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2018年7月24日 (火)

松永久秀の奈良攻略~最初の戦い…第2次井戸城の戦い

 

永禄三年(1560年)7月24日、大和の攻略を開始した松永久秀が、井戸良弘が守る井戸城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

古くから興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)などの寺社勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地は、いつしか興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代には『衆徒』の代表格=筒井(つつい)北朝に、『国民』の代表格越智(おち)南朝についたりして争って後、

あの応仁の乱(5月20日参照>>)では、その発端の一つが、ここ大和の守護(しゅご=県知事みたいな)であった畠山(はたけやま)の後継者争い(10月18日参照>>)であった事から、その後継者候補である畠山政長(はたけやままさなが=東軍)VS畠山義就(よしなり・よしひろ=西軍)の浮き沈みに翻弄されつつ、度々の戦場となるのですが(7月12日参照>>)

皆様ご存じの通り、こんな感じで守護大名たちがゴチャゴチャやってる間に在地の国人や土豪(どごう)たちが力をつけて来て、その実力で以って土地を支配しようとする戦国大名へと成長していき、やがて室町幕府政権下での守護が名ばかりとなる戦国へ突入・・・となって来ます。

そんな中、応仁の乱後の明応二年(1493年)に起こった山城(やましろ=京都府南部)の国一揆を鎮圧(9月17日参照>>)した功績で、中央にも認められ、大和の半分を支配する実力者となった古市城(ふるいちじょう=奈良市古市町)古市澄胤(ふるいちちょういん)(12月18日参照>>)が、永正元年(1504年)、筒井氏の傘下であった井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を攻めます・・・これが第1次の井戸城の戦い(9月21日参照>>)

その時は、筒井の援助を受けて城を守ったばかりか、逆に古市勢を猛攻し、筒井は古市城を手に入れています。

やがて時代はそれぞれの次世代へと変わって行き、大和守護は畠山義堯(はたけやまよしたか=義就の曾孫・義宣)の代となりますが、その義堯の配下で山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)であった木沢長政(きざわながまさ)が、管領家=細川氏の後継者争いに打ち勝った細川晴元(はるもと)(2月13日参照>>)とくっついて争乱をおっぱじめた事から、天文元年(1532年)には、大和の住人たちも、彼らの戦いに翻弄される状況となります(7月17日参照>>)

しかし一方で、長年抗争を繰り返していた(9月15日参照>>)越智氏以下、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで、ここに来て大和の大半を手中に治めつつあったのが筒井順昭(つついじゅんしょう)でした。

ところが、筒井氏を大和一に押し上げた、その順昭が天文十九年(1550年)に病死・・・当主の座は、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になります。

Matunagahisahide600a やがてそこに、新たに大和の支配をもくろんで乗り込んで来たのが、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)です。

長慶は、細川晴元の重臣だった三好元長(みよしもとなが)息子で、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)にて、主君である晴元を破って京都を制し、永禄元年(1558年)には第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっている有力者です。

京を制したなら大和も・・・とばかりに、永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を攻略していく事になるのですが、その最初のターゲットとなったのが井戸城でした。

上記の第1次の戦いでもお解りの通り、井戸氏は筒井の傘下・・・いきなり、目的の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を攻撃するのではなく、筒井にとっても重要な拠点である井戸城を先に落として、筒井城を孤立化する作戦です。

この時の井戸城を守るのは、筒井順昭の娘を妻に持つ井戸良弘(いどよしひろ)以下、家老や一族の者たち・・・数は多く無いものの、なかなかの武者揃いであったと伝わります。

しかし、久秀には思惑が・・・未だ幼い当主が率いる筒井には、この城を救援する能力が無いであろう事を見越して、「数に勝る自軍の勝利は間違い無し!」とばかりに、永禄三年(1560年)7月24日井戸城に攻めかかったのです。

「井戸城が窮地に立っている!」
この一報は、ほどなく筒井城に届きます。

この時の筒井城には、亡き順昭の弟で、幼き順慶を後見人として支えていた筒井順政(じゅんせい)や、後に、あの石田三成(いしだみつなり)の右腕として知られる事になる島左近(しまさこん= 清興)など、一騎当千の精鋭たちが詰めていましたが、やはり久秀の予想通り・・・評定の場で様々な意見が飛び交うものの、いっこうに何も決まらず、時間ばかりが過ぎてしまいます。

結局、順政率いる援軍が井戸城に到着したのは、攻撃開始から数日経ってからの事・・・

それでも、松永勢の猛攻に数日耐えていた井戸城内からは、援軍の登場に歓喜の声が上がりますが、もはや、四方を松永軍に囲まれた状態では、援軍は城へ近づく事もできず、せっかくの援軍は久秀の術中にハマってしまうのです。

「散々ニ打負(うちまけ)筒井方廿四人マテ討死ス」『足利季世記』
と、この時の援軍は大敗となってしまったようです。

それでも、なおも籠城を続ける井戸良弘・・・

その犠牲は大変なものでしたが、長期の籠城戦ともなれば、一方の松永勢にも少なからずの犠牲は出て来るわけで・・・

結局、城攻め開始から一ヶ月余りの8月24日、話し合いの末の停戦協定が結ばれ、井戸城は開城されたのです。

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●第2次井戸城攻防戦の位置関係図
 クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

このあと、久秀は、11月には沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)を攻略して(11月24日参照>>)、そこを配下の高山友照(たかやまともてる=右近の父)に守らせた後、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城し、筒井氏と同様の立場だった十市氏も味方につけ(12月9日参照>>)、取り込んだ寺社には多額の献金で文句を言わせず・・・

それは・・・
ご存じのように、この翌年の永禄八年(1565年)5月には、三好長慶の後継の立場となった三好三人衆三好長逸三好政康石成友通とともに、将軍の足利義輝を暗殺(5月19日参照>>)して、自らの推す阿波御所足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立しようと企んだとされているくらいですから・・・ま、暗殺には久秀は関与してない説もありますが、それほどの人物になっていた事は確かですから、

そして、その年の秋には、いよいよ筒井城を攻略する(11月18日参照>>)・・・という事になります。

とは言え・・・
先に書かせていただいた通り、話し合いの末の停戦協定で開城した事で、命取られる事無かった井戸良弘は、この後の風向きの変化で筒井城を奪回した筒井順慶とともに、彼もまた井戸城に戻る事になり、

この次は、元亀元年(1570年)の第3次井戸城の戦いにて、再び松永久秀と相まみえる事になるのですが、そのお話は、いずれまた、合戦のあった「その日」に書かせていただく事にします。

とにもかくにも、父の死によって若くして井戸城主となった井戸良弘は、なかなかの長生きですから、この後も、久秀や順慶に絡みつつ、織田政権下&豊臣政権下でも生き抜いていきますので、また機会がありましたら、色々とご紹介していきたいと思います。
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2018年7月18日 (水)

関ヶ原合戦~最初の戦い…高取城の攻防

 

慶長五年(1600年)7月18日、ご存じ、天下分け目の関ヶ原の戦い・・・その最初のぶつかり合いとなった高取城の攻防戦がありました。

・・・・・・・・・・

自らの死後も、幼き息子=秀頼(ひでより)をサポートしてくれるよう、独自の家格システムを構築し(7月15日参照>>)数々の遺言を残した(8月9日参照>>)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、慶長三年(1598年)8月、亡くなります。

その死を以って半島から撤退する事になり(11月20日参照>>)、結果的に負け戦となってしまった朝鮮出兵の影響で、政権内の武闘派(ぶとうは=戦場で戦う派)文治派(ぶんじは=事務方)の間に亀裂が生じ始めるも、政権トップの五大老
徳川家康(とくがわいえやす)
前田利家(まえだとしいえ)
毛利輝元(もうりてるもと)
上杉景勝(うえすぎかげかつ)
宇喜多秀家(うきたひでいえ)
ら、全員が健在の間は何とか均衡が保てていたものの、翌年の3月に、秀吉の親友で政権の重鎮である前田利家が亡くなる(3月3日参照>>)、早くも翌日、武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らが文治派の石田三成(いしだみつなり)襲撃する事件が起き(3月4日参照>>)、バランスの崩れが表面化します。

利家の死によって五大老の中で家康より年上はいなくなり、宇喜多秀家に至っては親子ほど年が違う・・・また、先の三成襲撃事件を家康が治めた事もあり、利家を引き継いだ息子の前田利長(としなが)が五大老に収まる頃には、もう家康のやりたい放題の様相を呈して来るのです。
(もちろん表面上は豊臣政権の一員としての姿勢を保っていますが…)

すでに、この年の1月に秀吉の遺言を破って自分の息子と伊達政宗(だてまさむね)の娘の婚約を決めちゃってる家康ですが、その後も、9月には、大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)を退去した秀吉の正室=おねと交代するがの如く、伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区桃山)を出て大坂城の西の丸に入り、天守閣のような建物を建て始めたり・・・年が明けて慶長五年(1600年)になると、上杉景勝と前田利長に「謀反の疑いあり」として両者の追い落としを開始します。

前田家は母のまつを江戸へと人質に出して(5月17日参照>>)何とか事を治めますが、上杉は屈せず(4月14日参照>>)・・・で、これを受けた家康が、上杉を討伐すべく、6月18日、大軍を率いて会津(あいづ=福島県)へと向う事になるのですが、この家康の会津出兵は三成をおびき出すための作戦とも言われています。

Isidamitunari600a そう、この家康の留守を狙って動いたのが三成だったのです。

7月11日には、すでに家康の会津征伐に合流すべく北に向かっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)を引きもどして(7月11日参照>>)北陸諸将の勧誘に走らせ(7月14日参照>>)、7月15日には、家康に対抗できるコチラの総大将として毛利輝元に大坂城に来てもらいます(7月15日参照>>)
(なんせ会社で言えば、家康は副社長か専務クラスで、三成は営業部長くらいですから…)

さらに7月16日の夜には、家康とともに会津攻めに向かった諸将の妻子を人質の形として大坂城に収容しようとしますが、これは、細川忠興(ただおき)の妻=ガラシャ(玉子)を死に追いやるという悲劇を生んだり(7月17日参照>>)、加藤清正や黒田如水(くろだじょすい=官兵衛孝高)長政(ながまさ)の嫁を逃がしてしまったりで、あまりうまく行かなかったようですが・・・

そして、いよいよ7月17日、三成は『内府ちがひの条々』を諸将に送りつけ、家康に宣戦布告するのです。

ただし、書状での署名は、豊臣政権の五奉行のうちの前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)長束正家(なつかまさいえ)の3人で、ここに三成の名はありませんが、三成は先の襲撃事件云々で五奉行を退いていますし、残るの浅野長政(あさのながまさ)も、先の前田利長の一件で謹慎処分になってるので、現時点での五奉行はこの3人だけですので・・・

この「内府」というのは内大臣=家康の事。
「ちがひ」は「違い」で、つまりは家康が秀吉の遺言に背いた13条に及ぶ行動を明記した告発状って事です。

  1. 約束したのに奉行(浅野&石田)を追い込んだ
  2. 前田家を人質とって追い込んだ
  3. 謀反の疑いで上杉を討伐しようとした
  4. 自身のお気に入り武将に勝手に知行を与えた
  5. 伏見城を乗っ取ってる
  6. 勝手に誓紙を取り交わしている
  7. 奥さんの場所であった西の丸に居座ってる
  8. その西の丸にデカイ天守を建ててる
  9. 親しい大名の妻子を勝手に領国に返してる
  10. 勝手に縁組を決めている
  11. 若輩の武将を扇動して徒党を組ませてる
  12. 五大老全員でやるべき事を1人でやってる
  13. 側室のお亀の縁者を優遇してる

ごくごく簡単に言うと、こんな感じの内容なのですが、当然、これらは、現段階で家康とともに会津征伐へ向っている諸将たちに向けても発せられたわけで・・・

だからこそ、父や夫が、おそらく徳川方につくであろうと予測した加藤清正&黒田父子の妻子は密かに大坂を脱出し、細川ガラシャは夫の邪魔にならないよう命を断ったのです。

この後、三成ら大坂方の動きを知った家康は、会津征伐を中止してUターンして来るのですが、その時、これらの事を、ともに会津征伐に向かっていた諸将に正直に話し、「妻子が大坂にいる者もいるやろから、このまま俺に付くか、大坂に戻って向こうに付くか、自分の好きにしたら良いゾ」と問うたのが、世に「小山評定(おやまひょうじょう)(2012年7月25日参照>>)・・・ただし、実は、皆に発表する前に、すでに福島正則(ふくしままさのり)を抱き込んでいて、その評定の場で、1番の豊臣恩顧の武将である正則に、堂々と「俺は家康っさんについて行きます!」と手を挙げさせる事で、その場の雰囲気を「家康推し」一色にしちゃったとも言われています~ウマイですね~家康さん。

とは言え、家康のもとに、今回の知らせが届くのは、もう少し後・・・

一方の三成は、今回の宣戦布告をした翌日の7月18日、まずは、家康が留守となった伏見城に降伏開城を求めるのですが、城将の鳥居元忠(とりいもとただ)は拒絶・・・結局7月19日から攻撃が開始されますが、そのお話は8月1日の【伏見城・落城…鳥居元忠の本望】のページ>>でご覧いただくとして・・・

この伏見城へ開城勧告を出したと同日の慶長五年(1600年)7月18日・・・数ある関ヶ原の戦いにおいて、最初の戦闘となったのが、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)だったのです。

南北朝時代頃から大和(やまと=奈良県)一帯に勢力を誇っていた越智(おち)の城であった(9月25日参照>>)高取城は、やがて戦国の混乱で頭角を現して来た筒井順慶(つついじゅんけい)の配下となった状態で越智頼秀(おちよりひで)が城将を務めていたものの、その越智氏が滅亡した事&筒井氏が臣従した織田信長(おだのぶなが)一国一城=つまり、大和を治める城は郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)一つとした事から一旦廃城となりますが、信長亡き後の豊臣政権下では、その郡山城に秀吉の弟=豊臣秀長(とよとみひでなが)が入った事により、 この高取城も復活して、やがて秀長の重臣であった本多利久(ほんだとしひさ)城将を務める事になったのです。

ただし、関ヶ原当時は、すでに秀長も、そして、その後を継いだ息子=豊臣秀保(ひでやす)も亡くなってしまっていた(1月27日参照>>)ので、主君いなくなったために、秀吉の直臣となった利久の息子=本多俊政(としまさ)が1万5千石を与えられて、ここ高取城は本多の居城となっていたのです。

が、しかし・・・そう、関ヶ原直前のこの時には、その本多利久&俊政父子は、今、会津に向かう家康軍とともにいます。

留守を守るのは利久の甥っこ=本多正広(まさひろ)と家老たち・・・そこに、毛利輝元の命を受けた使者が派遣されて来るのです。

「太閤秀吉様の恩顧を受けた君らは、大坂方に味方するのが当然やろが!もし徳川に味方するのやったら、すぐにでも兵を差し向けるゾ!」
と口上を述べる使者でしたが、すでに、その背後には2千の兵が迫っていたのです。

まぁ、先の宣戦布告前に大坂を脱出した妻子の件や細川ガラシャの一件を見てもわかるように、おそらくは、どっちに付くかは、それまでのなんやかんやで、大体予想がついていたんでしょうね。

ご存じの真田(さなだ)なんかも、大坂方に付く真田真幸(さなだまさゆき)幸村(ゆきむら=信繁・真幸の次男)は、小山評定の前に家康と合流する事も無くトットと戻っちゃてます(7月21日参照>>)、逆に徳川に付く長男の信幸(のぶゆき=信之)嫁さんはサッサと大坂を出ちゃってた(2009年7月25日参照>>)ようですから・・・

そんな彼らと同様に、本多家の動向は、すでに周知の事実となっていたのでしょうね。

とは言え、使者を目の当たりにした高取城内では、「どうしたものか?」と評定が行われ・・・てか、おそらくは、「YESかNOか」ではなく「どう守るか」って内容の評定だったのかも知れませんが、肝心の殿様がいない中で返答するのは、やはり迷うところでありまして・・・

そんなこんなしているうちに大坂方の兵は城へと迫り、今や遅しと城内からの返答を待っています。

そのな中を
「主君の意向がまだ届かないので…」
と、のらりくらりかわして、ちゃんとした返答をしぶる高取城・・・

すると、シビレを切らせた寄せ手の一部が、血気にはやって城下の武家屋敷や町屋へ押し入り、金になりそうな物を略奪しはじめたのです。

この暴挙を知った城内は怒りまくり・・・
「こんなん許されへん!コッチもいてまえ!」
と撃って出ようとする者を何とか抑えなりゆきを見守ります。

そう、実は、この高取城・・・メチャメチャ堅固な城なのです。

ご存じの方も多かろうと思いますが、幕末の動乱の際、この高取城を奪おうと攻撃してきた1000以上の天誅組(てんちゅうぐみ)を、わずか200人で守りぬいた高取の城兵・・・(11月15日参照>>)

Takatorizyouezu600a もともと、この高取城は備中松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)(2月15日参照>>)美濃岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市)(10月10日参照>>)とともに日本三大山城の一つに数えられるほどに険しい山の上に建てられた天然の要害を持つ城でしたが、そこに、様々な櫓や大小天守を複雑に構築して、「孤城窟壁に拠って並び無き要害」と称されるほどの堅固な城にしたのが本多利久で、幕末のソレは、まさに、この堅城があっての守りだったのです。

とは言え、攻める側もその事は重々承知・・・やみくもに攻め登っても落とせないと考えた大坂方は、甲賀忍者の中でも精鋭を選りすぐって、真夜中に忍び入らせて火を放ち、焼き落とす作戦に出ます。

その夜、手に手に松明を持って密かに山を登って行く甲賀者たち・・・しかし、城内とて、城の特性を生かした防御は怠っていません。

あちこちに仕掛けた警戒網に、夜なればこそ気がつきにくい侵入者によって、普段は静かな山の夜に、鳥たちの羽音がざわめき、城兵は侵入者に気づく事になります。

そこで、城側も密かに精鋭を派遣して、暗闇の中を捜索させると、勝手知ったる高取山とあって、幾人かの侵入者を捕える事に成功・・・早速、警告のために、その者らに手傷を負わせて敵方に送り返します。

傷つけられた味方の姿に激怒する大坂方は、
「気づかれたからには力づくで!」
とばかりに、あちらこちらに火を放ちながら、その炎と煙に紛れて、一斉に山肌を攻めのぼって来ます。

しかし、そこは地の利のある城兵たち・・・見晴らしの良い場所に出て上から見れば、眼下の炎と煙の位置にによって、敵の居場所がハッキリ解り、そこを目がけて、弓と鉄砲をお見舞いします。

それでも、数に勝る大坂方は、果敢に攻め登りますが、急な山肌に阻まれ、その登るスピードは一向に速まらず・・・そこに向けて弓&鉄砲の雨あられに加え、はなから準備していた大木や大石がどんどん落とされて来ます。

たまらず撤退を開始する大坂方・・・結局、大きな犠牲を払いながらも、城を落とせないまま兵を退く事になってしまいました。

この高取城攻防戦の話は『三河風土記』にくわしいですが、不肖私・・・長い間、関ヶ原の最初の戦いは伏見城だと思っていました。

一応、「関ヶ原検定」を持ってるんですが、その公式本にも、この高取城の事は出て来ません。

なので、合戦の細かな経緯については、ひょっとしたら確定的では無いのかも知れませんが、この関ヶ原の戦いで本多家が家康側についた事&主君が留守の高取城を死守した事は確かでしょう。

なんせ、この後の徳川の時代、本多俊政は、見事、高取藩の初代藩主の座についていますから・・・ただ、俊政の息子の政武(まさたけ)が、男子をもうけないまま死去してしまったために、本多家は2代藩主で最後となってしまうのが残念ではありますが・・・
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2018年7月10日 (火)

堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説

 

元和九年(1623年)7月10日に第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠が、その約1ヶ月後の8月18日に第3代将軍に就任した徳川家光堺・南宗寺を参詣しました。

・・・・・・・・・・・

大阪にある南宗寺(なんしゅうじ=大阪府堺市堺区)臨済宗大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)のお寺で、もともとは南宗庵(なんしゅうあん)と呼ばれていた(いおり)を、その3代目法嗣(ほうし)となっていた大林宗套(だいりんそうとう)に帰依した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)が、無念の死を遂げた父=三好元長(もとなが)(7月17日参照>>)を弔うために壮大な伽藍を建てて、その名を南宗寺としたのが始まりです。

Dscn0959a700
南宗寺の坐雲亭

その境内に、現存する建物としては最古の物とされる坐雲亭(ざうんてい)という下層が茶室となっている2階建ての建物があるのですが、この建物の内部に、
「征夷大将軍徳川秀忠公 元和九年七月十日  御成」
「征夷大将軍徳川家光公 同年八月十八日  御成」

(現物は非公開です)
てな事が書かれた板額があるのです。

徳川秀忠(とくがわひでただ)家光(いえみつ)父子は元和九年(1623年)の6月に上洛し、7月27日に伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)にて将軍宣下を受け、晴れて家光が第3代将軍となっていますので、まさに、その交代の時期にやって来た事になりますが・・・

Dscn0947a600 ところで、この南宗寺の一角には、「葵」の紋が描かれた瓦(←)がズラリと並ぶ回廊に囲まれた部分があります。

実は、この回廊の内側には文政年間(1818年~1831年)に建立されたとされる東照宮(とうしょうぐう)があったのです。

Dscn0946a600 残念ながら太平洋戦争の空襲により焼失してしまい、今は「東照宮跡」の石碑(→)が建つだけになってしまいましたが、現在も、回廊とつながる南側に残る重要文化財の立派な唐門は、この東照宮にお参りするための物だったのです。

東照宮とは、ご存じのように、東照大権現(とうしょうだいごんげん)となった徳川家康(とくがわいえやす)を祀る神社で(4月10日参照>>)、現在では日光(にっこう)が有名ですが、江戸時代には全国各地に・・・当時は700社ほどあったと言われています。

大阪にも、この堺以外に、あの大塩平八郎の乱の時、皮肉にも幕府に刃向かう者たちの集合場所となった川崎東照宮(かわさきとうしょうぐう=大阪市北区)というのがありました(2月19日参照>>)

なので、江戸時代の南宗寺は、徳川家にとって重要な場所であった事は確かなのですが、上記の通り、秀忠&家光が参詣した時には、まだ東照宮は建立されていなかったわけで・・・

・・・で、ここで有名なアノ話・・・

この東照宮跡の北側に位置する開山堂(かいざんどう)の跡というところに、物議と妄想をかきたてる、「徳川家康の墓」と伝わる墓石があるのです。
Nansyuzikeidai

南宗寺の伝承によれば・・・
「大坂夏の陣、最後の戦いとなった慶長二十年(1615年)5月7日、天王寺茶臼山(ちゃうすやま=大阪市天王寺区)(4月14日参照>>)に本陣を構えていた家康でしたが、その日の天王寺口の戦いで、大坂方の毛利勝永(もうりかつなが)(2015年5月7日参照>>)真田幸村(ゆきむら=信繁)(2017年1月6日参照>>)に本陣間近まで迫られ、命の危険を感じて撤退を開始するのですが、敵にさとられぬよう、死者を運ぶ駕籠に乗って脱出します。 

しかし、逃げる途中に後藤又兵衛(ごとうまたべえ=基次)に見抜かれて追撃され、その槍に突かれてしまいます。 

とっさに持っていた布で槍の穂先についた血を拭い、相手に何事も無かったように見せかけたおかげで、確かに手ごたえがあったものの、血がついていない状況を見た又兵衛は、それ以上追撃して来る事は無かったので、そのまま、味方の町衆がいる堺にまで逃げて来たものの、南宗寺の前まで来た時に家臣が駕籠の中を確認すると、すでに絶命していたと・・・ 

やむなく、遺骸を南宗寺の軒下に埋葬して、後に、静岡の久能山(くのうさん)に埋葬し、さらに、ご存じの日光に至る」・・・と、

Dscn0955az800
徳川家康の墓とされる墓石

つまり、徳川家康が亡くなったのは、幕府公式記録にある元和二年(1616年)4月17日(4月17日参照>>)ではなく、慶長二十年(1615年)5月7日のここ堺であったものの、未だ江戸幕府が安定していない状態だったため、その死は隠され、後に別の日付で正式発表されたのだという事らしい。。。

この話は、『歴史ミステリー』的なテレビ番組でもやったりしてますので、ご存じの方も多かろうと思いますが、お察しの通り、この伝承には、いくつかのツッコミどころがあります。

まず、家康を仕留めたとされる後藤又兵衛は、前日の5月6日に道明寺(どうみょうじ=大阪府羽曳野市)の戦いにて戦死してしまっています(5月6日参照>>)

仮に、この家康と又兵衛の云々が前日の5月6日の戦い中に起きた出来事だったとしても・・・
この時、大坂を攻めるために、東からやって来る徳川軍は、大軍での生駒(いこま)山地越えが困難である事から、軍は、生駒の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指したのですが、又兵衛が戦った道明寺は大和口=松平忠輝(まつだいらただてる=家康の六男)を総大将にした本多忠政(ほんだただまさ=本多忠勝の息子)伊達政宗(だてまさむね)といった面々との戦いだった(4月30日参照>>)わけで、枚方方面を行った家康や秀忠と又兵衛は直接対決もしていないのです。

また、この堺自体も・・・
実は、同じく夏の陣の中の4月29日に起こった樫井(かしい・泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)の時に、豊臣方の大野治胤(はるたね=道賢・道犬)によって焼き打ちされ(6月27日参照>>)、堺の町はことごとく焦土と化していて、この南宗寺も瓦を残して、ほぼ焼失しまった事が記録されています。

しかも、その焼失した南宗寺の場所はここではないのです!
なんとお寺の由緒には、
「大坂夏の陣で焼失したため、当時の住職であった沢庵宗彭(たくあんそうほう)と堺奉行=喜多見勝忠(きたみかつただ)の尽力によって、元和五年(1619年)に現在の場所に再建された」
と書いてある・・・つまり、「大坂夏の陣の時点では、南宗寺は別の場所にあって、その後、ここに移転して来た」って事です。

大阪の陣の時の南宗寺が今とは違う場所だったなんて!!
「そら!完全にアウトですやん!」
と、言いたいところですが・・・

実は、この南宗寺の家康の墓には、まだ付録があります。

このお墓とされる石の右側・・・四角い石があるの見えますか?

この石・・・かなり古くなっているので写真(左)では見えにくいので、白文字で書き起こして(右)みますが・・・

Dscn0952as1000 Nansyuuzihibunn1000

『無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在』
つまり「この名前の無い塔は家康さんの墓で間違いない」と書かれているのです。

で、コレを書いたのは山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)らしい・・・江戸時代には徹底的に伏せられいて、いつしかその場所がわからなくなっていた家康の墓を、幕末になって「南宗寺にある」と聞きつけた鉄舟が、第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)の意向を受けて、資料調べと現地調査を行って、ここに書き残して行ったのだそうで・・・

つまり、幕府の公認を受けた事になりますが・・・
ただ・・・それにしては『家康サン』って書くかな??
普通『家康公』でしょ。

ちなみに、祖父=家康をリスペクトして止まなかった3代将軍の家光が、自身の心の支えとして常に持っていた直筆のメモには
『生きるも 死ぬるも みな 大権現さま次第に』
と書かれていたらしい・・・つまり、家光は家康の事を「大権現さま」と呼んでいたと・・・

普通、尊敬するご先祖様や主君を「サン」づけでは呼ばないですよね~

ただ、言葉ってのは変化しますからね~
たとえば、主君の「君」なんかも、
『君が代』の歌詞の元になったと言われている『古今和歌集』にある
♪我が君は 千代にやちよに
 さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで♪

でわかるように、この「君」とは天皇の事なのに、現在では、「○○くん」と呼んだり「きみは…」と言ったりすると、親しい同僚や目下の人に対して言ってる感じなるわけで・・・

そして「公」も、
家康公の「公」は、公人の「公」でもちろん敬意を表す言葉ですが、一方で、上から目線のさげすむ感じで、犬の事を「わん公」(今はカワイイ感じでワンコと言いますが)と言ったり猿を「エテ公」と言ったり、不良が、先生を「先公」とか警察を「ポリ公」とかって言い方したりする場合もあるわけで・・・

言葉という物は時と場合と昔と今でイロイロある・・・その場その場に立ち会わない限り「絶対に言ってない」と言いきれない物ですよね~

そんな中、最大に引っかかるのは、やはり、冒頭の秀忠&家光の連続参詣ですよ!

何たって、将軍宣下を挟んで前と後・・・

将軍を息子に譲って、これからは、父=家康がしたように大御所となって政務を行う
秀忠が元和九年(1623年)7月10日・・・

そして、将軍宣下を受け、
第3代将軍となった家光が8月18日・・・

まるで、その交代を初代に報告するかのような訪問は、何とも不可解さを感じます。

それを踏まえると、先の寺地移転お話も・・・「大坂の陣の後に寺が移転してるのだから、家康が南宗寺の門前で亡くなって、そこに葬ったなんて話しは信用できない」と一蹴する事はできなくなってきます。

そう、話の前後が逆な可能性もあるのです。

つまり、家康が寺の門前で絶命したので、そこにあった南宗寺に葬ったのではなく、大坂の陣で家康が絶命した場所=その時にとっさに葬った場所に、江戸時代になって南宗寺を移転させた・・・

むしろ、ここが家康最期の地であるからこそ、わざとこの場所に南宗寺を持って来て、山門やら仏殿やらの大伽藍に整備し、さらに、その後には東照宮まで建てて・・・と、すべてが、慌てて密かに埋葬したであろう無銘の塔を守るために廻っていたと考える事もできるわけで~

ワォ!!!(゚ロ゚屮)屮
ミステリーですね~

個人的には、横にある碑文よりも、秀忠&家光の連続参詣の真偽の方が、よっぽど気になるんですけど・・・

いつか謎は解けるのでしょうか?
楽しみです。
 .

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2018年7月 3日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧後半戦…加治田・高山・妻木城攻略

 

天正十年(1582年)7月3日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する加治田城を攻めました。

・・・・・・・・・

先日の【本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦】の続きのお話です。

くわしくは、その6月26日のページ>>でご覧しただくとして、おおまかな流れは・・・

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)での武功により、主君=織田信長(おだのぶなが)から、武田の旧領のうち信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられた(3月24日参照>>)森長可(もりながよし)は、新領地の統治に取りかかりつつも、これを機に越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と結ぶ者も多かった事から、次に越後への侵攻を開始しますが、このタイミングで本能寺の変(6月2日参照>>) が起こって信長が死亡・・・敵地深く入っていた長可は窮地に立ちながらも、6月23日に何とか旧領地の美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)へと帰還します。

しかしその間に、信長の死を知った東美濃では、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)をはじめ、上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)長谷川兄弟大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)などが織田へ反旗をひるがえしていたため、帰還の翌日=6月24日から、これらの諸城を一つ一つ制圧して行くのです。

7月2日には米田城を陥落させますが、城主の肥田忠政が加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃走したため、これを追撃する事に・・・

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて・・・
本能寺の変当時の加治田城の城主は、あの斎藤道三(さいとうどうさん)の末息子=斎藤利治(さいとうとしはる=新五郎)でしたが、彼は、信長の嫡男で岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)主の織田信忠(のぶただ)の側近であったので、主君とともに籠った二条御所で討死してしまいます。

つまり、城主が亡くなってしまったので、その直後の加治田城は、利治の兄で城代の斎藤利堯(としたか)がトップという事になるのですが、その利堯も、この時は、やはり城主が留守の岐阜城の留守居役を務めていたらしく、どうやら伯父(母の兄)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)に同調して岐阜城を占拠して不動の構えを見せていたようで(6月8日参照>>)・・・

かつて肥田忠政が信長に降った際、所領を安堵された後、この利治の配下に組み込まれていますので、おそらくは、そんな忠政にとっては勝手知ったる加治田城へ逃げ込んだ・・・という事だったのでしょう。

一方、先の米田城とともに、すでに馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)も占拠している長可・・・加治田城へと向かうには飛騨川(ひだがわ)を越えなくてはなりませんが、肥田忠政はは、その飛騨川を挟んだ、すぐ向こう側の牛ヶ鼻(うしがはな=岐阜県美濃加茂市森山町)に砦を構えて、川を渡って来る森勢をせん滅せんと陣取っていました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図:後半戦

↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

天正十年(1582年)7月3日、牛ヶ鼻から川を挟んだ小山砦に陣取った森勢が、目の前の河岸から張り出した突起部分が砦となっている牛ヶ鼻に果敢にアタックする事で戦闘が開始されましたが、崖をよじ登ろうとして討たれる者や崖を踏み外して川に落ちる者多数で、初戦は失敗に・・・

しかし、なおも攻める森勢は、崖登りもそこそこに、とにかく川を渡って対岸に行き、砦を包囲します。

そうなると多勢に無勢・・・数に勝る森勢が徐々に勢いを増して来て、ついに砦を支えられなくなった加治田勢は、やむなく砦を放棄して加治田城方面へと逃走し、牛ヶ鼻と加治田城の中間にある堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)で態勢を立て直そうとしますが、森勢の追撃が早すぎて断念し、そのまま加治田城へ合流しました。

その日の夕方、加治田勢を追うかたちで堂洞城址に登った長可は、17年前の合戦で敗れて以来廃城となっているこの城跡から、眼下に見える加治田城の防備を眺めながら作戦を練ったと言います。

一方の加治田城内には、城主の斎藤利治の嫡子(義興?)もいましたが未だ幼く、肥田忠政が代行するかたちで指揮を取り、準備を進めていきました。

明けて7月4日早朝より、今度は加治田城前を流れる川浦川(かわうらがわ)を挟んで、両軍合戦となります。

森勢は、正面の本隊で以って激しく攻めながら、林為忠(はやしためただ)率いる別働隊を川浦川の上流へと迂回させ、加治田勢の長沼三徳(ながぬまさんとく)の陣へ突入させ、敵の側面を崩す中を本隊が一気に突っ切る・・・

加治田勢は、山の麓に諸将の陣を分散して配置し、イザとなった時には、一斉に山上の主郭へと集中して籠城する作戦でしたが、勢いづく森勢を抑えきれず、この河畔の戦いにて崩れ去り、山上の主郭は戦場にもならないうちの昼過ぎに加治田城は落城し、結局、肥田忠政はどこへともなく落ちて行きました(討死説あり)

合戦後は、長沼をはじめとする井戸宇右衛門(いどうえもん)湯浅新六(ゆあさしんろく)など、この戦いに出た多くの将が長可の配下となって、やがて加治田衆(かじたしゅう)と呼ばれて、後の豊臣政権下で活躍する事になるのです。

とは言うものの、実は、この合戦の経緯&結果は諸説あって、よくわかっていないのです。

河畔で合戦になったものの、森勢が押し返されて引き分けになったとか、後半には加治田勢が盛り返して勝利したとか・・・

しかし、上記の豊臣政権下での加治田衆の話を見ても、あるいは、この後の長可の行動を見ても、完全勝利とは行かないまでも、おそらくは森勢が優位に立った状態で、今回の合戦を終えたのではないか?と私は考えています。

なんせ、この後、森長可は、
「この東美濃は、もちもと我が領地であるので、刃向かう者は討伐する!」
と宣言して、高山城(たかやまじょう=岐阜県土岐市土岐津町)平井頼母(ひらいたのも)妻木城(つまぎじょう=岐阜県土岐市)妻木頼忠(つまきよりただ)に、速やかに城を明け渡すよう要求し、拒否した彼らを、平井頼母は自刃に、妻木頼忠は捕えて人質として金山城下に住まわせるという事をやってますから・・・

これは、やはり、加治田城での戦いに勝った状態でないとできないように思います。

まして、この後、この長可の勢いを恐れた明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)遠山利景(とおやまとしかげ)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)小里光明(おりみつあき)は戦う事無く、徳川家康(とくがわいえやす)を頼って、一旦、城を去っていますから、やはり森勢の方に軍配が上がっていたのではないかと・・・

ただし、同じように、長可が城の明け渡しを求めたものの苗木城(なえぎじょう=岐阜県中津川市)遠山友忠(とおやまともただ)友政(ともまさ)父子は、この直後の天正十年(1582年)8月の戦いに勝利し、長可を撤退させています。

その後、態勢を立て直した長可は、翌天正十一年(1583年)の5月に苗木城へと攻め寄せ・・・と、この苗木城に戦いについては、後日あらためて、その日付でくわしく書かせていただくつもりですが、

その2度目の苗木城攻めに勝利した事で、加茂(かも)可児(かに)土岐(とき)恵那(えな)の4郡を平定した長可は12万7千石の領主となり、信長亡き後は、東美濃の大勢力で以って、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下として活躍する事になるのです。
 .

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