の定、合戦開始から約3ヶ月後の8月19日・・・枯渇による飢餓状態に陥った城兵が、作戦も何もなく、無我夢中で撃って出て来たところを迎え撃って一網打尽にしたのです。

この戦いで大河内貞綱&巨海道綱兄弟は覚悟の自殺を図りますが、斯波義達は普済寺(ふさいじ=静岡県浜松市中区)に入って頭を丸めて、家督を息子の斯波義統(よしむね)に譲って降伏の意を表明した事で、その命は守られ、尾張へと送られました。

ただし、引退して後継に命つないだとは言え、その失脚感はハンパなく・・・しかも、この一連の対今川の戦いに反対して参戦していなかった斯波配下の尾張守護代=織田(おだ)が、義達の失脚によって盛り返して来て、やがて、頭角を現してくる織田信秀(おだのぶひで)(3月3日参照>>)からの織田信長(おだのぶなが)・・・と、最終的に尾張は織田の物になってしまうわけで・・・

一方、完全勝利となった氏親は、これによって、この先、浜名湖周辺を抑える事ができ、その支配は、息子の今川氏輝(うじてる)からの弟=今川義元(いまがわよしもと)海道一の弓取りへと引き継がれる事になります。

に、しても・・・ドラマで戦国、と言えば、この後の時代から~てのばかりですが、なんで?このあたりのドラマをやらないのだろう???

やっぱ有名どころが出ないと視聴率が取れないのでしょうか?
いつか、信長や義元の父ちゃんたちの時代劇も見てみたい物ですね~
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2018年6月15日 (金)

織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦

 

天正八年(1580年)6月15日、織田方へと降った宇喜多直家が、毛利方の湯原春綱らが守る美作祝山城を包囲しました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代の中国地方を、長きに渡って二分して来たのが、山陰を牛耳る出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)と、山陽に勢力を広げる周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)・・・中国地方の国人領主たちは、その大物の間に挟まれて、度々揺れ動く状態でしたが、

いつしか、その両者の間を縫うように頭角を現して来たのが安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)でした。

始めは尼子傘下だったのが、途中で大内に鞍替えし(1月13日参照>>)、やがて、その両方を倒して西国の覇者となりつつあった元就・・・
厳島の戦い(10月1日参照>>)
月山富田城の開城(11月28日参照>>)

それと前後して、上り調子の毛利の力を借りて、備中(びっちゅう=岡山県西部)の覇者となった松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)主=三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)が、毛利と敵対する備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下の宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまった事で、父の死を受けて後を継いだ息子の元親(もとちか)は直家を敵視するようになるのですが、

そんなこんなの天正元年(1573年)、5年前に上洛を果たして(9月7日参照>>)畿内を制していた織田信長(おだのぶなが)を、毛利に攻められて一旦滅亡した尼子が頼った事から(5月14日参照>>)、信長の中国攻めが確定的となり、当然、織田は毛利と敵対関係に・・・同じ頃には浦上宗景も信長を頼り、領地安堵の約束を取り付け、コチラも織田傘下という事になっています。

Ukitanaoie300a そうなった所で、主君=浦上からの独立を試みる宇喜多直家が、敵の敵は味方とばかりに、天正二年(1574年)に毛利の傘下となった事から、「父の仇」の恨みを持つ三村元親は、やっぱり敵の敵は味方とばかりに、逆に織田へ通じてコチラも毛利から鞍替え・・・

この三村の離反に怒った元就は、翌天正三年(1575年)、孫の毛利輝元(てるもと)と息子の小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)を派遣して松山城を攻め、三村をせん滅します(6月2日参照>>)

その後も、毛利の傘のもと備中から美作(みまさか=岡山県東部)へと支配地域を拡大し、浦上宗景の追放をも果たす宇喜多直家でしたが、信長軍の中国方面攻略担当の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の攻撃戦線が本格的となった天正五年(1577年)には、支城としていた上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を落とされ、そこに、あの尼子の残党が入城・・・

当然、毛利はこれを奪い返そうとするわけですが・・・実は直家、この上月城奪還戦には参戦してません。

どうやら、このあたりから、日和見=つまり、毛利と織田のどっちが強いか?二股かけて様子見ぃしてたっぽい・・・もちろん、イケる方に味方しようと考えてたわけですが、

さりとて、他の城の攻略に忙しい織田方は、上月城への援軍に数を割けず、結局、上月城は天正六年(1578年)7月に落城し、毛利の手に・・・(5月4日参照>>)

そんなこんなの天正七年(1579年)、2月~3月頃から、ちょくちょく毛利への反発の姿勢を見せ
(●2月17日「作州合戦」参照>>)
(●3月13日「辛川崩れ」参照>>)
秀吉を通じて織田への内応を打診し始めた直家は、10月になって従兄弟の宇喜多基家(もといえ=直家の養子?)を信長のもとに派遣して降伏します。

こうして、正式に織田の傘下となった直家は、一族を動員して、備中で忍山城(しのぶやまじょう=岡山県岡山市北区)を陥落させ、天正八年(1580年)6月15日には、毛利方の属城である祝山城(いわいやまじょう=岡山県津山市)を包囲したのです。

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祝山合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この祝山城は、医王山城(いおうやまじょう)岩尾山城(いわおやまじょう)とも呼ばれ、津山から加茂川に沿って鳥取方面へと抜ける街道沿いにある事から、古くから攻防の要所として、絶え間なく取ったり取られたりしていた場所で、戦国時代に入って、しばらくは尼子の物となっていたのを浦上が奪い、それをまた尼子が奪い返し、尼子の滅亡後は毛利の物となって、毛利配下の福田盛雅(ふくだ もりまさ)が城主を務め、この時は、湯原春綱(ゆはらはるつな)らが援軍として入城していました。

直家が祝山周辺に数ヶ所の付城(つけじろ=攻撃のための出城)を設置して完全包囲した事から、やがて祝山城は兵糧不足に陥り窮地に立たされます。

この状況を救援すべく、毛利輝元自らが小早川隆景とともに出陣・・・そこに吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)も加わって、まずは忍山城を総攻撃し、またたく間に陥落させます。

しかし、備前の忍山城から美作の祝山城までの間には、虎倉城(こくらじょう=岡山県岡山市北区)篠向城(ささぶきじょう=岡山県真庭市・篠葺城)など、まだまだいくつかの城が立ちはだかっていました。

それらの諸城に対し、城下に火を放って包囲したり、あるいは陥落させつつ、着々と侵攻していく毛利軍・・・しかし、やがて織田の支援を受けた宇喜多軍が反撃に出ます。

これまで、宇喜多家臣の江原親次(えばらちかつぐ)から昨年奪った寺畑城(てらはたじょう=岡山県真庭市)を拠点に宇喜多に属する諸城を攻撃していた毛利方でしたが、今回の猛反撃で形成が不利となって陣を南下せざるを得なくなり、ここに来て祝山城の救援は限りなく難しくなって来ます。

それでも輝元は、9月には一旦戻っていた本拠=吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市)を再び出陣し、同じく小早川隆景とともに高田(たかだ=岡山県真庭市)に着陣しますが、宇喜多勢に阻まれて、どうしても、その先に進めません。

11月15日になって、未だ籠城して踏ん張る祝山城に向けて、銀10枚とともに、
「宇喜多が数か所の付城で包囲して昼夜を問わず攻撃して来るため、かなり進み難い…にも関わらず、籠城して持ち堪えている君らの忠義は素晴らしい!
救援の事は元春らと相談して早めに何とかするので、それまで、守りを固めて頑張ってくれ」

と激励の手紙を送っていますが、結局、その元春の救援を待つ事ができず、祝山城は、この年の12月下旬に城を明け渡す事になり、城を守っていた諸将も退去します。

このため、輝元&隆景の両人も、美作から撤退して備中へと帰還したのでした。

と言っても、もちろん、これはつかの間の休戦・・・これ以降も、直家は周辺を転戦して毛利傘下の諸将と合戦する事になりますが、一方で、秀吉も、この時すでに播磨(はりま=兵庫県南西部)を平定しており、
●4月1日:【英賀城の戦い】>>
●4月24日:【長水城の戦い】>>
翌・天正九年(1581年)10月には鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)を干殺しにし(10月25日参照>>)、さらに、その翌年の天正十年(1582年)には、有名な備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)の水攻め(6月4日参照>>)・・・となりますが、ご存じのように、ここで、あの本能寺(6月2日参照>>)

本能寺で死んだ信長の弔い合戦をすべく、一旦、毛利と和睦して京都へと向かう秀吉(6月6日参照>>)・・・一方で、その和睦で以って、美作一帯は宇喜多の物となったものの、本能寺の一件が影響したのか?毛利も簡単には撤退せず、宇喜多&毛利、両者の関係はさらに悪化するのですが、

実は、直家自身は、すでに天正九年(1581年)の末、もしくは天正十年(1582年)の正月に、居城の岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)にて病死しており、この後の毛利とのアレやコレやは、幼くして宇喜多の家督を継いだ息子の秀家(ひでいえ)が、秀吉のサポートを受けながら挑んでいく事になるのですが、そのお話は、いずれまたの機会にさせていただきたいと思います。
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2018年6月 8日 (金)

本能寺のドサクサで…稲葉一鉄VS安藤守就の本田・北方合戦

 

天正十年(1582年)6月8日、本能寺の変のドサクサで旧領を回復しようとした安藤守就と、それを阻止する稲葉一鉄が戦った本田・北方合戦がありました。

・・・・・・・・・

永禄十年(1567年)8月に、あの織田信長(おだのぶなが)が、斎藤道三(さいとうどうさん=利政)の孫にあたる龍興(たつおき)を破って手に入れた美濃(岐阜県)稲葉山城(いなばやまじょう)(8月15日参照>>)・・・ご存じのように、信長は、この稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改め、ここを拠点として天下への一歩を踏み出したわけですが、

それには、この半月ほど前に、主君を見限って織田方に内応してくれた西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)の影響が大きかったのです(8月1日参照>>)

その西美濃三人衆とは、
西美濃曾根城主稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)
西美濃大垣城主氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)
西美濃北方城主安藤守就(あんどうもりなり)
の三人・・・

いずれも、斎藤以前に美濃の守護であった土岐頼芸(ときよしなり)の時代からの家臣たちですから、内々の事や地の利を知りつくした彼らが内通してくれたおかげで、その後に続く者も多数出て、一気に城を落とす事ができた事は確か・・・

その後の彼らは、もちろん、信長直属の部隊として各地で活躍・・・元亀元年(1570年)の、あの姉川(あねがわ)の戦いなどは、彼ら西美濃三人衆の側面攻撃失くしては信長の勝利も危うかったかも(6月28日参照>>)

それ故、危険も多く、信長最大のピンチとも言われる元亀二年(1571年)5月の最初の長島一向一揆戦では、退却の殿(しんがり=最後尾)を務めた氏家卜全が討死しています(5月16日参照>>)

しかし、残る二人は、その後も柴田勝家(しばたかついえ)の援軍として加賀(かが=石川県南部)に行ったり、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の援軍として中国攻めに向かったり・・・と、西に東に転戦していたわけですが、

そんなこんなの天正八年(1580年)、安藤守就は、突然、信長から謀反を疑われて息子=定治(さだはる=尚就とも)共々、追放されてしまうのです。

『信長公記』では、石山合戦でゴチャゴチャやってた信長が1番ややこしい時期に「野心含み申す」=つまり、信長のピンチに乗じて謀反を計画したという事になってますが、一説には、息子の定治が、絶賛敵対中の武田勝頼(たけだかつより)に通じた・・・という話もあり。

ただし、それも、本当に、この父子に謀反や裏切りの気持ちあったのか?信長の疑心暗鬼の思い違いなのか?は定かでなく・・・なんせ、この6年前の天正二年(1574年)には、稲葉一鉄も謀反の疑いをかけられ追放されかけた事もありましたから。

この時の一鉄は、見事にその疑いを晴らしたわけですが(11月19日参照>>)、安藤父子の場合は残念ながら、美濃の武儀郡(むぎぐん=岐阜県関市付近)蟄居(ちっきょ=謹慎)となり、その身は一鉄に預けられたのです。

そんなこんなの天正十年(1582年)6月2日、京都で、あの本能寺の変が起こり、信長が横死(6月2日参照>>)・・・これを機に、安藤父子が旧領の回復に立ちあがったのです。

そこには散り々々になっていた一族や旧家臣たちが続々と集まって来て、鏡島城(かがしまじょう=岐阜県岐阜市鏡島)河渡城(こうとじょう=岐阜県岐阜市河渡)北方城(きたがたじょう=岐阜県本巣郡北方町)本田城(ほんでんじょう=岐阜県瑞穂市本田)軽海西城(かるみにしじょう=岐阜県本巣市軽海)などの旧領周辺の諸城に立ち返り、防備を固める修復作業に入ったのです。

Inabaittetu700a これを知った稲葉一鉄・・・「このままでは美濃が無法地帯となってしまう」とばかりに、まずは、この時、岐阜城内にいた甥っ子である斎藤利堯(さいとうとしたか=一鉄の妹と斎藤道三の子)城内を掌握させて、周辺に禁制を掲げて、織田×明智の両方に味方しない=中立の立場を取るとして不動の構とさせました。

また、安藤父子に対しては、もともとは彼らの持城であったとは言え、現段階では自分の領地の城に無断で入って勝手に合戦の準備をされてしまっている状況・・・

ただ、畿内の慌てぶりも想像に難くない中で、この急を要する事態の采配を上層部に問うている場合では無いわけで・・・

しかも、上記の甥っ子への指示なんか見ると、ひょっとしたら一鉄には、これを機に独立しようとの考えもあったかも知れず・・・

とにもかくにも、一鉄は、織田×明智のどちらにも連絡する事無く、自身の判断で以って、安藤父子の討伐を決意するのです。

まずは、安藤の重臣である稲葉長右衛門(いなばちょうえもん)が籠る本田城へ・・・一鉄方は、稲葉左近(いなばさこん)加納雅楽(かのううた)数十騎が一丸となって攻めかかって激しく交戦しますが、痛手も多く、一旦退却しようとしている所へ村瀬大隅(むらせおおすみ)率いる精鋭80余騎が駆けつけ、城将の長右衛門を討ち取ったほか、多くの首級を挙げ、残党も追撃して、一鉄側の大勝利となります。

幸先の良いスタートにゴキゲンの一鉄は、次に安藤父子らメインキャストの籠る北方城へと駒を進めます。

さすがにコチラは城下にいくつもの陣を設けて、安藤側も万全の守備態勢・・・

かくして天正十年(1582年)6月8日未明・・・北方城下に一鉄が押し寄せて、戦闘開始となります。

激しいぶつかり合いの末、午前10時頃には双方ともに100名以上の戦死者を出しますが、その死者の中には安藤守就も・・・84歳という高齢ながら、見事に自軍を指揮し千代保ヶ淵(ちよぼがふち=北方城の西側)付近で、壮絶な討死を遂げたとの事。

息子の定治も一族&旧臣らとともによく戦ったものの、数に勝る一鉄勢に押され、やはり討死します。

主を失った軍団は、やがてバラバラになって敗走し、北方城が陥落・・・ここに戦国武将の美濃安藤氏は滅亡しました。

こうして、北方での合戦に勝利した一鉄は、息子の貞通(さだみち)を軽海西城に、自らは河渡城へと向かったと言います。

その後、安藤父子の遺体は、一鉄の手配にて、配下の者から、すでに仏門に入っていた守就の弟=湖叔(こしゅく?)のもとに送られ、龍峰寺(りゅうほうじ=岐阜県岐阜市)に葬られました。

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本田・北方合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、ここらあたりの事は、残っている史料が少なく、実はかなり曖昧で、今回の安藤父子の場合、「本田や北方の城に入って防備を固める」どころか、城を奪い返す前に合戦状態となって、そのまま鎮圧されたとも言われます(←つまり城は奪い取ってない?)

また、一説には、この時の安藤の敗戦を伝え聞いた岐阜城の池田信輝(のぶてる)が、救援のために2000騎を率いて河渡城へと向かい、先鋒として迎え撃った稲葉家臣=石川三衛門(いしかわさんえもん)なる武将の部隊を全滅させてしまった事で、この池田隊の襲撃を恐れた一鉄が、自らの居城=根城(そねじょう=岐阜県大垣市)に戻って、周辺の百姓たちを総動員して数百の幟(のぼり)を立て、一晩中かがり火を焚かせて警戒していたものの、池田隊の、それ以上の攻撃は無かった・・・なんて話もあるとか・・・

でも、この池田信輝って、あの池田恒興(つねおき)の事ですよね?

確か、この本能寺の変の頃の恒興は、荒木村重(あらきむらしげ)との花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市中央区)戦い(3月2日参照>>)の功績により、摂津(せっつ=大阪府北中部)一帯を領地としていたはず・・・まぁ、恒興は、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)の付属なので、当時は信忠が城主だった岐阜城にいたとしてもおかしくは無いのかも知れませんが、一般的には、本能寺の一報を聞いて、あの「中国大返し」(6月6日参照>>)で戻って来た秀吉らに、摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)で6月12日に合流して、ともに山崎の合戦にて明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)というのが定説です。

その恒興が、その4日前に稲葉勢と相まみえるとは非常に考え難い・・・しかも、上記の通りだとすると、岐阜城は中立の立場にあったわけですし・・・

で、勝手な妄想をお許しいただくなら・・・この時の池田は恒興ではなく、ひょっとしたら恒興の四男で、軽海西城主の池田家家老=片桐俊元(かたぎりとしもと)の養子となっていた池田長政(ながまさ)の事なのでは?

後に大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)主となった恒興とともに、その出城である池尻城(いけじりじょう=同大垣市)へと片桐俊元が移るのは、この本能寺の変の翌年ですから、直後この頃は、未だ、自らの軽海西城にいたはず・・・なら養子の長政も~と思いきや長政は天正三年(1575年)生まれだから、まだ8歳だったww

て事は、稲葉配下の石川隊を全滅させたのは片桐俊元自身なのか?

だって、この時、安藤父子に奪われていないのであれば、軽海西城は片桐俊元の城なわけですから、そこに、ひょっとしたらこのチャンスに独立しようとしているかも知れない一鉄の息子=貞通が侵攻して来た事になるわけで・・・そりゃ守りますわな~

いやいや、あくまで妄想ですが、そう考えると、やれ数十騎だ、80余の援軍だって合戦に、「2000騎を率いて参戦する池田隊」の辻褄が合う気はします。

いやはや、辻褄の合わない記述を引っ張り出して、アレコレ想像するのは楽しいです。

ただ、今回の本能寺の変のドサクサで、信長傘下の者同志、あるいは旧武田の遺臣などとの戦いがアチコチ起こった事は確かで、細かな事はよくわからない部分が多いものの、おそらくは、この美濃一帯でも、そのような、ドサクサ紛れの領地の奪い合いがあったものと思われます。

★参照:本能寺のドサクサで起こった戦い
神流川の戦い>>
河尻秀隆と武田残党>>
長宗我部元親の阿波平定>>
天正壬午の乱>>
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2018年6月 2日 (土)

備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親の自刃

 

天正三年(1575年)6月2日、備中兵乱第3次・備中松山合戦で、毛利元就に敗れた三村元親が、松山城下の松連寺にて自刃しました。

・・・・・・・・・・・

周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)とを倒し、西国の雄となった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)・・・

その元就の援助を得た成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)は、永禄二年(1559年)の猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)への攻撃を皮切りに庄為資(しょうためすけ=荘為資)を打ち破り、自らの長男=元祐(もとすけ)を為資の養子とし、庄元資(しょうもとすけ=・荘元祐・穂井田元祐)と名乗らせて猿掛城に置き、自身は松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)の城主となり、成羽城は弟の三村親成(ちかしげ)に任せて、事実上の備中覇者となります(2月15日参照>>)

しかし、その家親は、永禄九年(1566年)、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下にあった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまいます。

父の死を受けて三村家の当主となった家親の次男=元親(もとちか)は、兄=元資とともに父の弔い合戦をすべく、翌永禄十年(1567年)に直家の明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市・明善寺城)に夜襲をかけますが、

この合戦は、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれるほどの三村側の敗退となって、その追撃戦で兄も討死にしてしまい(元資の死に関しては諸説あり)、かえって直家の浦上家内での地位を上げてしまう事になってしまったのです(7月14日参照>>)

こうして力をつけた直家は、やがて浦上家からの独立を画策し、主君=宗景と敵対していた毛利と結ぶ事になります。

この同盟に関しては、直家が暗殺&謀略&騙し討ちと腹の中真っ黒けの男だった事で、吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)をはじめ、毛利家内では反対する者も多かったと言いますが、結果的に毛利と宇喜多の同盟が成った以上、ここまで毛利とともに生きて来た元親とて、父の仇&兄の仇と結んだ毛利に対して、物申さぬわけはござんせん。

天正二年(1574年)、「敵の味方は己の敵」&「敵の敵は味方」とばかりに元親は、畿内を制し、さらに西へと進みつつあった織田信長(おだのぶなが)と通じ、浦上宗景とも連携を取る事に・・・となると、毛利も黙ってはいられません。

天正二年(1574年)11月、小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)が、配下の諸将に激を飛ばし、甥の輝元(てるもと=元就の孫)とともに、三村討伐のため、備中へと侵攻したのです(吉川元春は尼子と抗戦中)

第3次・備中松山合戦(びちゅうまつやまかっせん)、または備中兵乱(びっちゅうひょうらん)と呼ばれる一連の戦いです。

まずは小田(おだ=岡山県矢掛町)に陣を置き、天然の要害と名高い松山城を避けて、先に備中に点在する三村方の諸城を攻略する事にした隆景は、これを機に元親と袂を分かち毛利方に降った三村親成を先鋒に、国吉城(くによしじょう=岡山県高梁市)を攻撃・・・城主の三村政親(みむらまさちか=元親の叔父)は脱出して松山城へと向かうものの、城は年が明けた正月元旦に落城し、残っていた城兵は、ことごとく惨殺されました。

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備中兵乱・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

1週間後の1月8日には、楪城(ゆずりはじょう=岡山県新見市・杠城)を陥落させて城主の三村元範(もとのり=元親の弟)を討ち取ります(城外へ逃走後に討たれた説あり)

次に、元親の親類筋にあたる家臣=河西之秀(かわにしゆきひで=川西之秀)の守る荒平山城(あらひらやまじょう=岡山県総社市)を囲みますが、城兵による鉄壁の守りに阻まれたため、一旦、元親の弟=上田実親(うえださねちか)の守る鬼身城(きのみじょう=岡山県総社市)を数日の攻防の末1月29日に落として実親を自刃させた後、鬼身城の落城を知って戦意を消失した荒平山城を奪いました。

この勢いに、荒平山城の東南に位置していた幸山城(こうざんじょう岡山県総社市)の城主=石川久式(いしかわひさのり・久孝=元親の妹婿)は、松山城を救援すべく、この城を諦めて脱出したため、この幸山城も3月中に陥落しました。

残る三村方の城は、本拠の松山城と、元親の妹が嫁いだ上野隆徳(たかのり)が守る常山城(つねやまじょう=岡山県岡山市)の二つとなってしまいました。

2月の末に宇喜多直家軍が合流した毛利方では、先に常山城を包囲して松山城との連絡を断ち、3月16日、いよいよ松山城への攻撃を仕掛けるのです。

午前6時、高梁川を渡って鶏足山(けいそくさん=岡山県高梁市)に陣取った毛利軍が、城の麓の陣屋を襲撃すると松山城から三村軍の精鋭部隊が押し寄せ、激しい攻防・・・4月4日に、再び毛利軍が、別の陣屋の攻めかかると、今度は陣屋に火をつけて三村軍は一旦、城へ戻る・・・

この攻防戦の後、いよいよ戦場は山城本体へと移りますが、これまでの攻防を見た小早川隆景は、4月24日、長期戦を視野に入れて、松山城の西に位置する成羽の本陣に仮の城を構築します。

なんせ、以前もお話させていただいたように、この松山城は、あの竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市・12月21日参照>>に勝るとも劣らない雲海に浮かぶ「天空の城」として有名な山城・・・ご存じの方も多かろうと思いますが、日本で最も高所に建つ城で、主郭へと向かう道は、完全に登山道です。

つまり、松山城は複雑な山の地形を利用した天然の要害・・・現存する建物は江戸時代の物ですが、この時代も、山に沿って下から下太鼓丸上太鼓丸小松山天神丸大松山と、複数の櫓が効果的に配置された防御に富んだ造りで、しかも、本城の小松山にはいくつかの出丸も用意されていましたから、そう簡単に落とせない事は、小早川隆景は百も承知・・・

しかし、ここに来て、先の仮城の構築、そして、同時進行で行っていた三村親成による「内応してくれたら命と身分の保障を約束する」の旧友懐柔作戦が、徐々に功を奏して来たと見え、ポツポツと三村から毛利へ降る者が登場し始めます。

やがて、有力な諸将までもが内応してしまう中、5月20日になって、いよいよ天神丸からの内応者が出て、石川久式の妻子を人質にして数百人が反旗をひるがえして味方に攻撃をし、ほどなく天神丸は陥落したのです。

上記の通りの位置関係で連なっていた松山城・・・中ほどの天神丸が落ちた事によって、本城の小松山と大松山が遮断されてしまい、ここで一気に小松山の本陣から、元親の近習約50名が城外へと逃亡してしまいました。

奪った天神丸を軸に他所も占領する毛利軍は、いよいよ小松山本城の出丸へと迫りますが、真正面からぶつかっても、落とすにはかなりの時間がかかる様子・・・そこで隆景は、今度は、この出丸の諸将に向けて「今すぐ降伏すれば、身分を保障する」の矢文を、5月21日の早朝に射かけます。

すると、その日のうちに出丸の将兵も降伏を申し出・・・残る小松山は完全に孤立してしまいました。

そうなると、さらに離反者が加速し、とうとう元親の近習は石川久式をはじめとするわずかの者だけとなってしまいます。

「もはやこれまで!」
と元親は自刃を決意しますが、家臣に説得されて城外への脱出を試みます。

天正三年(1575年)5月22日・・・・ここで、備中松山城は落城という事になります。

こうして逃走を図る元親でしたが、この脱出の途中に足を踏み外して山道から転落し、しばらくの間気を失っていたところ、悲しいかな、この間に大部分の将兵が逃亡し、残ったのは、わずかに5名の家来たち・・・

彼らに支えられるように高梁川を渡り、阿部山(あべさん=岡山県南西部)へと入る元親ご一行でしたが、今度は、大事な太刀(たち)を鞘走り(さやばしり=刀が自然に鞘から抜け出る事)させてしまい、その拍子に右ひざを深く傷つけてしまいます。

「どんだけ運ないねん!」
と、お気の毒になってきますが、さすがに元親自身も、「これで己の天命が尽きた」と悟り、松山城下の松連寺(しょうれんじ=岡山県高梁市)へと入り、毛利側に使者を送って、
「自刃するので検分(けんぶん=見届け)を…」
と願い出て、

天正三年(1575年)6月2日・・・もともと歌の才能に長けていた元親は、数首の辞世を残した後、切腹・・・旧知の仲(もともとは毛利と同盟関係やったので)であった毛利の家臣=粟屋元方(あわや もとかた)の介錯により、この世をさりました。

♪人といふ 名をかる程や 末の露
 きえてぞかへる もとの雫に ♪ 
三村元親 辞世

その5日後の6月7日、松山城と同時に囲まれていた常山城も落城します(6月7日参照>>)

また、間際まで近くにいた石川久式は、元親と離れた後、すでに落城していた幸山城へ戻る事ができないため、部下の友野高盛(とものたかもり)のもとに身を寄せますが、彼の裏切りにより居場所を密告されて殺害されたとも(『桂岌円覚書』)、その密告により毛利方に囲まれ、主君が逝った20日後の6月23日に自刃したとも(『備中兵乱記』)・・・

さらに、その後、捕縛された元親の息子が小早川隆景によって殺害された事で、事実上、戦国武将としての三村家は滅亡したのです。

「昨日の友は今日の敵」・・・毛利と三村の関係を見ても、戦う相手が瞬時に変わる事は戦国の常ではありますが、この後、先の同盟成立時に吉川元春が疑念を抱いた通り、かの宇喜多直家が、信長に降伏して傘下となり、毛利の敵となるのは4年後の天正七年(1579年)10月の事でした。。。【織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦】参照>>

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