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2018年9月27日 (木)

前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡の戦い

 

明応八年(1499年)9月27日、前将軍=足利義稙と同調する畠山尚順を攻める細川政元が、宇治木幡の戦いにて槇島城を落としました。

・・・・・・・・・・

第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争い=義尚(よしひさ=義政の息子)×義視(よしみ=義政の弟)に、
Ouninnoransoukanzu2 畠山&斯波・両管領家の後継者争い=
畠山義就(よしひろ)×政長(まさなが)
斯波義廉(しばよしかど)×義敏(よしとし)
がひっついて、それぞれに味方する武将が
山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(西軍)
細川勝元(ほそかわかつもと)(東軍)
に分かれ、地方の武将を巻き込んで約10年に渡って繰り広げられた応仁の乱(5月20日参照>>)も、宗全&勝元=両巨頭の死を以って勢いを失くし(3月18日参照>>)、両者の後継同士=山名政豊(まさとよ=宗全の孫)細川政元(まさもと=勝元の嫡男)が和睦を結ぶ事によって終結の兆しをみせ、このために京都に集結していた武将たちも、徐々に地元へと帰って行くのですが(11月11日参照>>)

両総大将が手打ちしたからと言って、その発端となった後継者争いに決着がついたわけではなく、結局、それらの争いはそれぞれ個別の争いとなってくすぶり続けるわけです(12月12日参照>>)

そんな中、スッタモンダで義政の後を継いで第9代将軍になっていた義尚が、未だ男子をもうけないまま、近江(滋賀県)南部の戦国大名=六角高頼(ろっかくたかより)を征伐中の近江(まがり・滋賀県栗東)の陣中で病死(3月27日参照>>)・・・そのため、結局は、亡き義尚と将軍の座を争った義視の息子=足利義稙(よしたね=当時は義材・後に義尹)が、その後を継いで第10代将軍となります。

義稙は、義尚を遺志を継いで明応元年(1492年)には、とりあえず、六角氏を近江より追い出す事に成功します(12月13日参照>>)管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元にとっては、どうしても、この義稙が気に入らない・・・

最初は
「僕、何もわかりませんので、大人しくして全部政元さんに任しますわ」
としおらしくしてたのに、なんだかんだで、いつの間にか
「俺が将軍や!」
とばかりに、政元の反対をよそに、イロイロ動き始める・・・

そんなこんなの明応二年(1493年)、やはり、政元の反対を押し切った義稙は、未だくすぶり続ける畠山の後継者争いに関与して、畠山義豊(よしとよ=基家・義就の息子)討伐のため、畠山政長とともに河内(かわち=大阪府東部)へと出兵します。

その留守を狙って、政元は、日野富子(ひのとみこ=足利義政の奥さんで義尚の母)らと組んでクーデターを決行・・・義稙を廃して、第11代新将軍に足利義澄(よしずみ=当時は義高・義尚&義材の従兄弟)を擁立したのです(明応の政変>>)

京都にいない間に一夜にして賊軍の大将となった義稙は、やむなく投降・・・これキッカケで政元派に寝返る武将も出て孤立無援となった政長は自刃して果てました(討死にとも)

それでも終わらない畠山の争い・・・(7月12日参照>>)

Asikagakanreikeizu
足利将軍家と管領家の略系図

政長が敗死してくれたおかげで、奪われていた守護の座を確保した義豊は、亡き政長の後を継いだ息子の畠山尚順(ひさのぶ)と、度々の衝突を繰り返しますが、徐々に劣勢となっていき、やがて明応六年(1497年)10月に高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を落とされた事で河内を捨てて山城(やましろ=京都府南部)へ逃亡・・・さらに翌・11月には大和(やまと=奈良県)地方での義豊派の国人であった越智家栄(おちいえひで)古市澄胤(ふるいちちょういん)が尚順を支持する筒井順賢(つついじゅんけん)十市遠治(とおちとおはる)に敗れた事で窮地に追い込まれます。

追い込まれた義豊は明応八年(1499年)正月、起死回生の一手とばかりに尚順を野崎城(のざきじょう=大阪府大東市)に攻めますが、カウンターパンチを喰らって攻め込まれ、河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ=現在の寝屋川市西部と門真市・守口市一帯)で討死してしまいました。

義豊とともに戦っていた息子の畠山義英(よしひで)は何とか戦場を離脱し、しばらく、その身を隠します。

勢いに乗った尚順勢は、次々と河内を平定していきますが、当然、その先には、以前より義豊を支持する細川政元が・・・そんなこんなの7月頃、尚順は元将軍の義稙に接触します。

義稙は政変後の戦いで降伏した時、流罪となって幽閉されそうになった所を支援者の手助けで脱出して政長の領国であった越中(えっちゅう=富山県)に逃れて、政長家臣の神保長誠(じんぼうながのぶ)の保護を受けた後、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉貞景(あさくら さだかげ)のもとで、政元との和睦を模索していましたが、その和睦交渉が思うように進まない中で尚順からの誘いを受け、ともに政元を倒して京都を奪回しようと決意したのでした。

9月5日、先陣として大和の国人衆を加えた義稙&尚順連合軍は、山城の飯岡(いのおか=京都府京田辺市)に着陣・・・これを受けた政元は、まずは幕府御所の警護を強化し、その一方で、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=宗益)らを宇治(うじ=京都府宇治市)に、薬師寺元一(やくしじもとかず)長忠(ながただ)兄弟らを(よど=京都府京都市伏見区)に、香西元長(こうざいもとなが)らを摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県東南部)に向かわせて防御線を敷きます。

10日に宇治木幡(こばた=京都府宇治市)まで進出した尚順軍大和勢は、ここで細川方の赤沢勢とぶつかり交戦に突入・・・優勢な赤沢勢は、その勢いのまま前日の26日には西一口城(にしいもあらいじょう=京都府久世郡久御山町・御牧城)に火をかけ、翌・明応八年(1499年)9月27日槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)陥落させて複数の首級を挙げたのです。

この槇島城は、鎌倉時代の承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月14日参照>>)の頃に第82代=後鳥羽天皇(ごとばてんのう=承久の乱の頃は上皇)配下の長瀬左衛門なる人物が構築したと伝えられ、後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が宇治川の護岸整備をする以前は、文字通り槇島という宇治川の中州にできた島に建っていたという事ですが、織田信長(おだのぶなが)の時代に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき)が拠った城としても有名です(7月18日参照>>)

今回の宇治木幡の戦い当時は真木島氏(まきしまし=槇島氏)が城主を務めていましたが、応仁の乱以来、一貫して細川方に属していた真木島が、なぜ、この時には政元と敵対したのか?は不思議なところではあります。

ただ、今回、政元側によって槇島城が落とされた事、また、元来、真木島氏が将軍直属の奉公衆であった事を踏まえると、この戦いの時には、「前将軍」という事で、尚順の…というよりは義稙の味方として政元に敵対したという事かも知れません。

その後、翌・28日には、御厨子城(みずしじょう=京都府城陽市水主・水主城)をも落とし、南山城一帯は、次々と赤沢の手に落ちて行ったのです。

勢い止まらぬ赤沢勢は、この後、尚順に同調した大和へ侵攻します(12月18日参照>>)

一方、一連の戦いに敗れて勢いを失った義稙は、周防(すおう=山口県)大内義興(おおうちよしおき)のもとに身を寄せ、尚順も紀州(きしゅう=和歌山県)へと逃れますが、8年後の永正四年(1507年)に、政元が、自身の3人の養子による後継者争い関連で暗殺される(8月1日参照>>)、激化する、その後継者争いの旗印として「前将軍」の肩書とともに、再び義稙は表舞台に登場し、次の世代へと続く京都争奪戦を繰り広げていく事になるですが、それらのお話は、それぞれのページでご覧あれm(_ _)m
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>

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2018年9月20日 (木)

光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?

 

弘治二年(1556年)9月20日、斎藤義龍に攻められた明智城が落城し、明智光安が自刃しました。

・・・・・・・・・・・

清和源氏の流れを汲む美濃(みの=岐阜県)守護(しゅご=現代の県知事みたいな)であった土岐(とき)から枝分かれした明智(あけち)は、明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を拠点として室町幕府に直接仕える奉公衆を務めていましたが、戦国時代に入って、あの美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん=利政)が、守護の土岐頼芸(よりなり)に取って代わって美濃一国を掌握するようになります(12月4日参照>>)

当時の明智氏は、先代の明智光綱(あけちみつつな)が若くして亡くなったため、その嫡子の明智光秀(みつひで)が家督を継いでいたものの、未だ幼かったため、叔父(光綱の弟)明智光安(みつやす)光秀の後見人となって明智家の政務をこなしていた状態でしたが、この道三の台頭に対しては、ちゃっかりと自らの妹=小見の方(おみのかた)を道三の継室(けいしつ=正室が亡くなったあとの次の正室・後妻)に送りこんで、生き残りを図っていたのです。

ちなみに、この小見の方と道三の間に生まれたのが、織田信長(おだのぶなが)に嫁いだ濃姫(のうひめ=帰蝶)です(2月24日参照>>)

しかし、その濃姫の結婚からわずか6年後の弘治元年(1555年)・・・道三の長男(濃姫の異母兄)である斎藤義龍(よしたつ)が、二人の弟を殺害し(10月22日参照>>)、父=道三に反旗を翻すのです。

光安は迷います。
なんだかんだで親子ゲンカ・・・どっちにも義理がある。
しかし、合戦となった以上、どちらかが勝ってどちらかが負ける中で、明智はどちらにつくべきか・・・

結果、光安は、若き光秀にわずかの兵をつけて義龍のもとに参陣させて土岐氏への義理を果たし、自らは中立の立場を守り、事を静観するという選択をしたのです。

かくして弘治二年(1556年)4月20日、道三×義龍による父子対決=長良川の戦いが決行され、ご存じのように、義龍の大勝となって道三は命を落とします(4月20日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、この合戦の時点で義龍は道三の6倍ほどの兵を維持=つまり、臣下の者の多くが義龍に味方していた状況でしたから、光安としても、「例え妹婿であっても道三側につくのは分が悪い」と感じていたのかも知れません。

とは言え、事が落ち着いた後も、光安は義龍の居る稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)へも出仕する事無く、心の中では悶々とする日々を過ごしていたのです。

自身のとった行動が果たして本当に良かったのか?
道三に対し、また土岐家に対して申し訳が立つのか?
誇りある家名を汚す事になりはしないか?

また、
軍治のおりには何もせず静観しておいて、義龍の世になったからと、ホイホイと出仕して臣下の列に座する事を、他人はどう思うだろう?

様々な思いが胸を過る・・・
♪人間~五十年~♪と言われたこの時代に、すでに50代半ばを過ぎていた光安は、ここで決断するのです。
「もはや命は惜しくない」
と・・・

ここに、「死を以って義理を果たし、武名を残す事こそ本意」と決めた光安は、弘治二年(1556年)9月、義龍に手切れの使者を送り、一族870人を集めて明智城に籠城したのです。

これを受けた義龍は、叔父(もしくは弟)長井道利(ながいみちとし)(8月28日参照>>)に3700余騎の兵をつけ明智討伐軍として出陣させました。

Aketizyounotatakai
●明智城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

9月19日に稲葉山城を出発した軍勢は、土田(どた)の渡しより木曽川(きそがわ)を渡り、さらに可児川(かにがわ)左岸に布陣した後、明智城へと迫りますが、城は天然の要害であるうえに明智勢の反撃も鋭く稲葉山勢が城を抜く事はできず・・・この日は双方に死傷者を出しながらも、決着つかぬまま日が暮れました。

その夜・・・「明日は決戦になる事必至」と悟った光安は、皆を集めて酒宴を催し、
「明日は城外へ撃って出て、思う存分に戦った後、本丸に火を放ち、潔く果てようぞ!」
と全将士と別れの盃を交わしました。

かくして弘治二年(1556年)9月20日、数倍の兵に囲まれた明智城・・・予想通り、早朝から稲葉山勢による総攻撃が開始されました。

敵に埋め尽くされた城下にて奮戦する明智勢ではありましたが、所詮は多勢に無勢・・・やがて押され始めた明智勢が城内へと退き始めると、光安も覚悟を決め「もはや、これまで」と、そばに光秀を呼び寄せて、
「本来なら、(光秀の死を)見定めた後、我ら殉死すべきところですが、それをしてしまうと明智家は断絶してしまいます。
祖父
(光秀の祖父=明智光継の遺言でもありますし、志も大きいですので、どうかその身を守り落ちのびて、後々、家名を再興してください。
その時は、どうか、我が長男の秀満
(ひでみつ)と次男の光忠(みつただ)を盛りたててやってください」
と頼み、切腹したのです。

光安の死を見届けた光秀は、妻子と従者10人余りとともに城を脱出・・・叔父(光綱の弟で光安の兄)山岸光信(やまぎしみつのぶ)を頼って西美濃(現在の岐阜県揖斐郡大野町付近)へと落ちていったのです。

ここに明智城は落城し、明智家も没落したのですが・・・

その数年後、西美濃に妻子と従者を預けた光秀は、諸国を転々と武者修行したり、京都の嵯峨(さが)嵐山付近に潜伏して学問をしたりの全国遍歴の旅に・・・

やがて永禄十一年(1568年)、自らを将軍として担いでくれる武将を探していた足利義昭(あしかがよしあき=義秋)と、上洛する大義名分を求めていた織田信長を結びつける仲介役として、光秀は華々しく歴史の表舞台に登場する事となります。
【義昭の上洛希望】参照>>
【信長の上洛】参照>>

・‥…━━━☆

とは言え、ご存じのように、実際の明智光秀の前半生はまったくの謎・・・

今回お話は『美濃國諸奮記』という江戸時代に書かれた軍記物に記された内容ですが、軍記物とは、今で言うところの歴史小説のような物で、すべてが創作では無いでしょうが、かと言って一級史料とは言い難い=「史実をもとにしたフィクションです」みたいなシロモノです。

ここに、光安の息子として登場する秀満や光忠も、実際には光秀が信長の配下となって活躍する時に、その家臣として登場して来ますが、それ以前の事はよくわからず、当然、光安の息子かどうかもわかりませんし、なんなら光安自身が、別人(遠山景行)だった話まであります。

もちろん、光秀が明智家の嫡流だったかどうかも、この時に落城した明智城にいたのかどうかも不明・・・信長らと接触する以前の光秀の事は、ほぼほぼ、上記のような軍記物にしか登場しないのが現状なんです。

ただ、光秀は、無名の状態から、いきなり登場したワリには、すでに一流の兵法を見につけていて、鉄砲を自在に操り、オシャレな京言葉を話し、都会的で世間の状勢にもくわしく、頭も良い(10月18日参照>>)・・・いわゆる即戦力で、
「おい君、彼はいったいどこで?」からの
「ビズリ~チ」d(゜ー゜)状態の登場だったわけで・・・

しかも、その後、中途採用なのにも関わらず、社内で1番最初に独立を勝ち取る(城主になる)スピード出世を果たしておきながらの、いきなりの謀反(本能寺の変)・・・には、誰しもが首をかしげるワケで・・・

てな事で、
彼が最初っからデキる男だったのにはワケがあるんだろう?
いきなりの謀反には、それ相当の理由があるんだろう?

てな疑問が湧くのは当然・・・

で、この二つの謎を解くためには、その明智という苗字から推測して、
はなから文武両道で都会的だったのは明智家の嫡流だから・・・
謀反を起こすのは、明智&土岐氏の再興を夢見ていたから・・・

てな、憶測が生まれ、このような軍記物が登場する事になるのでしょうね。
(*ちなみに土岐惣領家を継いでいた土岐頼芸は道三に追放された後も各地を転々した後、武田の庇護受けていたところに信長の甲州征伐で元家臣の稲葉一鉄に保護され、本能寺の変の時も失明&病気がちではあるもののギリ存命でした)

おそらくは、実際に明智城落城の一件があり、そこに後に登場する光秀の謎の部分を絡ませた感じでしょうか?

もちろん、今回の話が、すべて事実の可能性もありますが・・・そこに明確な答えが出ないのが、歴史のオモシロイところでもあります。
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2018年9月14日 (金)

最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転

 

天文十五年(1546年)9月14日、細川氏綱が亡き養父の仇を撃つべく細川晴元を攻めた嵯峨の戦いがありました。(細川家内訌)

・・・・・・・・・・

父=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いで応仁の乱を収め、自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変(4月22日参照>>)をやってのけた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(まさもと)・・・

その後継者を争った3人の養子の中で、一歩抜け出て、第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して我が世の春を迎えた細川高国(たかくに)でしたが(5月5日参照>>)、大永六年(1526年)、自らの重臣に謀反の疑いをかけて殺害してしまった事から、その遺族の恨みをかい、土台が揺らぎ始めると(10月23日参照>>)、以前の養子同士の後継者争いで負けた細川澄元(すみもと)の遺児=細川晴元(はるもと)が、このタイミングで畿内へと攻め登り(2月13日参照>>)、大敗した高国は近江(おうみ=滋賀県)へと逃走・・・その後も、何度か刃を交える高国VS晴元でしたが、享禄四年(1531年)6月、高国は京都を奪回する事無く戦いに敗れて自害します。(6月8日参照>>)

その遺志を継いで政権奪回を計り、細川晴元と戦ったのは、高国の弟の細川晴国(はるくに)(6月18日参照>>)でしたが、彼もまた、晴元に通じた三宅国村(みやけくにむら)の反乱によって天文五年(1536年)8月に命を落とします。

そして、その後を継いだのが高国の養子であった細川氏綱(うじつな)でした。

氏綱は、高国の従兄弟(父の弟の子)に当たる細川尹賢(ただかた)の実子でしたが、高国の嫡男である細川稙国(たねくに)が18歳の若さで病死してしまったため、そのタイミングで、後継者候補として養子に迎え入れられていたのでした。

また、氏綱の実父=尹賢は、高国没落のおりには晴元に同調していたものの、結局、その後に晴元の命によって殺害されてしまうという・・・つまり、氏綱にとっては養父と実父の両方が(もちろん叔父も…)晴元によって死に追いやられた事になるわけで・・・

当然、跡目を継いだ氏綱は、晴元に抵抗すべく、天文十二年(1543年)7月、槇尾山城(まきおやまじょう=大阪府和泉市)に拠って旧臣たちをかき集め、反晴元の狼煙を挙げたのです。

氏綱出兵の報を受けて摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)に出陣した晴元に対し、氏綱勢は(さかい=大阪府堺市)を攻撃しますが、この時には、晴元の重臣=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)らに敗れて兵を退きました。

しかし、その後、本願寺証如(しょうにょ=證如・第10世)から兵糧や金子の援助を受け、畠山稙長(はたけやまたねなが=河内・紀伊・越中守護)遊佐長教(ゆさながのり=河内国守護代)らと連絡を取り合って態勢を立て直してた氏綱は、河内(かわち=大阪府東部)から大和(やまと=奈良県)へと入り、天文十四年(1545年)5月には、晴元傘下の上野元全(うえのもとたけ)井手城(いでじょう=京都府綴喜郡井手町)に攻撃を仕掛けますが、またもや三好長慶らに阻まれて敗走・・・しかも、この同時期には蔭ながら氏綱を支援してくれていた畠山稙長も病死。

翌々月後の7月には氏綱方の内藤顕勝(ないとうあきかつ)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)関城(せきじょう=京都府京丹後市久美浜町)にて反晴元の兵を挙げますが、これまた長慶らに攻められて開城を余儀なくされます。

なんせ世は、高国政権に代わって、堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)を看板に据えた晴元政権の時代ですから戦う相手は現時点で最強の敵・・・そう簡単には行きません。

しかし、氏綱のヤル気はまだまだ衰えず・・・ようやく、翌・天文十五年(1546年)夏、一矢報いる時が来ます。

三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)の三宅国村を寝返らせ、池田城(いけだじょう=大阪府池田市)池田信正(いけだのぶまさ=久宗)など摂津の有力国衆を味方につけた氏綱勢は、長慶が戦闘準備のために堺に入ったのをキッカケに、摂津や山城(やましろ=京都府南部)方面の各地で一気に兵を挙げ、晴元方の大塚城(おおつかじょう=大阪市天王寺区茶臼山町)を占拠した後、天文十五年(1546年)9月14日には京都嵯峨に展開する晴元勢を攻め立て、晴元本人を丹波神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)にまで退け、芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)も開城させたのです。

Tyausuyama900 大塚城址=茶臼山:池中のこんもりした森が茶臼山…戦国最後の大坂の陣の陣跡として知られる茶臼山ですが、それ以前には大塚城がありました。

これを受けて長慶は、15日に高雄(たかお=京都市右京区)まで出陣して戦いますが、氏綱方の上野元治(うえのもとはる)に敗れ、丹波へと敗走する事に・・・さらに9月19日には、この丹波にも追撃をかけられ、ほうほうのていで何とか越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)まで移動し、
ここで態勢を整えます。

こうして一時的に京都を追われた晴元勢でしたが、11月に入って長慶の弟たち=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った=5月1日参照>>)らが合流するに至って、形勢は一気に逆転します。

翌・天文十六年(1547年)の2月~6月にかけて、総勢2万もの大軍となった晴元方は、三宅城&池田城を落とし、芥川山城を奪回し・・・さらに、晴元を支援する近江の六角定頼(ろっかくさだより)の援軍が加わると、氏綱のために勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう=京都市左京区北白川)まで出張っていた足利義晴も撤退を開始・・・大勝利の晴元は約1年ぶりに京を奪回しました。

・・・て、氏綱さん、結局、負けたんか~い゚゚(´O`)°゚
どうしても勝てない!!もはや万策尽きたか???

と、思いきや、思わぬ所から思わぬ助っ人が登場します。

そう・・・これまで晴元政権の片翼を担っていたはずの三好長慶が、舅の遊佐長教に接触・・・晴元に反旗を翻したのです。

もともと、故郷の阿波(あわ=徳島県)時代から晴元の重臣であった三好家ではありますが、長慶の父=三好元長(みよしもとなが)は、主君=晴元との亀裂の中で無念の死を遂げた(7月17日参照>>)という過去があります。

それでも長慶は、恨む気持ちを抑えて仕えていたにも関わらず、血筋から見れば三好の総帥である長慶よりも、三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟や政長の息子=三好政康(まさやす=宗渭・政勝、三好三人衆の一人)らを、相も変わらず晴元が重用する事に、とうとう堪忍袋の緒が切れちゃった・・・てな感じ??(ま、他にもイロイロあるでしょうが…)

こうして、氏綱側についた長慶が晴元勢とぶつかったのが天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)・・・この戦いで政長を討ち取り大勝利を収めた長慶に対し、一方の晴元は京都を追われ近江へと敗走。

ここに細川氏綱を冠にした三好政権が誕生します。

さらに永禄元年(1558年)6月には、復権をもくろむ若き新将軍(第13代)足利義輝(よしてる=義晴の嫡男)と京都・白川口(北白川付近)にて交戦しますが(6月9日参照>>)、その戦いをキッカケに将軍家と三好家の和睦が成立した事で、義輝は5年ぶりに京都に戻り(11月27日参照>>)、氏綱は晴れて幕府管領の座に就いて細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=細川家の嫡流家)の家督を継ぐ事になるという万々歳な結果に・・・

とは言え、上記の通り、氏綱の勝利&管領就任&家督継承は、どう見ても長慶が味方についてくれたおかげ・・・

なので、この後の実権は完全に長慶が握っており、氏綱は長慶の傀儡(かいらい=あやつり人形)、あるいはお飾りの管領とも言われますが、一方では、この時点での長慶は、未だ細川家に仕える一武将・・・氏綱という看板無くして晴元に抵抗すれば、それは幕府への謀反になるわけで、自らの戦いを正当化&すんなりと晴元を排除するためにも、氏綱の存在は重要だった事でしょう。

ただし、やはり世は戦国・・・ご存じのように、これで事実上の天下人となった三好長慶によって三好政権が畿内を牛耳る事となり、この後の氏綱には政治的出番がないまま、永禄六年(1564年)12月に静かにこの世を去った事で、管領という役職もウヤムヤに・・・なので、氏綱は最後の管領とも言われます。

思えば、建武三年(1336年)に室町幕府初代将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)の補佐として高師直(こうのもろなお)(2月26日参照>>)が就任した執事(しつじ)に始まる管領という役職は、約230年に渡って引き継がれ、この細川氏綱を最後に姿を消す事になったのです。
(上記の通り、最後の方はウヤムヤなので…細川高国の自害を以って管領は消滅したという見方もあります)
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2018年9月 8日 (土)

佐々成政の越中一向一揆攻め~瑞泉寺・井波の合戦

 

天正九年(1581年)9月8日、佐々成政神保長住らが一向一揆の瑞泉寺を攻めた井波の合戦がありました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)の上洛によって畿内を追われた三好(みよし)の残党の反激戦であった元亀元年(1570年)8月の野田・福島(大阪市福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が参戦する(9月12日参照>>)事によって始まった織田VS本願寺の石山合戦・・・

それは、全国の本願寺門徒を一向一揆という形で巻き込みながら約10年に渡って繰り広げられたわけですが、やがて天正八年(1580年)3月、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって和睦を決意した顕如が、本拠である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市中央区)を退去・・・その和睦に反対して、更なる籠城を続けていた長男の教如(きょうにょ)も8月2日には退去し、ここに石山合戦は終結しました(8月2日参照>>)

しかし、この、素直に和睦に応じた父と和睦に反対して抵抗した息子に表される通り、本願寺門徒の中にも、この停戦に賛成する顕如派と反対する教如派がいたわけで・・・(ちにみに、これが本願寺が東西に分かれる原因の一つ…1月19日参照>>

まして、これだけ全国的に展開された一向一揆ですから、おおもとが終結したとて、まだまだイケイケムードの者たちはたくさんいたわけで・・・そんな、まだまだ屈しない気満々の本願寺門徒たちがいたのが北陸だったのです。

信長はすでに天正三年(1575年)に越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を鎮圧しており(8月12日参照>>)、この天正八年(1580年)には、信長配下の北陸担当=柴田勝家(しばたかついえ)らが3月に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市)(3月9日参照>>)、11月に鳥越城(とりごえじょう=石川県白山市を)陥落させて(11月17日参照>>)、約100年に渡った「百姓の持ちたる国」=加賀一向一揆を鎮圧させていましたが、もちろん、まだまだ警戒は必要・・・

Sassanarimasa300 そこで信長は、かの勝家を総大将として北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)に置き、府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)拝郷家嘉(はいごういえよし)小松城(こまつじょう=石川県小松市)村上頼勝(むらかみよりかつ)、金沢御坊改め金沢城(尾山城)佐久間盛政(さくまもりまさ)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)菅屋長頼(すがやながより)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)…等々配置して、万全の態勢を整えます。

なんせ、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)が、これまでも度々南下して来ている(3月17日参照>>)うえに、天正四年(1576年)5月には長年反目していた本願寺と和睦して(5月18日参照>>)一向一揆の味方となり、天正五年(1577年)9月の手取川(てどりがわ=石川県白山市付近)では織田勢と一戦交えていましたから(9月13日参照>>)・・・

ただし、当の謙信が天正六年(1578年)3月に病死し(3月13日参照>>)、その後継者争いの内乱=御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)が約1年間続いた事で、その間に織田方はほとんど上杉勢と戦う事無く、越中の奥深くまで入る事に成功していた(9月24日参照>>)わけですが、ここに来て、その内乱も終結し、上杉の後継者も養子の上杉景勝(かげかつ)に落ち着き、景勝がその目を越中(えっちゅう=富山県)に向けた事により、本願寺門徒がこれに同調し、両者のぶつかり合いは、もはや時間の問題となっていたのです。

かくして天正九年(1581年)9月8日、佐々成政は、謙信の侵攻によってその地位を奪われたために現在は信長の配下となっているかつての越中守護=神保長住(じんぼうながずみ)と連合軍を組み、越中一向一揆の最大の拠点である瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)に進軍を開始したのです。

史料(歴代古案)に残る黒金景信(くろがねかげのぶ=上杉の家臣)宛て9月8日付けの手紙で瑞泉寺顕秀(ずいせんじけんしゅう・佐運)は、
「佐々成政と神保長住が瑞泉寺に攻めて来て、3日から今日にかけて堀際まで来てますが、コチラは武器も弾薬も充分に準備してましたので、なんなら、このチャンスに佐々方を粉砕したいと思い、皆で山中を固めています。
なのに、上杉景勝様の出馬が無いのはなぜなんですか?
瑞泉寺のためにも、是非支援お願いします。
引き延ばしはコチラの士気にも関わりますので早急に軍を整えて、越後の誠意を見せてください」

的な内容の援助要請を行っています。

この瑞泉寺の寺地内には、本願寺中興の祖と称される、かの蓮如(れんにょ)吉崎(よしざき=福井県あわら市)に滞在(8月21日参照>>)していた文明(1469年~1486年)の頃に、その蓮如の呼びかけに応じて、イザという時に武装して戦うための堀を備えた城郭のような物が構築され、文明十二年(1480年)には福光城(ふくみつじょう=富山県南砺市旧福光町)主の石黒光義(いしぐろみつよし)を破って(2月18日参照>>)砺波(となみ)一帯を領地とし、瑞泉寺の勢力は「坊主大名」と呼ばれるまでに・・・

そんな越中の一向一揆勢は、永禄(1558年~1570年)から元亀(1570年~1573年)・天正(1573年~)にかけては、かの上杉謙信とも戦い(6月15日参照>>)、瑞泉寺内の城郭も、今や井波城(いなみじょう)と呼ばれて、背後に迫る八乙女山(やおとめやま)が自然の盾となった難攻不落の堅城として、その名を知られていたのです。

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井波合戦・位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、数に物を言わせて攻めかかる佐々&神保連合軍に対し、数こそ劣るものの「仏法のためならば命惜しまず」の井波側は、蓄えていた弾薬を惜しみなく使い必死の抵抗・・・両軍一進一退の攻防が続きます。

しかし、やがて金に目のくらんだ城下の焼き餅売りの老婆が、勝手知ったる井波の城内に通じる秘密の抜け道を教えた事から形成は一気に連合軍側に・・・天正九年(1581年)9月9日井波城は援軍を待ち切れずに陥落してしまいました。

この戦いによって町はほとんど破壊&焼失し、瑞泉寺も焼かれてしまったため、瑞泉寺顕秀は一旦、五箇山(ごかやま=富山県南砺市の旧平村ほか)に身を隠したのだとか・・・

瑞泉寺を裏切った老婆の話が、どこまで信憑性のある物か?は微妙なところではありますが、その老婆の墓とされる墓石が残っていたり、井波城本丸跡に現在建つ井波八幡宮(いなみはちまんぐう)には、そこから城外へと抜け出る事のできる間道のような痕跡も発見されている事から、その時の佐々&神保軍が、何らかの方法でこの抜け道の事を知り、一進一退の攻防戦から一気に逆転に持って行ったという流れは、本当の話なのかも知れませんね。

以後の佐々成政は、一向一揆を懐柔する事で、その力を削ぎつつ越中の統治を進めていくわけですが、やがて、信長亡き後の小牧長久手(こまきながくて)の戦いで敵対(末森城攻防戦>>鳥越城攻防戦>>)した豊臣秀吉(とよとみひでよし)の前に屈する事になりますが、そのお話は、【武勇の佐々成政が秀吉に降降伏】でどうぞ>>
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2018年9月 1日 (土)

関ヶ原に向けて~徳川家康が江戸城を出陣

 

慶長五年(1600年)9月1日、関ヶ原の合戦に向けて、徳川家康が江戸城を出陣しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原・・・
(一つ一つの出来事や全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>で見ていただけるとありがたいです)

慶長三年(1598年)8月の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後(8月9日参照>>)、かの朝鮮出兵のなんやかんやで、豊臣政権内にて武闘派(ぶとうは=合戦で武功を挙げる派)文治派(ぶんじは=後方支援と事務的管理する派)の対立が起き始める中(3月4日参照>>)五大老(ごたいろう=豊臣政権下でのトップの5人)筆頭を良い事に、秀吉の遺言を無視しはじめた徳川家康(とくがわいえやす)「何とかせねば!」と考えた元五奉行の一人で文治派の石田三成(いしだみつなり)は、慶長五年(1600年)6月、家康が「謀反の疑いあり」として会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を征伐すべく、兵を率いて北へ向った留守を狙って行動を起こします。

7月11日には、家康とともに会津に向かっていた親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)を引き戻して北陸の諸将の勧誘に当たらせ(7月14日参照>>)、翌・7月15日には家康に対抗できる大物=毛利輝元(もうりてるもと)大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)に入ってもらい、

続く7月16日には、家康と行動を共にしている諸将の妻子を大坂城内で預かり、翌・7月17日には『内府ちがひの条々』家康がこんな違反行為してまっせの報告=弾劾状)を諸大名に発して正式に家康に宣戦布告し、続く7月18日には家康に味方するであろう本多利久(ほんだとしひさ)高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)を攻撃し(7月18日参照>>)、7月19日からは家康配下の鳥居元忠(とりいもとただ)が守る伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)への攻撃を開始しました(8月1日参照>>)

Tokugawaieyasu600 一方、この三成の動きを北に向かっている途中で知った家康は、7月25日、下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)にて評定を開き、「このまま自分について三成らに対抗するか?戻ってアチラにつくか?」を共に来ていた諸将に尋ねるのですが、すでに話を着けていた福島正則(ふくしままさのり)に真っ先に手を挙げさせる事によって、その場の雰囲気を「家康推し」にさせ、本来なら上杉を討つために出発したはずの豊臣の軍を、ほとんどそのまま自身の軍にする事に成功したのです(2012年7月25日参照>>)

この先の流れを知っている後世の者から見れば「なんで豊臣恩顧の武将が家康に…」と思ってしまいますが、この時点では家康の行動も豊臣のため=ここで三成派を一掃する事が、将来の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)のためになるという雰囲気を醸し出していたわけです。

さらに、ここで、やはり豊臣恩顧の武将である山内一豊(やまうちかずとよ)が、自身の掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を家康のために提供する事を申し出て、以下、東海道沿いに城を持つ諸将が、その意見に同調した事から、家康はここからUターンして西へ向う道すがらに兵糧や弾薬の確保も容易にできるようになったわけです。

こうして会津攻めを中止して戻る事にした家康は、次男の結城秀康(ゆうきひでやす)宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市本丸町)に留めて会津へのけん制とし、自身は江戸城(えどじょう=東京都千代田区)へと向かったのです。

8月5日に江戸城に到着した家康は、すぐには出陣せず・・・というか、そこを動く事ができず、そのまま江戸に滞在して、諸大名にせっせと手紙を書き始めます。

なんせ上記の通り、三成からの(実際の署名は豊臣の三奉行)『ちがひの条々』が諸大名に発せられてますから、それを受け取った中で誰がアチラに味方をするのかを見極めねば動けませんし、同時に、自らも書状を発して、より多くの大名を味方につけねばなりませんからね

特に東北には、今回の発端である上杉がいますし、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義宣(さたけよしのぶ)等も、かの条々を受け取って西軍(三成派)に与してますから、彼らが徒党を組んで北から侵攻してくれば江戸もヤバイです。

この間、かの小山からUターンして西へ西へと向かっていた東軍(家康派)の先鋒が、8月11日になって岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に到着します。

なんせ、かの小山評定で盛り上がったおかげで、山内一豊の掛川城や福島正則の清州城(きよすじょう=愛知県清須市)以外にも沼津城(ぬまづじょう=静岡県沼津市)浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)等々、東海道沿いの諸城が家康に提供されてましたから、彼らの移動は早い・・・

しかし、そんな中、清州城に集結しはじめた東軍諸将の中で、未だ江戸城を動こうとしない家康への不信感が生まれ始めます。

そんなこんなの8月19日、家康からの使者として村越直吉(むらこしなおよし)が清州に到着・・・早速、福島正則らは、家康がなぜ出陣しないのか?の質問を投げかけます。

すると直吉、家康からの伝言として
「御出馬あるまじきにてはなく候(そうら)へ共(ども)、各(おのおの)の手出しなく候故(そうろうゆえ)、御出馬無く候。手出しさへあらば急速御出馬にて候はん」と・・・

つまり
「いやいや、俺が出陣してないって言うより、君らの方こそ、まだ何もしてないやん。君らが本気出してくれたら、すぐにでも出陣する気満々なんやぞ」

そう、ここまでは、すでに味方である諸城を通って来ただけで、特別な軍事行動を起こしているわけではない・・・

実際の家康は、上記の通り、杉の動きを見定めるまでは江戸を離れられないし、なんたって先鋒の彼ら=福島正則ら諸将は、もともと豊臣恩顧の武将たちですから、いつ西軍に寝返るかも知れない・・・それ故に家康は出陣する事ができなかったわけですが、そこを「君らが何もせーへんから出陣できへんねん」と話をすり替えて、彼らに、先に軍事行動を起こすように促したわけですが、

これを聞いた福島正則は、「ほな、やったろやないかい!」と奮い立ったのだとか・・・

その4日後の8月23日に、彼らが西軍の拠点の一つである岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を落とす(8月22日参照>>)と、そのニュースを8月27日に聞いた家康には、もはや出陣を引き延ばす理由もなくなったわけで、

おそらくは、もうチョイ引き延ばそうと思っていたとおぼしき家康は、去る8月23日に「出陣は9月3日に…」と延期したばかりでしたが、その予定を前倒しして9月1日に出陣する事に決定・・・やっとこさ重い腰をあげるのです。

この決定をそばで聞いた家臣の石川家成(いしかわいえなり)が、
「9月1日は西ふさがりの悪日ですが…」
と、その運気の悪さを指摘すると、家康は、
「そのふさがった西を、この手で開けに行くのだ」
と言ったとか・・・

もちろん、上杉への脅威はまだ残っていますので、本丸は異父弟の松平康元(まつだいら やすもと)に、西の丸は五男の武田信吉(たけだのぶよし=松平信吉)にと、信頼のおける身内に任せて留守の間の江戸城の守りを固めました。

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関ヶ原の進路図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして慶長五年(1600年)9月1日3万2千余の軍勢を率いて江戸城を出発した家康は、その日のうちに神奈川(かながわ)に到着し、翌日には藤沢(ふじさわ)、さらに翌日には小田原(おだわら)・・・と、東海道を着々と進み、11日には清須城に到着・・・ここで、「ちょっと体調悪いねん」と2日間の休憩を取りますが、実は、中山道を通ってやって来る息子の徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)の到着を待っていたのだとか・・・

しかし、ご存じのように、真田(さなだ)父子上田城(うえだじょう=長野県上田市)攻め(2010年9月7日参照>>)に手こずっていた秀忠の軍は、いっこうに到着の気配もなく・・・

これ以上の引き延ばしは不可能と踏んだ家康は、やむなく移動して9月13日には岐阜城に着陣します。

ここ岐阜城は、すでに三成が入城している大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)とは目と鼻の先・・・翌日には前哨戦の杭瀬川(くいせがわ)(9月14日参照>>)、そしてその翌日は・・・いよいよ天下分け目の関ヶ原です。

【ともに命を賭けた戦場の約束】>>
【討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近】>>
【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】>>
【関ヶ原の合戦の年表】>>)
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