松永久秀の奈良攻略~最初の戦い…第2次井戸城の戦い
永禄三年(1560年)7月24日、大和の攻略を開始した松永久秀が、井戸良弘が守る井戸城を攻撃しました。
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古くから興福寺(こうふくじ)や春日大社(かすがたいしゃ)などの寺社勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地は、いつしか興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代には『衆徒』の代表格=筒井(つつい)氏が北朝に、『国民』の代表格越智(おち)氏が南朝についたりして争って後、
あの応仁の乱(5月20日参照>>)では、その発端の一つが、ここ大和の守護(しゅご=県知事みたいな)であった畠山(はたけやま)氏の後継者争い(10月18日参照>>)であった事から、その後継者候補である畠山政長(はたけやままさなが=東軍)VS畠山義就(よしなり・よしひろ=西軍)の浮き沈みに翻弄されつつ、度々の戦場となるのですが(7月12日参照>>)、
皆様ご存じの通り、こんな感じで守護大名たちがゴチャゴチャやってる間に在地の国人や土豪(どごう)たちが力をつけて来て、その実力で以って土地を支配しようとする戦国大名へと成長していき、やがて室町幕府政権下での守護が名ばかりとなる戦国へ突入・・・となって来ます。
そんな中、応仁の乱後の明応二年(1493年)に起こった山城(やましろ=京都府南部)の国一揆を鎮圧(9月17日参照>>)した功績で、中央にも認められ、大和の半分を支配する実力者となった古市城(ふるいちじょう=奈良市古市町)の古市澄胤(ふるいちちょういん)(12月18日参照>>)が、永正元年(1504年)、筒井氏の傘下であった井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を攻めます・・・これが第1次の井戸城の戦い(9月21日参照>>)。
その時は、筒井の援助を受けて城を守ったばかりか、逆に古市勢を猛攻し、筒井は古市城を手に入れています。
やがて時代はそれぞれの次世代へと変わって行き、大和守護は畠山義堯(はたけやまよしたか=義就の曾孫・義宣)の代となりますが、その義堯の配下で山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)であった木沢長政(きざわながまさ)が、管領家=細川氏の後継者争いに打ち勝った細川晴元(はるもと)(2月13日参照>>)とくっついて争乱をおっぱじめた事から、天文元年(1532年)には、大和の住人たちも、彼らの戦いに翻弄される状況となります(7月17日参照>>)。
しかし一方で、長年抗争を繰り返していた(9月15日参照>>)越智氏以下、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで、ここに来て大和の大半を手中に治めつつあったのが筒井順昭(つついじゅんしょう)でした。
ところが、筒井氏を大和一に押し上げた、その順昭が天文十九年(1550年)に病死・・・当主の座は、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になります。
やがてそこに、新たに大和の支配をもくろんで乗り込んで来たのが、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)です。
長慶は、細川晴元の重臣だった三好元長(みよしもとなが)息子で、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで(6月24日参照>>)にて、主君である晴元を破って京都を制し、永禄元年(1558年)には第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっている有力者です。
京を制したなら大和も・・・とばかりに、永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を攻略していく事になるのですが、その最初のターゲットとなったのが井戸城でした。
上記の第1次の戦いでもお解りの通り、井戸氏は筒井の傘下・・・いきなり、目的の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を攻撃するのではなく、筒井にとっても重要な拠点である井戸城を先に落として、筒井城を孤立化する作戦です。
この時の井戸城を守るのは、筒井順昭の娘を妻に持つ井戸良弘(いどよしひろ)以下、家老や一族の者たち・・・数は多く無いものの、なかなかの武者揃いであったと伝わります。
しかし、久秀には思惑が・・・未だ幼い当主が率いる筒井には、この城を救援する能力が無いであろう事を見越して、「数に勝る自軍の勝利は間違い無し!」とばかりに、永禄三年(1560年)7月24日、井戸城に攻めかかったのです。
「井戸城が窮地に立っている!」
この一報は、ほどなく筒井城に届きます。
この時の筒井城には、亡き順昭の弟で、幼き順慶を後見人として支えていた筒井順政(じゅんせい)や、後に、あの石田三成(いしだみつなり)の右腕として知られる事になる島左近(しまさこん= 清興)など、一騎当千の精鋭たちが詰めていましたが、やはり久秀の予想通り・・・評定の場で様々な意見が飛び交うものの、いっこうに何も決まらず、時間ばかりが過ぎてしまいます。
結局、順政率いる援軍が井戸城に到着したのは、攻撃開始から数日経ってからの事・・・
それでも、松永勢の猛攻に数日耐えていた井戸城内からは、援軍の登場に歓喜の声が上がりますが、もはや、四方を松永軍に囲まれた状態では、援軍は城へ近づく事もできず、せっかくの援軍は久秀の術中にハマってしまうのです。
「散々ニ打負(うちまけ)筒井方廿四人マテ討死ス」(『足利季世記』)
と、この時の援軍は大敗となってしまったようです。
それでも、なおも籠城を続ける井戸良弘・・・
その犠牲は大変なものでしたが、長期の籠城戦ともなれば、一方の松永勢にも少なからずの犠牲は出て来るわけで・・・
結局、城攻め開始から一ヶ月余りの8月24日、話し合いの末の停戦協定が結ばれ、井戸城は開城されたのです。
●第2次井戸城攻防戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
このあと、久秀は、11月には沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)を攻略して(11月24日参照>>)、そこを配下の高山友照(たかやまともてる=右近の父)に守らせた後、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城し、筒井氏と同様の立場だった十市氏も味方につけ(12月9日参照>>)、取り込んだ寺社には多額の献金で文句を言わせず・・・
それは・・・
ご存じのように、この翌年の永禄八年(1565年)5月には、三好長慶の後継の立場となった三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに、将軍の足利義輝を暗殺(5月19日参照>>)して、自らの推す阿波御所=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立しようと企んだとされているくらいですから・・・ま、暗殺には久秀は関与してない説もありますが、それほどの人物になっていた事は確かですから、
そして、その年の秋には、いよいよ筒井城を攻略する(11月18日参照>>)・・・という事になります。
とは言え・・・
先に書かせていただいた通り、話し合いの末の停戦協定で開城した事で、命取られる事無かった井戸良弘は、この後の風向きの変化で筒井城を奪回した筒井順慶とともに、彼もまた井戸城に戻る事になり、
この次は、元亀元年(1570年)の第3次井戸城の戦いにて、再び松永久秀と相まみえる事になるのですが、そのお話は、いずれまた、合戦のあった「その日」に書かせていただく事にします。
とにもかくにも、父の死によって若くして井戸城主となった井戸良弘は、なかなかの長生きですから、この後も、久秀や順慶に絡みつつ、織田政権下&豊臣政権下でも生き抜いていきますので、また機会がありましたら、色々とご紹介していきたいと思います。
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