最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転
天文十五年(1546年)9月14日、細川氏綱が亡き養父の仇を撃つべく細川晴元を攻めた嵯峨の戦いがありました。(細川家内訌)
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父=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いで応仁の乱を収め、自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変を(4月22日参照>>)をやってのけた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)=細川政元(まさもと)・・・
その後継者を争った3人の養子の中で、一歩抜け出て、第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して我が世の春を迎えた細川高国(たかくに)でしたが(5月5日参照>>)、大永六年(1526年)、自らの重臣に謀反の疑いをかけて殺害してしまった事から、その遺族の恨みをかい、土台が揺らぎ始めると(10月23日参照>>)、以前の養子同士の後継者争いで負けた細川澄元(すみもと)の遺児=細川晴元(はるもと)が、このタイミングで畿内へと攻め登り(2月13日参照>>)、大敗した高国は近江(おうみ=滋賀県)へと逃走・・・その後も、何度か刃を交える高国VS晴元でしたが、享禄四年(1531年)6月、高国は京都を奪回する事無く戦いに敗れて自害します。(6月8日参照>>)
その遺志を継いで政権奪回を計り、細川晴元と戦ったのは、高国の弟の細川晴国(はるくに)(6月18日参照>>)でしたが、彼もまた、晴元に通じた三宅国村(みやけくにむら)の反乱によって天文五年(1536年)8月に命を落とします。
そして、その後を継いだのが高国の養子であった細川氏綱(うじつな)でした。
氏綱は、高国の従兄弟(父の弟の子)に当たる細川尹賢(ただかた)の実子でしたが、高国の嫡男である細川稙国(たねくに)が18歳の若さで病死してしまったため、そのタイミングで、後継者候補として養子に迎え入れられていたのでした。
また、氏綱の実父=尹賢は、高国没落のおりには晴元に同調していたものの、結局、その後に晴元の命によって殺害されてしまうという・・・つまり、氏綱にとっては養父と実父の両方が(もちろん叔父も…)晴元によって死に追いやられた事になるわけで・・・
当然、跡目を継いだ氏綱は、晴元に抵抗すべく、天文十二年(1543年)7月、槇尾山城(まきおやまじょう=大阪府和泉市)に拠って旧臣たちをかき集め、反晴元の狼煙を挙げたのです。
氏綱出兵の報を受けて摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)に出陣した晴元に対し、氏綱勢は堺(さかい=大阪府堺市)を攻撃しますが、この時には、晴元の重臣=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)らに敗れて兵を退きました。
しかし、その後、本願寺証如(しょうにょ=證如・第10世)から兵糧や金子の援助を受け、畠山稙長(はたけやまたねなが=河内・紀伊・越中守護)や遊佐長教(ゆさながのり=河内国守護代)らと連絡を取り合って態勢を立て直してた氏綱は、河内(かわち=大阪府東部)から大和(やまと=奈良県)へと入り、天文十四年(1545年)5月には、晴元傘下の上野元全(うえのもとたけ)の井手城(いでじょう=京都府綴喜郡井手町)に攻撃を仕掛けますが、またもや三好長慶らに阻まれて敗走・・・しかも、この同時期には蔭ながら氏綱を支援してくれていた畠山稙長も病死。
翌々月後の7月には氏綱方の内藤顕勝(ないとうあきかつ)が丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)関城(せきじょう=京都府京丹後市久美浜町)にて反晴元の兵を挙げますが、これまた長慶らに攻められて開城を余儀なくされます。
なんせ世は、高国政権に代わって、堺公方(さかいくぼう)=足利義維(よしつな=義晴の弟)を看板に据えた晴元政権の時代ですから戦う相手は現時点で最強の敵・・・そう簡単には行きません。
しかし、氏綱のヤル気はまだまだ衰えず・・・ようやく、翌・天文十五年(1546年)夏、一矢報いる時が来ます。
三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)の三宅国村を寝返らせ、池田城(いけだじょう=大阪府池田市)の池田信正(いけだのぶまさ=久宗)など摂津の有力国衆を味方につけた氏綱勢は、長慶が戦闘準備のために堺に入ったのをキッカケに、摂津や山城(やましろ=京都府南部)方面の各地で一気に兵を挙げ、晴元方の大塚城(おおつかじょう=大阪市天王寺区茶臼山町)を占拠した後、天文十五年(1546年)9月14日には京都嵯峨に展開する晴元勢を攻め立て、晴元本人を丹波神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)にまで退け、芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)も開城させたのです。
大塚城址=茶臼山:池中のこんもりした森が茶臼山…戦国最後の大坂の陣の陣跡として知られる茶臼山ですが、それ以前には大塚城がありました。
これを受けて長慶は、15日に高雄(たかお=京都市右京区)まで出陣して戦いますが、氏綱方の上野元治(うえのもとはる)に敗れ、丹波へと敗走する事に・・・さらに9月19日には、この丹波にも追撃をかけられ、ほうほうのていで何とか越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)まで移動し、
ここで態勢を整えます。
こうして一時的に京都を追われた晴元勢でしたが、11月に入って長慶の弟たち=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>)や十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った=5月1日参照>>)らが合流するに至って、形勢は一気に逆転します。
翌・天文十六年(1547年)の2月~6月にかけて、総勢2万もの大軍となった晴元方は、三宅城&池田城を落とし、芥川山城を奪回し・・・さらに、晴元を支援する近江の六角定頼(ろっかくさだより)の援軍が加わると、氏綱のために勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう=京都市左京区北白川)まで出張っていた足利義晴も撤退を開始・・・大勝利の晴元は約1年ぶりに京を奪回しました。
・・・て、氏綱さん、結局、負けたんか~い゚゚(´O`)°゚
どうしても勝てない!!もはや万策尽きたか???
と、思いきや、思わぬ所から思わぬ助っ人が登場します。
そう・・・これまで晴元政権の片翼を担っていたはずの三好長慶が、舅の遊佐長教に接触・・・晴元に反旗を翻したのです。
もともと、故郷の阿波(あわ=徳島県)時代から晴元の重臣であった三好家ではありますが、長慶の父=三好元長(みよしもとなが)は、主君=晴元との亀裂の中で無念の死を遂げた(7月17日参照>>)という過去があります。
それでも長慶は、恨む気持ちを抑えて仕えていたにも関わらず、血筋から見れば三好の総帥である長慶よりも、三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟や政長の息子=三好政康(まさやす=宗渭・政勝、三好三人衆の一人)らを、相も変わらず晴元が重用する事に、とうとう堪忍袋の緒が切れちゃった・・・てな感じ??(ま、他にもイロイロあるでしょうが…)
こうして、氏綱側についた長慶が晴元勢とぶつかったのが天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)・・・この戦いで政長を討ち取り大勝利を収めた長慶に対し、一方の晴元は京都を追われ近江へと敗走。
ここに細川氏綱を冠にした三好政権が誕生します。
さらに永禄元年(1558年)6月には、復権をもくろむ若き新将軍(第13代)=足利義輝(よしてる=義晴の嫡男)と京都・白川口(北白川付近)にて交戦しますが(6月9日参照>>)、その戦いをキッカケに将軍家と三好家の和睦が成立した事で、義輝は5年ぶりに京都に戻り(11月27日参照>>)、氏綱は晴れて幕府管領の座に就いて細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=細川家の嫡流家)の家督を継ぐ事になるという万々歳な結果に・・・
とは言え、上記の通り、氏綱の勝利&管領就任&家督継承は、どう見ても長慶が味方についてくれたおかげ・・・
なので、この後の実権は完全に長慶が握っており、氏綱は長慶の傀儡(かいらい=あやつり人形)、あるいはお飾りの管領とも言われますが、一方では、この時点での長慶は、未だ細川家に仕える一武将・・・氏綱という看板無くして晴元に抵抗すれば、それは幕府への謀反になるわけで、自らの戦いを正当化&すんなりと晴元を排除するためにも、氏綱の存在は重要だった事でしょう。
ただし、やはり世は戦国・・・ご存じのように、これで事実上の天下人となった三好長慶によって三好政権が畿内を牛耳る事となり、この後の氏綱には政治的出番がないまま、永禄六年(1564年)12月に静かにこの世を去った事で、管領という役職もウヤムヤに・・・なので、氏綱は最後の管領とも言われます。
思えば、建武三年(1336年)に室町幕府初代将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)の補佐として高師直(こうのもろなお)が(2月26日参照>>)が就任した執事(しつじ)に始まる管領という役職は、約230年に渡って引き継がれ、この細川氏綱を最後に姿を消す事になったのです。
(上記の通り、最後の方はウヤムヤなので…細川高国の自害を以って管領は消滅したという見方もあります)
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