光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?
弘治二年(1556年)9月20日、斎藤義龍に攻められた明智城が落城し、明智光安が自刃しました。
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清和源氏の流れを汲む美濃(みの=岐阜県)の守護(しゅご=現代の県知事みたいな)であった土岐(とき)氏から枝分かれした明智(あけち)氏は、明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を拠点として室町幕府に直接仕える奉公衆を務めていましたが、戦国時代に入って、あの美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん=利政)が、守護の土岐頼芸(よりなり)に取って代わって美濃一国を掌握するようになります(12月4日参照>>)。
当時の明智氏は、先代の明智光綱(あけちみつつな)が若くして亡くなったため、その嫡子の明智光秀(みつひで)が家督を継いでいたものの、未だ幼かったため、叔父(光綱の弟)の明智光安(みつやす)が光秀の後見人となって明智家の政務をこなしていた状態でしたが、この道三の台頭に対しては、ちゃっかりと自らの妹=小見の方(おみのかた)を道三の継室(けいしつ=正室が亡くなったあとの次の正室・後妻)に送りこんで、生き残りを図っていたのです。
ちなみに、この小見の方と道三の間に生まれたのが、織田信長(おだのぶなが)に嫁いだ濃姫(のうひめ=帰蝶)です(2月24日参照>>)。
しかし、その濃姫の結婚からわずか6年後の弘治元年(1555年)・・・道三の長男(濃姫の異母兄)である斎藤義龍(よしたつ)が、二人の弟を殺害し(10月22日参照>>)、父=道三に反旗を翻すのです。
光安は迷います。
なんだかんだで親子ゲンカ・・・どっちにも義理がある。
しかし、合戦となった以上、どちらかが勝ってどちらかが負ける中で、明智はどちらにつくべきか・・・
結果、光安は、若き光秀にわずかの兵をつけて義龍のもとに参陣させて土岐氏への義理を果たし、自らは中立の立場を守り、事を静観するという選択をしたのです。
かくして弘治二年(1556年)4月20日、道三×義龍による父子対決=長良川の戦いが決行され、ご存じのように、義龍の大勝となって道三は命を落とします(4月20日参照>>)。
そのページにも書かせていただいたように、この合戦の時点で義龍は道三の6倍ほどの兵を維持=つまり、臣下の者の多くが義龍に味方していた状況でしたから、光安としても、「例え妹婿であっても道三側につくのは分が悪い」と感じていたのかも知れません。
とは言え、事が落ち着いた後も、光安は義龍の居る稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)へも出仕する事無く、心の中では悶々とする日々を過ごしていたのです。
自身のとった行動が果たして本当に良かったのか?
道三に対し、また土岐家に対して申し訳が立つのか?
誇りある家名を汚す事になりはしないか?
また、
軍治のおりには何もせず静観しておいて、義龍の世になったからと、ホイホイと出仕して臣下の列に座する事を、他人はどう思うだろう?
様々な思いが胸を過る・・・
♪人間~五十年~♪と言われたこの時代に、すでに50代半ばを過ぎていた光安は、ここで決断するのです。
「もはや命は惜しくない」
と・・・
ここに、「死を以って義理を果たし、武名を残す事こそ本意」と決めた光安は、弘治二年(1556年)9月、義龍に手切れの使者を送り、一族870人を集めて明智城に籠城したのです。
これを受けた義龍は、叔父(もしくは弟)の長井道利(ながいみちとし)(8月28日参照>>)に3700余騎の兵をつけ明智討伐軍として出陣させました。
●明智城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
9月19日に稲葉山城を出発した軍勢は、土田(どた)の渡しより木曽川(きそがわ)を渡り、さらに可児川(かにがわ)左岸に布陣した後、明智城へと迫りますが、城は天然の要害であるうえに明智勢の反撃も鋭く稲葉山勢が城を抜く事はできず・・・この日は双方に死傷者を出しながらも、決着つかぬまま日が暮れました。
その夜・・・「明日は決戦になる事必至」と悟った光安は、皆を集めて酒宴を催し、
「明日は城外へ撃って出て、思う存分に戦った後、本丸に火を放ち、潔く果てようぞ!」
と全将士と別れの盃を交わしました。
かくして弘治二年(1556年)9月20日、数倍の兵に囲まれた明智城・・・予想通り、早朝から稲葉山勢による総攻撃が開始されました。
敵に埋め尽くされた城下にて奮戦する明智勢ではありましたが、所詮は多勢に無勢・・・やがて押され始めた明智勢が城内へと退き始めると、光安も覚悟を決め「もはや、これまで」と、そばに光秀を呼び寄せて、
「本来なら、(光秀の死を)見定めた後、我ら殉死すべきところですが、それをしてしまうと明智家は断絶してしまいます。
祖父(光秀の祖父=明智光継)の遺言でもありますし、志も大きいですので、どうかその身を守り落ちのびて、後々、家名を再興してください。
その時は、どうか、我が長男の秀満(ひでみつ)と次男の光忠(みつただ)を盛りたててやってください」
と頼み、切腹したのです。
光安の死を見届けた光秀は、妻子と従者10人余りとともに城を脱出・・・叔父(光綱の弟で光安の兄)の山岸光信(やまぎしみつのぶ)を頼って西美濃(現在の岐阜県揖斐郡大野町付近)へと落ちていったのです。
ここに明智城は落城し、明智家も没落したのですが・・・
その数年後、西美濃に妻子と従者を預けた光秀は、諸国を転々と武者修行したり、京都の嵯峨(さが)嵐山付近に潜伏して学問をしたりの全国遍歴の旅に・・・
やがて永禄十一年(1568年)、自らを将軍として担いでくれる武将を探していた足利義昭(あしかがよしあき=義秋)と、上洛する大義名分を求めていた織田信長を結びつける仲介役として、光秀は華々しく歴史の表舞台に登場する事となります。
【義昭の上洛希望】参照>>
【信長の上洛】参照>>
・‥…━━━☆
とは言え、ご存じのように、実際の明智光秀の前半生はまったくの謎・・・
今回お話は『美濃國諸奮記』という江戸時代に書かれた軍記物に記された内容ですが、軍記物とは、今で言うところの歴史小説のような物で、すべてが創作では無いでしょうが、かと言って一級史料とは言い難い=「史実をもとにしたフィクションです」みたいなシロモノです。
ここに、光安の息子として登場する秀満や光忠も、実際には光秀が信長の配下となって活躍する時に、その家臣として登場して来ますが、それ以前の事はよくわからず、当然、光安の息子かどうかもわかりませんし、なんなら光安自身が、別人(遠山景行)だった話まであります。
もちろん、光秀が明智家の嫡流だったかどうかも、この時に落城した明智城にいたのかどうかも不明・・・信長らと接触する以前の光秀の事は、ほぼほぼ、上記のような軍記物にしか登場しないのが現状なんです。
ただ、光秀は、無名の状態から、いきなり登場したワリには、すでに一流の兵法を見につけていて、鉄砲を自在に操り、オシャレな京言葉を話し、都会的で世間の状勢にもくわしく、頭も良い(10月18日参照>>)・・・いわゆる即戦力で、
「おい君、彼はいったいどこで?」からの
「ビズリ~チ」d(゜ー゜)状態の登場だったわけで・・・
しかも、その後、中途採用なのにも関わらず、社内で1番最初に独立を勝ち取る(城主になる)スピード出世を果たしておきながらの、いきなりの謀反(本能寺の変)・・・には、誰しもが首をかしげるワケで・・・
てな事で、
彼が最初っからデキる男だったのにはワケがあるんだろう?
いきなりの謀反には、それ相当の理由があるんだろう?
てな疑問が湧くのは当然・・・
で、この二つの謎を解くためには、その明智という苗字から推測して、
はなから文武両道で都会的だったのは明智家の嫡流だから・・・
謀反を起こすのは、明智&土岐氏の再興を夢見ていたから・・・
てな、憶測が生まれ、このような軍記物が登場する事になるのでしょうね。
(*ちなみに土岐惣領家を継いでいた土岐頼芸は道三に追放された後も各地を転々した後、武田の庇護受けていたところに信長の甲州征伐で元家臣の稲葉一鉄に保護され、本能寺の変の時も失明&病気がちではあるもののギリ存命でした)
おそらくは、実際に明智城落城の一件があり、そこに後に登場する光秀の謎の部分を絡ませた感じでしょうか?
もちろん、今回の話が、すべて事実の可能性もありますが・・・そこに明確な答えが出ないのが、歴史のオモシロイところでもあります。
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