佐々成政の越中一向一揆攻め~瑞泉寺・井波の合戦
天正九年(1581年)9月8日、佐々成政・神保長住らが一向一揆の瑞泉寺を攻めた井波の合戦がありました。
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織田信長(おだのぶなが)の上洛によって畿内を追われた三好(みよし)の残党の反激戦であった元亀元年(1570年)8月の野田・福島(大阪市福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が参戦する(9月12日参照>>)事によって始まった織田VS本願寺の石山合戦・・・
それは、全国の本願寺門徒を一向一揆という形で巻き込みながら約10年に渡って繰り広げられたわけですが、やがて天正八年(1580年)3月、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって和睦を決意した顕如が、本拠である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市中央区)を退去・・・その和睦に反対して、更なる籠城を続けていた長男の教如(きょうにょ)も8月2日には退去し、ここに石山合戦は終結しました(8月2日参照>>)。
しかし、この、素直に和睦に応じた父と和睦に反対して抵抗した息子に表される通り、本願寺門徒の中にも、この停戦に賛成する顕如派と反対する教如派がいたわけで・・・(ちにみに、これが本願寺が東西に分かれる原因の一つ…1月19日参照>>)
まして、これだけ全国的に展開された一向一揆ですから、おおもとが終結したとて、まだまだイケイケムードの者たちはたくさんいたわけで・・・そんな、まだまだ屈しない気満々の本願寺門徒たちがいたのが北陸だったのです。
信長はすでに天正三年(1575年)に越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を鎮圧しており(8月12日参照>>)、この天正八年(1580年)には、信長配下の北陸担当=柴田勝家(しばたかついえ)らが3月に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市)を(3月9日参照>>)、11月に鳥越城(とりごえじょう=石川県白山市を)陥落させて(11月17日参照>>)、約100年に渡った「百姓の持ちたる国」=加賀一向一揆を鎮圧させていましたが、もちろん、まだまだ警戒は必要・・・
そこで信長は、かの勝家を総大将として北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)に置き、府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)の前田利家(まえだとしいえ)、大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)に拝郷家嘉(はいごういえよし)、小松城(こまつじょう=石川県小松市)に村上頼勝(むらかみよりかつ)、金沢御坊改め金沢城(尾山城)に佐久間盛政(さくまもりまさ)、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)に菅屋長頼(すがやながより)、富山城(とやまじょう=富山県富山市)に佐々成政(さっさなりまさ)…等々配置して、万全の態勢を整えます。
なんせ、越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)が、これまでも度々南下して来ている(3月17日参照>>)うえに、天正四年(1576年)5月には長年反目していた本願寺と和睦して(5月18日参照>>)一向一揆の味方となり、天正五年(1577年)9月の手取川(てどりがわ=石川県白山市付近)では織田勢と一戦交えていましたから(9月13日参照>>)・・・
ただし、当の謙信が天正六年(1578年)3月に病死し(3月13日参照>>)、その後継者争いの内乱=御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)が約1年間続いた事で、その間に織田方はほとんど上杉勢と戦う事無く、越中の奥深くまで入る事に成功していた(9月24日参照>>)わけですが、ここに来て、その内乱も終結し、上杉の後継者も養子の上杉景勝(かげかつ)に落ち着き、景勝がその目を越中(えっちゅう=富山県)に向けた事により、本願寺門徒がこれに同調し、両者のぶつかり合いは、もはや時間の問題となっていたのです。
かくして天正九年(1581年)9月8日、佐々成政は、謙信の侵攻によってその地位を奪われたために現在は信長の配下となっているかつての越中守護=神保長住(じんぼうながずみ)と連合軍を組み、越中一向一揆の最大の拠点である瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)に進軍を開始したのです。
史料(歴代古案)に残る黒金景信(くろがねかげのぶ=上杉の家臣)宛て9月8日付けの手紙で瑞泉寺顕秀(ずいせんじけんしゅう・佐運)は、
「佐々成政と神保長住が瑞泉寺に攻めて来て、3日から今日にかけて堀際まで来てますが、コチラは武器も弾薬も充分に準備してましたので、なんなら、このチャンスに佐々方を粉砕したいと思い、皆で山中を固めています。
なのに、上杉景勝様の出馬が無いのはなぜなんですか?
瑞泉寺のためにも、是非支援お願いします。
引き延ばしはコチラの士気にも関わりますので早急に軍を整えて、越後の誠意を見せてください」
的な内容の援助要請を行っています。
この瑞泉寺の寺地内には、本願寺中興の祖と称される、かの蓮如(れんにょ)が吉崎(よしざき=福井県あわら市)に滞在(8月21日参照>>)していた文明(1469年~1486年)の頃に、その蓮如の呼びかけに応じて、イザという時に武装して戦うための堀を備えた城郭のような物が構築され、文明十二年(1480年)には福光城(ふくみつじょう=富山県南砺市旧福光町)主の石黒光義(いしぐろみつよし)を破って(2月18日参照>>)砺波(となみ)一帯を領地とし、瑞泉寺の勢力は「坊主大名」と呼ばれるまでに・・・
そんな越中の一向一揆勢は、永禄(1558年~1570年)から元亀(1570年~1573年)・天正(1573年~)にかけては、かの上杉謙信とも戦い(6月15日参照>>)、瑞泉寺内の城郭も、今や井波城(いなみじょう)と呼ばれて、背後に迫る八乙女山(やおとめやま)が自然の盾となった難攻不落の堅城として、その名を知られていたのです。
井波合戦・位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
こうして、数に物を言わせて攻めかかる佐々&神保連合軍に対し、数こそ劣るものの「仏法のためならば命惜しまず」の井波側は、蓄えていた弾薬を惜しみなく使い必死の抵抗・・・両軍一進一退の攻防が続きます。
しかし、やがて金に目のくらんだ城下の焼き餅売りの老婆が、勝手知ったる井波の城内に通じる秘密の抜け道を教えた事から形成は一気に連合軍側に・・・天正九年(1581年)9月9日、井波城は援軍を待ち切れずに陥落してしまいました。
この戦いによって町はほとんど破壊&焼失し、瑞泉寺も焼かれてしまったため、瑞泉寺顕秀は一旦、五箇山(ごかやま=富山県南砺市の旧平村ほか)に身を隠したのだとか・・・
瑞泉寺を裏切った老婆の話が、どこまで信憑性のある物か?は微妙なところではありますが、その老婆の墓とされる墓石が残っていたり、井波城本丸跡に現在建つ井波八幡宮(いなみはちまんぐう)には、そこから城外へと抜け出る事のできる間道のような痕跡も発見されている事から、その時の佐々&神保軍が、何らかの方法でこの抜け道の事を知り、一進一退の攻防戦から一気に逆転に持って行ったという流れは、本当の話なのかも知れませんね。
以後の佐々成政は、一向一揆を懐柔する事で、その力を削ぎつつ越中の統治を進めていくわけですが、やがて、信長亡き後の小牧長久手(こまきながくて)の戦いで敵対(末森城攻防戦>>・鳥越城攻防戦>>)した豊臣秀吉(とよとみひでよし)の前に屈する事になりますが、そのお話は、【武勇の佐々成政が秀吉に降降伏】でどうぞ>>
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