長篠の直後…徳川VS武田~諏訪原城の戦い
天正三年(1575年)8月24日、徳川家康が武田勝頼方の諏訪原城を攻め落としました。
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海道一の弓取りと称された天下に最も近い男=駿河(するが=静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)によって桶狭間(おけはざま)に敗れて(5月19日参照>>)のち、後を継いだ今川氏真(うじざね)を北と西から挟み撃ちするがの如く、協力して倒した甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)と三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)・・・
●今川館の攻防戦>>
●掛川城・攻防戦>>
しかし、その後、両者は対立・・・元亀三年(1572年)10月に甲斐を出陣した信玄は、
一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)
→二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)
→仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)(10月22日参照>>)
と来て、12月にはご存じ三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)の戦いで、家康は惨敗してしまいます(12月22日参照>>)。
ところが、その勢いのまま上洛するかに見えた武田軍は天正元年(1573年)1月の野田城(のだじょう=愛知県新城市)の戦い(1月11日参照>>)を最後にUターン・・・そう、御大=信玄が亡くなったのです。
その遺言(4月16日参照>>)で「自分の死は3年隠せ」と言われた後継者の武田勝頼(かつより=信玄の四男)ではありましたが、むしろ、カリスマ的な父の影を払しょくするがの如く領地拡大へと突き進み、天正二年(1574年)2月には織田傘下の明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻略(2月5日参照>>)、5月には父=信玄さえ落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)をモノにします(5月12日参照>>)。
そして、翌・天正三年(1575年)4月、家康の長女=亀姫(かめひめ)と婚約して武田から徳川へと寝返った(9月8日参照>>)奥平貞昌(おくだいらさだまさ)が城主を務める長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市)を取り囲んだのです(4月21日参照>>)。
この包囲された長篠城を救うべく家康、そして援護する織田が、近くの設楽ヶ原(したらがはら)にてぶつかったのが、有名な長篠設楽ヶ原の戦いです。
●史上最強の伝令・鳥居強右衛門>>
●設楽原到着で…>>
●長篠を救ったもう1人の伝令>>
●鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦>>
●決戦!長篠の戦い>>
これまで、ブログにも書かせていただいている通り、この戦いにおいて、有名な3段撃ちは無かったかも知れないし、伝えられるほどの大差も、言われるほどの織田&徳川連合軍の圧勝という事も無かったかも知れませんが、信玄以来の重鎮と呼ばれる家臣が多く亡くなった事は事実でしょうし、先の遺言のページ>>で書かせていただいてるように、当主である勝頼と家臣団との間に少なからずの亀裂を生み、武田にとってこの長篠設楽ヶ原の戦いは良く無い戦いであった事は確かでしょう。
なんせ、ご存じのように、ここから織田&徳川の台頭が、歴史の流れからも見えて来るわけですから・・・
もちろん、その事は、戦い終えた家康も感じていたわけで・・・長篠の勢いのまま間髪入れず、武田の物となっていた遠江(とおとうみ=静岡県西部)の諸城の奪取を計画します。
その第1の目標となったのが、先の元亀三年(1572年)の信玄の侵攻で三方ヶ原の前哨戦で奪われていた二俣城でした。
かの長篠設楽ヶ原から1ヶ月と経たない天正三年(1575年)6月24日、二俣城の支城である光明城(こうみょうじょう=静岡県浜松市天竜区)を落とした家康は、二俣城の周辺に4つの付城(つけじろ=攻撃のための城)を構築する一方で、次の諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)に狙いを定めます。
この諏訪原城は、信玄が亡くなって勝頼に引き継がれたばかりの武田が、まさに、この先の徳川との領地争奪戦を意識して構築した東海道沿いの要所に佇む城・・・現時点で武田の最前線である高天神城への補給路を確保するためにも重要な城でした。
まず掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に入った家康は、配下の松平忠正(まつだいらただまさ)に命じて、ここにも付城を構築して守らせたうえ、先鋒として攻撃の最前線に放ちます。
命を受けた忠正が諏訪原城の出丸である亀甲曲輪(きっこうくるわ)を攻め落とす一方で、菊川(きくがわ)方面から松平真乗(さねのり=家康の又従兄弟)が攻めかかります。
しかし、コチラ=真乗勢は武田流の巧みな縄張り(城の造り)に阻まれうまく進めず・・・一旦敗走し、再び城門まで押し寄せるも、やはり、それ以上攻め込む事はできませんでした。
それから約1ヶ月ほど、包囲と籠城の攻防が繰り広げられますが、8月23日になって家康自らが出陣・・・日坂(にっさか=静岡県掛川市)の久延寺(きゅうえんじ=同掛川市)に本陣を移動させて、本格的な城攻めを開始します。
この時、諏訪原城を守っていたのは、武田譜代の家臣=今福友清(いまふくともきよ)以下、武田配下の海野(うんの)氏や遠山(とおやま)氏の面々・・・
しかし、上記の通り、武田方は長篠の敗戦後のゴタゴタが未だ治め切れておらず、この時、援軍を出せる状況では無かったのだとか・・・
結局、天正三年(1575年)8月24日、諏訪原城は落城します。
一説には、この日に大将である今福友清が討死にした事+この先の援軍を期待できない事から、残った城兵は、夜陰に紛れて小山城(こやまじょう=静岡県榛原郡吉田町)へ逃げ去ったとされます(実際には友清はここでは討死してないっぽいですが…)。
落城の日付に関しては諸説あるようですが、
『武徳編年集成』に「廿四日 諏訪原の城兵諸賀…夜密ニ是を避て小山城に走る」
『参河国聞書』に「八月廿四日、諏訪原城を攻め、落ちて…」
とあり、
『今川氏真詠草』にも、
♪朝霧や 下に立ちらむ ふしのねの
山なき空に 近く浮へる… ♪
の氏真作の歌とともに「八月廿四日諏訪原新城降参」
とある事から、おそらく8月24日に落城した物と思われます。
そう・・・実は、
この勝利により、諏訪原城を手に入れた家康は、古代中国の故事(周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の帝辛(ていしん)を牧野(ぼくや)に破ったという話)にちなんて、この城を牧野城 (まきのじょう)という名に改めるのですが、
その時、配下の松井忠次(まついただつぐ=松平康親)や牧野康成(まきのやすなり)を城番として入城させているのですが、名目上の城主としているのが、あの今川氏真なのです。
上記の通り今川氏真は、信玄と家康によって掛川城を追われ、戦国武将としての今川が事実上滅亡となった後、同盟者であった北条(ほうじょう)を頼って小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)にいたものの、その北条と武田が同盟を結んだ事で居づらくなって、その後は、家康の保護を受けていた・・・と、
つまり家康は、武田と対抗するにあたって、駿河や遠江の元領主である今川の当主=氏真を厚遇して、もともとこの地に根付いていた者たちの勢力を自らの側に引き寄せようと考えたわけです。
とは言え、2年後の天正五年(1577年)頃には、すでに、この牧野城周辺の支配は盤石になったと見え、氏真の城主の座は解任してるんですけどね。
現に、その翌年=天正六年(1578年)、
『家忠日記』によれば、
この年の8月28日に、武田軍がこの牧野城間近まで襲来して来た事が記録されていますが、ただ襲来して来たというだけで「だから何」という事も無かったようで・・・おそらくは、もはや手出しはできないような状況であった雰囲気が読み取れますから・・・
(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
ところで、かの長篠の後、光明城からの、今回の諏訪原城と来た家康は、この12月には、光明&諏訪原を落とされて孤立していた二俣城を攻略し、さらに周辺の武田方の諸城へと攻撃を仕掛けていくのですが、さすがの武田方の守りはなかなかの物で、その状況はしばらくの間一進一退・・・
(この時期に家康が3度に渡って攻撃を仕掛けた【持船城の攻防】も参照>>)
しかし、流れ始めた歴史の大河は、やがて天正九年(1581年)3月の高天神城の戦いへと進んで行き、窮地に陥ったこの城に援軍を出せないまま徳川に奪回されてしまった形(3月22日参照>>)となった武田が、翌・天正十年(1582年)3月、勝頼の自害で以って滅亡する(3月11日参照>>)事は、皆様ご存じの通りです。
ドラマ等ではすっ飛ばされがちなので、あの長篠の戦いの後、すぐに武田が滅んでしまったかのように思いがちですが、そのあと7年間武田は耐え・・・言いかえれば、家康は7年かけて徐々に武田方だった諸城を攻略していったわけです。
この間の勝頼は、自身の家臣団との意思疎通がうまく行かず、それゆえ、各城への援軍派遣もままならない状態だった・・・それこそが1番の武田滅亡の要因だったのかも知れません。
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