前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡の戦い
明応八年(1499年)9月27日、前将軍=足利義稙と同調する畠山尚順を攻める細川政元が、宇治木幡の戦いにて槇島城を落としました。
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第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争い=義尚(よしひさ=義政の息子)×義視(よしみ=義政の弟)に、 畠山&斯波・両管領家の後継者争い=
畠山義就(よしひろ)×政長(まさなが)
斯波義廉(しばよしかど)×義敏(よしとし)
がひっついて、それぞれに味方する武将が
山名宗全(やまなそうぜん=持豊)=(西軍)
細川勝元(ほそかわかつもと)=(東軍)
に分かれ、地方の武将を巻き込んで約10年に渡って繰り広げられた応仁の乱(5月20日参照>>)も、宗全&勝元=両巨頭の死を以って勢いを失くし(3月18日参照>>)、両者の後継同士=山名政豊(まさとよ=宗全の孫)&細川政元(まさもと=勝元の嫡男)が和睦を結ぶ事によって終結の兆しをみせ、このために京都に集結していた武将たちも、徐々に地元へと帰って行くのですが(11月11日参照>>)、
両総大将が手打ちしたからと言って、その発端となった後継者争いに決着がついたわけではなく、結局、それらの争いはそれぞれ個別の争いとなってくすぶり続けるわけです(12月12日参照>>)。
そんな中、スッタモンダで義政の後を継いで第9代将軍になっていた義尚が、未だ男子をもうけないまま、近江(滋賀県)南部の戦国大名=六角高頼(ろっかくたかより)を征伐中の近江鈎(まがり・滋賀県栗東)の陣中で病死(3月27日参照>>)・・・そのため、結局は、亡き義尚と将軍の座を争った義視の息子=足利義稙(よしたね=当時は義材・後に義尹)が、その後を継いで第10代将軍となります。
義稙は、義尚を遺志を継いで明応元年(1492年)には、とりあえず、六角氏を近江より追い出す事に成功しますが(12月13日参照>>)、管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元にとっては、どうしても、この義稙が気に入らない・・・
最初は
「僕、何もわかりませんので、大人しくして全部政元さんに任しますわ」
としおらしくしてたのに、なんだかんだで、いつの間にか
「俺が将軍や!」
とばかりに、政元の反対をよそに、イロイロ動き始める・・・
そんなこんなの明応二年(1493年)、やはり、政元の反対を押し切った義稙は、未だくすぶり続ける畠山の後継者争いに関与して、畠山義豊(よしとよ=基家・義就の息子)討伐のため、畠山政長とともに河内(かわち=大阪府東部)へと出兵します。
その留守を狙って、政元は、日野富子(ひのとみこ=足利義政の奥さんで義尚の母)らと組んでクーデターを決行・・・義稙を廃して、第11代新将軍に足利義澄(よしずみ=当時は義高・義尚&義材の従兄弟)を擁立したのです(明応の政変>>)。
京都にいない間に一夜にして賊軍の大将となった義稙は、やむなく投降・・・これキッカケで政元派に寝返る武将も出て孤立無援となった政長は自刃して果てました(討死にとも)。
それでも終わらない畠山の争い・・・(7月12日参照>>)
政長が敗死してくれたおかげで、奪われていた守護の座を確保した義豊は、亡き政長の後を継いだ息子の畠山尚順(ひさのぶ)と、度々の衝突を繰り返しますが、徐々に劣勢となっていき、やがて明応六年(1497年)10月に高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を落とされた事で河内を捨てて山城(やましろ=京都府南部)へ逃亡・・・さらに翌・11月には大和(やまと=奈良県)地方での義豊派の国人であった越智家栄(おちいえひで)と古市澄胤(ふるいちちょういん)が尚順を支持する筒井順賢(つついじゅんけん)と十市遠治(とおちとおはる)に敗れた事で窮地に追い込まれます。
追い込まれた義豊は明応八年(1499年)正月、起死回生の一手とばかりに尚順を野崎城(のざきじょう=大阪府大東市)に攻めますが、カウンターパンチを喰らって攻め込まれ、河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ=現在の寝屋川市西部と門真市・守口市一帯)で討死してしまいました。
義豊とともに戦っていた息子の畠山義英(よしひで)は何とか戦場を離脱し、しばらく、その身を隠します。
勢いに乗った尚順勢は、次々と河内を平定していきますが、当然、その先には、以前より義豊を支持する細川政元が・・・そんなこんなの7月頃、尚順は元将軍の義稙に接触します。
義稙は政変後の戦いで降伏した時、流罪となって幽閉されそうになった所を支援者の手助けで脱出して政長の領国であった越中(えっちゅう=富山県)に逃れて、政長家臣の神保長誠(じんぼうながのぶ)の保護を受けた後、越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉貞景(あさくら さだかげ)のもとで、政元との和睦を模索していましたが、その和睦交渉が思うように進まない中で尚順からの誘いを受け、ともに政元を倒して京都を奪回しようと決意したのでした。
9月5日、先陣として大和の国人衆を加えた義稙&尚順連合軍は、山城の飯岡(いのおか=京都府京田辺市)に着陣・・・これを受けた政元は、まずは幕府御所の警護を強化し、その一方で、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=宗益)らを宇治(うじ=京都府宇治市)に、薬師寺元一(やくしじもとかず)・長忠(ながただ)兄弟らを淀(よど=京都府京都市伏見区)に、香西元長(こうざいもとなが)らを摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県東南部)に向かわせて防御線を敷きます。
10日に宇治木幡(こばた=京都府宇治市)まで進出した尚順軍大和勢は、ここで細川方の赤沢勢とぶつかり交戦に突入・・・優勢な赤沢勢は、その勢いのまま前日の26日には西一口城(にしいもあらいじょう=京都府久世郡久御山町・御牧城)に火をかけ、翌・明応八年(1499年)9月27日に槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を陥落させて複数の首級を挙げたのです。
この槇島城は、鎌倉時代の承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月14日参照>>)の頃に第82代=後鳥羽天皇(ごとばてんのう=承久の乱の頃は上皇)配下の長瀬左衛門なる人物が構築したと伝えられ、後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が宇治川の護岸整備をする以前は、文字通り槇島という宇治川の中州にできた島に建っていたという事ですが、織田信長(おだのぶなが)の時代に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき)が拠った城としても有名です(7月18日参照>>)。
今回の宇治木幡の戦い当時は真木島氏(まきしまし=槇島氏)が城主を務めていましたが、応仁の乱以来、一貫して細川方に属していた真木島が、なぜ、この時には政元と敵対したのか?は不思議なところではあります。
ただ、今回、政元側によって槇島城が落とされた事、また、元来、真木島氏が将軍直属の奉公衆であった事を踏まえると、この戦いの時には、「前将軍」という事で、尚順の…というよりは義稙の味方として政元に敵対したという事かも知れません。
その後、翌・28日には、御厨子城(みずしじょう=京都府城陽市水主・水主城)をも落とし、南山城一帯は、次々と赤沢の手に落ちて行ったのです。
勢い止まらぬ赤沢勢は、この後、尚順に同調した大和へ侵攻します(12月18日参照>>)。
一方、一連の戦いに敗れて勢いを失った義稙は、周防(すおう=山口県)の大内義興(おおうちよしおき)のもとに身を寄せ、尚順も紀州(きしゅう=和歌山県)へと逃れますが、8年後の永正四年(1507年)に、政元が、自身の3人の養子による後継者争い関連で暗殺されると(8月1日参照>>)、激化する、その後継者争いの旗印として「前将軍」の肩書とともに、再び義稙は表舞台に登場し、次の世代へと続く京都争奪戦を繰り広げていく事になるですが、それらのお話は、それぞれのページでご覧あれm(_ _)m
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
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コメント
茶々さん、お久しぶりです。
しばらくぶりにこちらのブログを拝見しましたら、宇治・槇島の記事が見られたので、チョット蛇足がてら・・・
>一色氏(いっしきし=清和源氏義国流で足利氏の一門)の流れを汲む真木島氏(まきしまし=槇島氏)
→この頃(=明応年間)はまだ、一色氏の流れではなく、従来から宇治に勢力を張っていた真木島惣官家の流れだと思われます。
この真木島惣官家は一貫して畠山氏(山城守護)の家臣でした。
ただ、一時期に細川氏綱が宇治を支配下におさめていた折りははその配下になっていた節があります。
天文18年(1549)に行なわれたであろう合戦で真木島惣官家の当主が戦死しており、この時期を境に後の玄蕃頭昭光につながっていく一色氏の流れにかわったと思われますよ。
投稿: 御堂 | 2018年10月19日 (金) 03時25分
御堂さん、こんばんは~
そうなんですか?
もう一度調べてみますが、とりあえずは、ご指摘の部分は排除しておきます。
ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2018年10月20日 (土) 00時23分