関ヶ原合戦~最初の戦い…高取城の攻防
慶長五年(1600年)7月18日、ご存じ、天下分け目の関ヶ原の戦い・・・その最初のぶつかり合いとなった高取城の攻防戦がありました。
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自らの死後も、幼き息子=秀頼(ひでより)をサポートしてくれるよう、独自の家格システムを構築し(7月15日参照>>)、数々の遺言を残した(8月9日参照>>)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、慶長三年(1598年)8月、亡くなります。
その死を以って半島から撤退する事になり(11月20日参照>>)、結果的に負け戦となってしまった朝鮮出兵の影響で、政権内の武闘派(ぶとうは=戦場で戦う派)と文治派(ぶんじは=事務方)の間に亀裂が生じ始めるも、政権トップの五大老
徳川家康(とくがわいえやす)
前田利家(まえだとしいえ)
毛利輝元(もうりてるもと)
上杉景勝(うえすぎかげかつ)
宇喜多秀家(うきたひでいえ)
ら、全員が健在の間は何とか均衡が保てていたものの、翌年の3月に、秀吉の親友で政権の重鎮である前田利家が亡くなると(3月3日参照>>)、早くも翌日、武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らが文治派の石田三成(いしだみつなり)を襲撃する事件が起き(3月4日参照>>)、バランスの崩れが表面化します。
利家の死によって五大老の中で家康より年上はいなくなり、宇喜多秀家に至っては親子ほど年が違う・・・また、先の三成襲撃事件を家康が治めた事もあり、利家を引き継いだ息子の前田利長(としなが)が五大老に収まる頃には、もう家康のやりたい放題の様相を呈して来るのです。
(もちろん表面上は豊臣政権の一員としての姿勢を保っていますが…)
すでに、この年の1月に秀吉の遺言を破って自分の息子と伊達政宗(だてまさむね)の娘の婚約を決めちゃってる家康ですが、その後も、9月には、大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)を退去した秀吉の正室=おねと交代するがの如く、伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区桃山)を出て大坂城の西の丸に入り、天守閣のような建物を建て始めたり・・・年が明けて慶長五年(1600年)になると、上杉景勝と前田利長に「謀反の疑いあり」として両者の追い落としを開始します。
前田家は母のまつを江戸へと人質に出して(5月17日参照>>)何とか事を治めますが、上杉は屈せず(4月14日参照>>)・・・で、これを受けた家康が、上杉を討伐すべく、6月18日、大軍を率いて会津(あいづ=福島県)へと向う事になるのですが、この家康の会津出兵は三成をおびき出すための作戦とも言われています。
7月11日には、すでに家康の会津征伐に合流すべく北に向かっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)を引きもどして(7月11日参照>>)北陸諸将の勧誘に走らせ(7月14日参照>>)、7月15日には、家康に対抗できるコチラの総大将として毛利輝元に大坂城に来てもらいます(7月15日参照>>)。
(なんせ会社で言えば、家康は副社長か専務クラスで、三成は営業部長くらいですから…)
さらに7月16日の夜には、家康とともに会津攻めに向かった諸将の妻子を人質の形として大坂城に収容しようとしますが、これは、細川忠興(ただおき)の妻=ガラシャ(玉子)を死に追いやるという悲劇を生んだり(7月17日参照>>)、加藤清正や黒田如水(くろだじょすい=官兵衛孝高)&長政(ながまさ)の嫁を逃がしてしまったりで、あまりうまく行かなかったようですが・・・
そして、いよいよ7月17日、三成は『内府ちがひの条々』を諸将に送りつけ、家康に宣戦布告するのです。
ただし、書状での署名は、豊臣政権の五奉行のうちの前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)の3人で、ここに三成の名はありませんが、三成は先の襲撃事件云々で五奉行を退いていますし、残るの浅野長政(あさのながまさ)も、先の前田利長の一件で謹慎処分になってるので、現時点での五奉行はこの3人だけですので・・・
この「内府」というのは内大臣=家康の事。
「ちがひ」は「違い」で、つまりは家康が秀吉の遺言に背いた13条に及ぶ行動を明記した告発状って事です。
- 約束したのに奉行(浅野&石田)を追い込んだ
- 前田家を人質とって追い込んだ
- 謀反の疑いで上杉を討伐しようとした
- 自身のお気に入り武将に勝手に知行を与えた
- 伏見城を乗っ取ってる
- 勝手に誓紙を取り交わしている
- 奥さんの場所であった西の丸に居座ってる
- その西の丸にデカイ顔天守を建ててる
- 親しい大名の妻子を勝手に領国に返してる
- 勝手に縁組を決めている
- 若輩の武将を扇動して徒党を組ませてる
- 五大老全員でやるべき事を1人でやってる
- 側室のお亀の縁者を優遇してる
ごくごく簡単に言うと、こんな感じの内容なのですが、当然、これらは、現段階で家康とともに会津征伐へ向っている諸将たちに向けても発せられたわけで・・・
だからこそ、父や夫が、おそらく徳川方につくであろうと予測した加藤清正&黒田父子の妻子は密かに大坂を脱出し、細川ガラシャは夫の邪魔にならないよう命を断ったのです。
この後、三成ら大坂方の動きを知った家康は、会津征伐を中止してUターンして来るのですが、その時、これらの事を、ともに会津征伐に向かっていた諸将に正直に話し、「妻子が大坂にいる者もいるやろから、このまま俺に付くか、大坂に戻って向こうに付くか、自分の好きにしたら良いゾ」と問うたのが、世に「小山評定(おやまひょうじょう)」(2012年7月25日参照>>)・・・ただし、実は、皆に発表する前に、すでに福島正則(ふくしままさのり)を抱き込んでいて、その評定の場で、1番の豊臣恩顧の武将である正則に、堂々と「俺は家康っさんについて行きます!」と手を挙げさせる事で、その場の雰囲気を「家康推し」一色にしちゃったとも言われています~ウマイですね~家康さん。
とは言え、家康のもとに、今回の知らせが届くのは、もう少し後・・・
一方の三成は、今回の宣戦布告をした翌日の7月18日、まずは、家康が留守となった伏見城に降伏開城を求めるのですが、城将の鳥居元忠(とりいもとただ)は拒絶・・・結局7月19日から攻撃が開始されますが、そのお話は8月1日の【伏見城・落城…鳥居元忠の本望】のページ>>でご覧いただくとして・・・
この伏見城へ開城勧告を出したと同日の慶長五年(1600年)7月18日・・・数ある関ヶ原の戦いにおいて、最初の戦闘となったのが、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)だったのです。
南北朝時代頃から大和(やまと=奈良県)一帯に勢力を誇っていた越智(おち)の城であった(9月25日参照>>)高取城は、やがて戦国の混乱で頭角を現して来た筒井順慶(つついじゅんけい)の配下となった状態で越智頼秀(おちよりひで)が城将を務めていたものの、その越智氏が滅亡した事&筒井氏が臣従した織田信長(おだのぶなが)が一国一城=つまり、大和を治める城は郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)一つとした事から一旦廃城となりますが、信長亡き後の豊臣政権下では、その郡山城に秀吉の弟=豊臣秀長(とよとみひでなが)が入った事により、 この高取城も復活して、やがて秀長の重臣であった本多利久(ほんだとしひさ)が城将を務める事になったのです。
ただし、関ヶ原当時は、すでに秀長も、そして、その後を継いだ息子=豊臣秀保(ひでやす)も亡くなってしまっていた(1月27日参照>>)ので、主君いなくなったために、秀吉の直臣となった利久の息子=本多俊政(としまさ)が1万5千石を与えられて、ここ高取城は本多の居城となっていたのです。
が、しかし・・・そう、関ヶ原直前のこの時には、その本多利久&俊政父子は、今、会津に向かう家康軍とともにいます。
留守を守るのは利久の甥っこ=本多正広(まさひろ)と家老たち・・・そこに、毛利輝元の命を受けた使者が派遣されて来るのです。
「太閤秀吉様の恩顧を受けた君らは、大坂方に味方するのが当然やろが!もし徳川に味方するのやったら、すぐにでも兵を差し向けるゾ!」
と口上を述べる使者でしたが、すでに、その背後には2千の兵が迫っていたのです。
まぁ、先の宣戦布告前に大坂を脱出した妻子の件や細川ガラシャの一件を見てもわかるように、おそらくは、どっちに付くかは、それまでのなんやかんやで、大体予想がついていたんでしょうね。
ご存じの真田(さなだ)家なんかも、大坂方に付く真田真幸(さなだまさゆき)&幸村(ゆきむら=信繁・真幸の次男)は、小山評定の前に家康と合流する事も無くトットと戻っちゃてますし(7月21日参照>>)、逆に徳川に付く長男の信幸(のぶゆき=信之)の嫁さんはサッサと大坂を出ちゃってた(2009年7月25日参照>>)ようですから・・・
そんな彼らと同様に、本多家の動向は、すでに周知の事実となっていたのでしょうね。
とは言え、使者を目の当たりにした高取城内では、「どうしたものか?」と評定が行われ・・・てか、おそらくは、「YESかNOか」ではなく「どう守るか」って内容の評定だったのかも知れませんが、肝心の殿様がいない中で返答するのは、やはり迷うところでありまして・・・
そんなこんなしているうちに大坂方の兵は城へと迫り、今や遅しと城内からの返答を待っています。
そのな中を
「主君の意向がまだ届かないので…」
と、のらりくらりかわして、ちゃんとした返答をしぶる高取城・・・
すると、シビレを切らせた寄せ手の一部が、血気にはやって城下の武家屋敷や町屋へ押し入り、金になりそうな物を略奪しはじめたのです。
この暴挙を知った城内は怒りまくり・・・
「こんなん許されへん!コッチもいてまえ!」
と撃って出ようとする者を何とか抑えなりゆきを見守ります。
そう、実は、この高取城・・・メチャメチャ堅固な城なのです。
ご存じの方も多かろうと思いますが、幕末の動乱の際、この高取城を奪おうと攻撃してきた1000以上の天誅組(てんちゅうぐみ)を、わずか200人で守りぬいた高取の城兵・・・(11月15日参照>>)
もともと、この高取城は備中松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)(2月15日参照>>)&美濃岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市)(10月10日参照>>)とともに日本三大山城の一つに数えられるほどに険しい山の上に建てられた天然の要害を持つ城でしたが、そこに、様々な櫓や大小天守を複雑に構築して、「孤城窟壁に拠って並び無き要害」と称されるほどの堅固な城にしたのが本多利久で、幕末のソレは、まさに、この堅城があっての守りだったのです。
とは言え、攻める側もその事は重々承知・・・やみくもに攻め登っても落とせないと考えた大坂方は、甲賀忍者の中でも精鋭を選りすぐって、真夜中に忍び入らせて火を放ち、焼き落とす作戦に出ます。
その夜、手に手に松明を持って密かに山を登って行く甲賀者たち・・・しかし、城内とて、城の特性を生かした防御は怠っていません。
あちこちに仕掛けた警戒網に、夜なればこそ気がつきにくい侵入者によって、普段は静かな山の夜に、鳥たちの羽音がざわめき、城兵は侵入者に気づく事になります。
そこで、城側も密かに精鋭を派遣して、暗闇の中を捜索させると、勝手知ったる高取山とあって、幾人かの侵入者を捕える事に成功・・・早速、警告のために、その者らに手傷を負わせて敵方に送り返します。
傷つけられた味方の姿に激怒する大坂方は、
「気づかれたからには力づくで!」
とばかりに、あちらこちらに火を放ちながら、その炎と煙に紛れて、一斉に山肌を攻めのぼって来ます。
しかし、そこは地の利のある城兵たち・・・見晴らしの良い場所に出て上から見れば、眼下の炎と煙の位置にによって、敵の居場所がハッキリ解り、そこを目がけて、弓と鉄砲をお見舞いします。
それでも、数に勝る大坂方は、果敢に攻め登りますが、急な山肌に阻まれ、その登るスピードは一向に速まらず・・・そこに向けて弓&鉄砲の雨あられに加え、はなから準備していた大木や大石がどんどん落とされて来ます。
たまらず撤退を開始する大坂方・・・結局、大きな犠牲を払いながらも、城を落とせないまま兵を退く事になってしまいました。
この高取城攻防戦の話は『三河風土記』にくわしいですが、不肖私・・・長い間、関ヶ原の最初の戦いは伏見城だと思っていました。
一応、「関ヶ原検定」を持ってるんですが、その公式本にも、この高取城の事は出て来ません。
なので、合戦の細かな経緯については、ひょっとしたら確定的では無いのかも知れませんが、この関ヶ原の戦いで本多家が家康側についた事&主君が留守の高取城を死守した事は確かでしょう。
なんせ、この後の徳川の時代、本多俊政は、見事、高取藩の初代藩主の座についていますから・・・ただ、俊政の息子の政武(まさたけ)が、男子をもうけないまま死去してしまったために、本多家は2代藩主で最後となってしまうのが残念ではありますが・・・
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