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2018年10月10日 (水)

大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井

 

永禄十年(1567年)10月10日、松永久秀対三好三人衆&筒井順慶連合軍の東大寺大仏殿・多門城の戦いで大仏殿が炎上しました。

・・・・・・・・・・

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)は、やがて寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちの中から、興福寺に属する『衆徒』の代表格である筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』の代表格=越智(おち)十市(とおち)、さらにこの3家に箸尾(はしお)を加え、『大和四家』と称される者たちが群雄割拠する室町時代を迎えていましたが、ここ奈良の守護(しゅご=室町幕府政権下でも県知事的役割)管領家(かんれいけ=将軍の補佐をする家柄)畠山(はたけやま)であった事もあって、その畠山氏や、同じく管領家の細川(ほそかわ)などの争いに巻き込まれていたわけですが・・・
【京軍の大和侵攻】参照>>
【井戸城・古市城の戦い】参照>>
【天文法華の乱~大和一向一揆】参照>>

そんな中、これまで長年抗争を繰り返していた越智氏に勝利し(9月15日参照>>)、その後、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めつつあった筒井順昭(つついじゅんしょう)が天文十九年(1550年)に病死し、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になった頃、

このタイミングで新たな支配者となるべく大和に乗り込んで来たのが、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い細川晴元(はるもと)を破って(6月24日参照>>)後、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)でした。

永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していきます(7月24日参照>>)

しかし、そんな久秀の活躍とはうらはらに、永禄四年(1561年)に3番目の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが)(5月1日参照>>)、翌・永禄五年(1562年)にすぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)(3月5日参照>>)、さらに、その翌年の永禄六年(1563年)に息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を失った三好長慶は一気に病気がちになり、しかも永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入ったを長慶自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念からか?その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は廃人のようになってこの世を去ってしまう(5月9日参照>>)のです。

やむなく、三好家では長慶の甥=三好義継(よしつぐ)を当主に迎え、補佐役として三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)の3人=三好三人衆が若き当主を支えていく体制となりますが、そんな三好三人衆は永禄八年(1565年)5月に将軍の足利義輝を暗殺して(5月19日参照>>)、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を新将軍に擁立しようと企みます。

この将軍暗殺劇には、晩年に病気がちになっていた長慶に代わって、事実上、三好政権を切り盛りしていた久秀も協力していたとも言われていますが、一方で、その暗殺劇から、わずか半年後の11月には、奈良の支配を巡って未だ久秀と絶賛敵対中だった筒井順慶と三好三人衆が同盟を結んで、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃していますので、おそらく久秀は、将軍暗殺には関わっていないかも・・・

で、これを受けた久秀は、電光石火の速さで、その2日後に順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲して奪い取りました(11月18日参照>>)

ただし翌年、紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部・南部)の守護でもあった畠山高政(はたけやまたかまさ)らに協力して、(さかい=大阪府堺市)にいた三好の当主=三好義継を攻撃すべく、久秀が本拠の多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を留守にしたスキを狙って筒井順慶は筒井城を奪回しています。

ところが、その堺での合戦の後、久秀と和睦した義継が対立気味だった三好三人衆と決裂・・・永禄十年(1567年)4月に信貴山城に戻ってきた久秀とともに、その義継も信貴山城に入ったのです。

その6日後の4月11日、久秀が多聞山城に戻った事を受けて三好三人衆と筒井勢、さらに池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣を開始・・・その数、約1万~2万

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白毫寺から奈良市街を望む

これを迎撃すべく、久秀は東大寺(とうだいじ=奈良市)戒壇院(かいだんいん)転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。

4月24日夜には、すでに南大門(なんだいもん)周辺に両軍が放つ銃声が響き渡り、両者の小競り合いも後を絶たず、僧や市民も眠れぬ夜を過ごす事になる中、三好&筒井連合軍は大乗院山(だいじょういんやま=奈良市高畑)天満山(てんまやま=同高畑)に陣を移動させますが、久秀の本拠である多聞山城は、東大寺より北にあるため距離が遠い・・・

そこで順慶は縁のある興福寺を通じて東大寺の境内に布陣させてもらえないか?打診すると、コレが即OK・・・なんせ、上記の如く、すでに松永勢はことわりもなく布陣しちゃってますから、寺側も「戦火に見舞われないか」必死なわけで、松永勢けん制のためには、彼ら連合軍に近くにいてもらった方が安心というもの・・・

そして、5月2日に連合軍のうち約1万が二月堂(にがつどう)大仏殿回廊に布陣すると、この日から、久秀自らも戒壇院に立て籠もります。

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東大寺:戒壇院           転害門

連合軍は随時、東大寺境内の陣所を変えながら、たまに一隊が多聞山城を攻めつつ、しばらくの間、一進一退のこう着状態が続きますが、この間、連合軍の陣所に利用される事を防ぐべく、松永勢はアチラコチラに火を放ち、一部の門や生垣等が、この時点ですでに焼失・・・少し離れた般若寺(はんにゃじ=奈良市般若寺町)なども、この時に焼失しています。

そんなこう着状態が破られるのは8月25日の事・・・三好三人衆の配下であった飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)の城主=松山安芸守(まつやまあきのかみ)松永方に寝返ったのです。

そのため、やむなく連合軍は、その一部を河内(かわち=大阪府東部)へと派遣せざるを得なくなりますが、もちろん、これは久秀の作戦で、数に劣る松永勢は、このおかげでちょっと楽に・・・この頃には、松永勢が寺院を焼く事も、ほぼ無くなっていたものの、両軍の小競り合いは相変わらず続き、徐々に、数に勝る連合軍が有利になっていくのです。

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東大寺大仏殿の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄十年(1567年)10月10日この状況を打開すべく、久秀が動きます。

東大寺の大仏殿付近に布陣していた三好軍に攻撃を仕掛けた松永軍・・・
『多聞院日記』では・・・「数度の合戦の後、穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それが大仏殿回廊へ延焼して深夜に大仏殿が焼失した」

『東大寺雑集録』には・・・
「大仏中門堂へ松永軍が夜討をかけて中門堂と西の回廊に火が放たれて焼失した」
とあります。

しかし、一方で宣教師=ルイス・フロイス『日本史』では、
「連合軍の中に我ら(イエスズ会)の同僚がおり、夜、密かに火を放った」
と、キリシタン兵士が大仏殿に放火した事が書かれています。

この「誰が放火したのか?」の犯人探しについては、未だ様々な説があって結論は出ていないのですが、とにもかくにも、ここで大仏殿が炎上した事で、布陣じていた連合軍は総崩れとなり、備えの兵として残した一部を除いて、ほとんどが摂津(せっつ=大阪府北中部と兵庫県の南東部)山城(やましろ=京都府南部)へと退去していったのです。

焦土と化した一帯では、寺院や宿坊を狙った強盗&略奪・・・いわゆる火事場泥棒が頻発した事により、翌11日には、三好義継と松永久秀、そして松永久通(ひさみち=久秀の息子)の連名で禁制(きんせい=犯行を禁じる)を発布しています。

この禁制発布は、イコール、この奈良の地が彼らの統治する場所になった事を意味しますので、合戦の結果としては松永方の勝利というところは間違いないでしょう。

もちろん、かと言って、三好や筒井らが、このまま引っ込んでしまうはずはなく、その後もチョコチョコ多聞山城に攻撃を仕掛けたりと、小競り合いを展開していくのですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)・・・あの大仏殿炎上から約1年後の9月、三好三人衆に暗殺された前将軍=義輝の弟である足利義昭(よしあき)(10月4日参照>>)を奉じてアノ男が上洛して来ます(9月7日参照>>)

織田信長(おだのぶなが)です。

9月29日に摂津に侵入した信長のもとに、いち早く参じてその傘下となり、領地安堵を取り付ける三好義継と松永久秀・・・一方、敵対覚悟の三好三人衆と出遅れてしまった筒井順慶。

当然ですが、もはや三好三人衆は信長相手に手いっぱいで松永と筒井の抗争に人数を割く余裕すらありません。

こうして信長という後ろ盾を得た久秀は永禄十一年(1568年)10月に筒井城を攻撃し、敗れた順慶は福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちていきました(11月18日後半部分参照>>)

とは言え、乱世の梟雄(きょうゆう)松永久秀が、このまま、親子ほどの年の差がある信長のもとで大人しくしているはずは無いわけで・・・

て事で、そのお話は
【多聞山城の戦い】>>
【信貴山城の戦い】>>
でご覧あれ(o^-^o)

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