本能寺直後~森長可の東濃制圧後半戦…加治田・高山・妻木城攻略
天正十年(1582年)7月3日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する加治田城を攻めました。
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先日の【本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦】の続きのお話です。
くわしくは、その6月26日のページ>>でご覧しただくとして、おおまかな流れは・・・
天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)での武功により、主君=織田信長(おだのぶなが)から、武田の旧領のうち信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)と海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられた(3月24日参照>>)森長可(もりながよし)は、新領地の統治に取りかかりつつも、これを機に越後(えちご=新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と結ぶ者も多かった事から、次に越後への侵攻を開始しますが、このタイミングで本能寺の変(6月2日参照>>) が起こって信長が死亡・・・敵地深く入っていた長可は窮地に立ちながらも、6月23日に何とか旧領地の美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)へと帰還します。
しかしその間に、信長の死を知った東美濃では、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)の肥田忠政(ひだただまさ)をはじめ、上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)と今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)の長谷川兄弟や大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)の奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)などが織田へ反旗をひるがえしていたため、帰還の翌日=6月24日から、これらの諸城を一つ一つ制圧して行くのです。
7月2日には米田城を陥落させますが、城主の肥田忠政が加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃走したため、これを追撃する事に・・・
森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
さて・・・
本能寺の変当時の加治田城の城主は、あの斎藤道三(さいとうどうさん)の末息子=斎藤利治(さいとうとしはる=新五郎)でしたが、彼は、信長の嫡男で岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)主の織田信忠(のぶただ)の側近であったので、主君とともに籠った二条御所で討死してしまいます。
つまり、城主が亡くなってしまったので、その直後の加治田城は、利治の兄で城代の斎藤利堯(としたか)がトップという事になるのですが、その利堯も、この時は、やはり城主が留守の岐阜城の留守居役を務めていたらしく、どうやら伯父(母の兄)の稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)に同調して岐阜城を占拠して不動の構えを見せていたようで(6月8日参照>>)・・・
かつて肥田忠政が信長に降った際、所領を安堵された後、この利治の配下に組み込まれていますので、おそらくは、そんな忠政にとっては勝手知ったる加治田城へ逃げ込んだ・・・という事だったのでしょう。
一方、先の米田城とともに、すでに馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)も占拠している長可・・・加治田城へと向かうには飛騨川(ひだがわ)を越えなくてはなりませんが、肥田忠政はは、その飛騨川を挟んだ、すぐ向こう側の牛ヶ鼻(うしがはな=岐阜県美濃加茂市森山町)に砦を構えて、川を渡って来る森勢をせん滅せんと陣取っていました。
森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図:後半戦
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
天正十年(1582年)7月3日、牛ヶ鼻から川を挟んだ小山砦に陣取った森勢が、目の前の河岸から張り出した突起部分が砦となっている牛ヶ鼻に果敢にアタックする事で戦闘が開始されましたが、崖をよじ登ろうとして討たれる者や崖を踏み外して川に落ちる者多数で、初戦は失敗に・・・
しかし、なおも攻める森勢は、崖登りもそこそこに、とにかく川を渡って対岸に行き、砦を包囲します。
そうなると多勢に無勢・・・数に勝る森勢が徐々に勢いを増して来て、ついに砦を支えられなくなった加治田勢は、やむなく砦を放棄して加治田城方面へと逃走し、牛ヶ鼻と加治田城の中間にある堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)址で態勢を立て直そうとしますが、森勢の追撃が早すぎて断念し、そのまま加治田城へ合流しました。
その日の夕方、加治田勢を追うかたちで堂洞城址に登った長可は、17年前の合戦で敗れて以来廃城となっているこの城跡から、眼下に見える加治田城の防備を眺めながら作戦を練ったと言います。
一方の加治田城内には、城主の斎藤利治の嫡子(義興?)もいましたが未だ幼く、肥田忠政が代行するかたちで指揮を取り、準備を進めていきました。
明けて7月4日早朝より、今度は加治田城前を流れる川浦川(かわうらがわ)を挟んで、両軍合戦となります。
森勢は、正面の本隊で以って激しく攻めながら、林為忠(はやしためただ)率いる別働隊を川浦川の上流へと迂回させ、加治田勢の長沼三徳(ながぬまさんとく)の陣へ突入させ、敵の側面を崩す中を本隊が一気に突っ切る・・・
加治田勢は、山の麓に諸将の陣を分散して配置し、イザとなった時には、一斉に山上の主郭へと集中して籠城する作戦でしたが、勢いづく森勢を抑えきれず、この河畔の戦いにて崩れ去り、山上の主郭は戦場にもならないうちの昼過ぎに加治田城は落城し、結局、肥田忠政はどこへともなく落ちて行きました(討死説あり)。
合戦後は、長沼をはじめとする井戸宇右衛門(いどうえもん)や湯浅新六(ゆあさしんろく)など、この戦いに出た多くの将が長可の配下となって、やがて加治田衆(かじたしゅう)と呼ばれて、後の豊臣政権下で活躍する事になるのです。
とは言うものの、実は、この合戦の経緯&結果は諸説あって、よくわかっていないのです。
河畔で合戦になったものの、森勢が押し返されて引き分けになったとか、後半には加治田勢が盛り返して勝利したとか・・・
しかし、上記の豊臣政権下での加治田衆の話を見ても、あるいは、この後の長可の行動を見ても、完全勝利とは行かないまでも、おそらくは森勢が優位に立った状態で、今回の合戦を終えたのではないか?と私は考えています。
なんせ、この後、森長可は、
「この東美濃は、もちもと我が領地であるので、刃向かう者は討伐する!」
と宣言して、高山城(たかやまじょう=岐阜県土岐市土岐津町)の平井頼母(ひらいたのも)や妻木城(つまぎじょう=岐阜県土岐市)の妻木頼忠(つまきよりただ)に、速やかに城を明け渡すよう要求し、拒否した彼らを、平井頼母は自刃に、妻木頼忠は捕えて人質として金山城下に住まわせるという事をやってますから・・・
これは、やはり、加治田城での戦いに勝った状態でないとできないように思います。
まして、この後、この長可の勢いを恐れた明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)の遠山利景(とおやまとしかげ)と小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)の小里光明(おりみつあき)は戦う事無く、徳川家康(とくがわいえやす)を頼って、一旦、城を去っていますから、やはり森勢の方に軍配が上がっていたのではないかと・・・
ただし、同じように、長可が城の明け渡しを求めたものの苗木城(なえぎじょう=岐阜県中津川市)の遠山友忠(とおやまともただ)・友政(ともまさ)父子は、この直後の天正十年(1582年)8月の戦いに勝利し、長可を撤退させています。
その後、態勢を立て直した長可は、翌天正十一年(1583年)の5月に苗木城へと攻め寄せ・・・と、この苗木城に戦いについては、後日あらためて、その日付でくわしく書かせていただくつもりですが、
その2度目の苗木城攻めに勝利した事で、加茂(かも)・可児(かに)・土岐(とき)・恵那(えな)の4郡を平定した長可は12万7千石の領主となり、信長亡き後は、東美濃の大勢力で以って、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下として活躍する事になるのです。
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コメント
東美濃。今注目の場所ですね。
再来年の大河ドラマでも美濃に触れますね。
それにしても先日の大雨で岐阜県内も河川が氾濫したと聞きました。
西日本は最近天気が荒れますね。
投稿: えびすこ | 2018年7月 4日 (水) 13時51分
えびすこさん、こんばんは~
西日本は、まだ梅雨が明けてませんね~
週末も雨の予報が出ています。
投稿: 茶々 | 2018年7月 4日 (水) 18時44分