京極政経VS高清の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い
延徳二年(1490年)8月7日、京極家の家督争い=京極騒乱の最中、京極政経が将軍=足利義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取りました。
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第59代宇多天皇(うだてんのう)の皇子=敦実親王(あつみしんのう)の第3皇子が臣籍に降下して源雅信(みなもとのまさざね)と名乗った事に始まる宇多源氏(うだげんじ)は、その4男の源扶義(みなもとのすけのり)の子孫が武家=佐々木氏を称して近江(おうみ=滋賀県)を本貫(ほんがん=基となる地)とした後、平安から鎌倉にかけての佐々木信綱(ささきのぶつな)の息子たちのうち、兄が嫡流の六角氏(ろっかくし)となり、弟が京極氏(きょうごくし)と名乗って繁栄します。
その後、信綱から5代目の佐々木道誉(どうよ=京極高氏)(12月7日参照>>)の活躍で、室町幕府政権下での京極家は出雲(いづも=島根県)・隠岐(おき=島根県隠岐諸島)・飛騨(ひだ=岐阜県北部)の守護(しゅご=今の県知事)を務めるまでになり、六角氏とともに近江の2大勢力となっていました(近江源氏)。
そんなこんなの応仁元年(1467年)・・・室町幕府政権下で管領(かんれい=将軍の補佐・No.2)職に就任する3つ家柄=三管領(執事別当)のうち細川(ほそかわ)以外の斯波(しば)&畠山(はたけやま)によるそれぞれの家督争いを発端に、将軍家の家督争いが加わり、全国を真っ二つに分けて戦った、ご存じ応仁の乱(5月20日参照>>)が勃発します。
この時、京極持清(きょうごくもちきよ)は、甥っ子(妹の子)の細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)や娘の嫁ぎ先である畠山政長(はたけやままさなが)が属する東軍につき、息子の京極勝秀(かつひで)とともに、近江にて、西軍についた六角高頼(ろっかくたかより)との合戦を展開していました。
しかし、翌・応仁二年(1468年)6月に、すでに家督を継いでいた息子の勝秀が、さらに文明二年(1470年)8月に父の持清自身が相次いで病死してしまった事で、勝秀の嫡子(ちゃくし=後継ぎ)であった孫童子丸(まごどうじまる)が家督を継ぐ事になりましたが、その翌年に、わずか6歳で、これまた孫童子丸も病死・・・
そのため、孫童子丸の叔父で後見人でもあった持清の三男=京極政経(まさつね・政高)と、かねてより当主の座を争っていた孫童子丸の兄=京極高清(たかきよ・乙童子丸)&その一派との間でお家騒動が勃発するのです。
(高清については、孫童子丸の兄でありながらも側室の子であったので嫡子では無かったとされますが、異説には政経の弟、あるいは勝秀の弟だったの説もあり)
この間にも例の応仁の乱は続いていますから、「敵同士になったからには!」とばかりに、高清を当主に推す派の持清の次男(政経の兄)=京極政光(まさみつ)と多賀清直(たがきよなお)は、未だ幼き高清とともに六角高頼と和睦して西軍へと寝返ります。
こうして
政経とその配下の多賀高忠(たがたかただ)(東軍)
VS
高清と彼を推す京極政光&多賀清直(西軍)
の構図が出来上がります。
そんな中、文明三年(1471年)には、同じ東軍として政経についていた六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟)が高清派に討たれます。
しかし、反撃して来た政経派に今度は高清派が推され、困った高清らは美濃(みの=岐阜県南部)の斎藤妙椿(さいとうみょうちん)に援助を要請し、文明四年(1472年)には、その助けを借りて政経派に勝利し、政経らは越前(えちぜん=福井県東部)へと逃れ、ここで一旦、京極家の家督を継ぐ形になる高清でしたが、まもなく、後見人だった政光が病死します。
それから3年経った文明七年(1475年)、出雲の国人衆などを味方につけて体勢を整えた政経派が上洛し、幕府からの近江奪回の許可を得て近江に侵攻・・・六角氏の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を攻撃して高清派に大勝利し、彼らは江北(こうほく=滋賀県の北側)に追いやられてしまいます(10月28日参照>>)。
とは言え、未だ継続中の応仁の乱ですから「西軍に属する彼らがヤバイ」となると、当然、西軍の武将ら=美濃の土岐成頼(とき しげより)や尾張(おわり=愛知県西部)の斯波義廉(しばよしかど)などが援軍を派遣し、仲間を得た高清派が反撃し・・・と、近江を巡って一進一退の攻防が何度も繰り広げられた末、ここは高清派が勝利。
しかし、そんなこんなの文明五年(1473年)の西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)&東軍総大将の細川勝元の両巨頭の相次ぐ死(3月18日参照>>)により、京都における応仁の乱絡みの動きは徐々に下火となっていき、翌文明六年(1474年)に両巨頭の息子たち(山名政豊&細川政元)が和睦した事で都に駐屯していた地方の武将たちもだんだん領国へと戻りはじめ、やがて文明九年(1477年)11月、最後まで京都に残っていた周防(すおう=山口県)の大内政広(おおうちまさひろ)が帰国して、応仁の乱が終結したのです(11月11日参照>>)。
でも、中央政府が都にて「ハイ!しゅう~りょう~~」と言ったところで、それまで戦っていた武将たちが「ほな、おわろか~」なるわきゃない・・・てか、むしろ地方に戻った武将たちは、その領国にて、自身の家督争いや領国拡大の戦いをする事になるわけで・・・(【応仁の乱後も戦い続けた畠山義就】参照>>)
しかも、このドサクサで、かなり強引に事を起こす者も出て来て・・・と、その一人が、応仁の乱終了後に政経に代わって近江守護となっていた六角高頼だったわけですが、そうなると、治安維持のためにも幕府=将軍が、それらの横暴を抑えねばならないわけで・・・
そこで、応仁の乱時代の第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後を継いだ第9代将軍=足利義尚(よしひさ=義政の息子)が、自ら大軍を率いて六角高頼を成敗すべく出陣・・・これが近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)と呼ばれる戦いなのですが、残念ながら、義尚は、未だ六角氏を制する事ができていない長享三年(1489年)、この陣中にて病死してしまいます(3月26日参照>>)。
やむなく、この六角成敗の一件は、その後を継いだ第10代将軍=足利義稙(よしたね=当時は義材)に引き継がれるのですが、そのお話は【将軍・足利義材による六角征討】>> で見ていただくとして、当然、この間も京極家の争いは継続中・・・未だ取ったり取られたりを繰り返していたわけですが、
そんなこんなの長享元年(1487年)、領国の出雲に戻っていた京極政経は近江を奪回すべく上洛・・・翌年には近江松尾(現在の長浜市付近)にて高清らと交戦するも敗退・・・しかし、その翌年の延徳二年(1490年)8月7日、政経は将軍=義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取るのです。
そう、上記の通り・・・この時の将軍は六角高頼を成敗中ですから、あの応仁の乱の以来、西軍同士のよしみで未だ高頼とツウツウな高清は、今回の近江鈎でもバッチリ六角勢として参戦しちゃってますから、将軍としては、そんな高清らに1発カマしてやってほしいわけです。
こうして、将軍のお墨付きを得た政経は、江北の豪族で京極の重臣でもある上坂治部(こうさか=家信?)や浅井直種(あざいなおたね=浅井長政の曽祖父)といった面々を味方に引き入れ、祇園館(ぎおんやかた=滋賀県長浜市祇園町)の高清を攻めたのです。
将軍威力による重臣クラスの面々の離反で「太刀打ちできない」と判断した高清は、攻撃を防ぎつつ余呉(よご=長浜市余呉町)まで撤退した後、なおも続く厳しい追撃に耐えつつ、坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと身を隠しました。
この功績により将軍=義稙から太刀を賜り、息子=京極材宗(きむね)とともに江北を任される事になった政経・・・(南には、まだ六角がいるのでね)
ところが、そのわずか2年後の明応元年(1492年)、とりあえずの六角征討を果たした(厳密には高頼が逃走しただけ…くわしくは先程の【将軍・足利義材による六角征討】参照>>)義稙は、突如として六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子=虎千代を近江守護に任命し、逃れていた高清を呼び戻して京極家の後継とし、政経を排除したのです。
実は、これには、あの『明応の政変(めいおうのせいへん)』が・・・これは、細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(ほそかわまさもと)によって明応二年(1493年)に決行される政変で、管領である政元が、現将軍を廃し、自らの意のままになる将軍に首を挿げ替えた、まさに戦国下剋上の幕を開けたとも言われる政変(4月22日参照>>)。
つまり、現将軍=義稙から、政元お気に入りの足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟…義遐・義高)へと交代させるわけですが、どうやら、ここらあたりで義稙自身が、その政元の動きに気づいたらしい・・・
その中心人物である政元→斯波義寛(しばよしひろ=義敏の息子)→赤松 政則(あかまつ まさのり)ラインは、まさに応仁の乱の東軍ラインなわけで、当然、政経も、このライングループだったのですね。
こうして明応元年(1492年)に高清に京極家の家督が認められ政経は失脚するのですが、先の戦いで重臣たちの多くが政経に味方した事は、高清にとっては何とも心細い・・・しかも、上記の通り、義稙の抵抗空しく翌・明応二年(1493年)に明応の政変が起こって立場が逆転し、高清の運命も風前の灯となります。
そこで高清は以前も助けてくれた斎藤妙椿の息子=斎藤妙純(みょうじゅん=利国)の力を借りて挽回を図ります。
かくして明応四年(1495年)に美濃の内乱である船田合戦(ふなだがっせん)に勝利した妙純が、その勢いのまま近江へと侵出して来ると、たまらず政経は出雲へと逃走・・・さらに進む妙純は高頼らと交戦しますが、激しく展開された戦いは両者ともに大きな犠牲を払いながらも決着が付かないでいたところ、明応五年(1496年)に妙純が一揆に襲われて死亡してしまい(12月7日参照>>)、後ろ盾を失った高清も没落して、その後は斎藤氏を頼って美濃に向かったとか・・・
やがて明応八年(1499年)、重臣の上坂家信の助けによって北近江へと戻った高清は、政経の息子=材宗と和睦して、ここでようやく京極家の一連のお家騒動が終了するのです。
この京極家のお家騒動は、応仁の乱が終わった後も約30年に渡って繰り広げられ、文明の乱あるいは文明の内訌(ないこう)とも京極騒乱(きょうごくそうらん)とも呼ばれます。
・・・にしても、このお家騒動は京極家にとって命取りでしたね。
なんせ、武家の名門として出雲&隠岐&飛騨&近江の守護だったのが、騒乱が終わった後に残ったのは北近江だけ・・・
かの政経は妙純の侵攻で出雲へ退くも、その後の事はよくわからず、和睦の後に自刃に追い込まれた息子の材宗には吉童子丸という息子がいて、彼が出雲の守護となったとも言われますが、ご存じのように、この出雲は、京極配下で出雲の守護代(しゅごだい=今の副知事)だった尼子経久(あまごつねひさ)の尼子氏が、隠岐も含めて仕切るようになり、彼らの名は登場しません。
飛騨も、やはり家臣で守護代だった三木氏(みきし=姉小路氏)に取って代わられ、しかも、この後、高清の息子たちの間でまたもや後継者争いが起き、その間に、残った北近江までもが重臣の浅井亮政(あざいすけまさ=直種の息子で直政の婿養子)に仕切られる事になってしまうわけで・・・(3月9日参照>>)
そして、ご存じのように高清の孫にあたる京極高次(きょうごくたかつぐ)が、美人の姉ちゃん(もしくは妹)の京極竜子(たつこ)が豊臣秀吉(とよとみひでよし)に見染められて側室となった縁で表舞台に登場するまで、少々の間、浅井家に庇護のもと、大人しくしているしか無かったわけです(5月3日参照>>)。
と、まぁ、本日は、ご覧の通り、京極騒乱についてダーっと駆け足で書かせていただきましたが、上記のように、この京極家の争いは応仁の乱と連動していたり、合戦の数も複数あり・・・本日のところは、その大まかな流れをサラッと書かせていただいたところで、いずれまた個々の戦いを、それぞれの日付にてご紹介していきたいと思います。
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