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2018年10月23日 (火)

秀吉の但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い

 

天正五年(1577年)10月23日、織田信長の命による但馬攻略のために姫路城に入った羽柴秀吉が播磨諸将の人質を取りました。

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永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)、翌10月に、その義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)した事で、一旦、岐阜(ぎふ)へと戻りました。

その翌年の永禄十二年(1569年)、自らが滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党に協力する姿勢を見せた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と信長に依頼します。

これを受けて、信長は直ちに配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を大将にした2万の軍を派遣・・・居城の此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)を攻撃された山名祐豊は(さかい=大阪府堺市)へと亡命し、ここで一旦、山名は滅亡となりますが、その後、祐豊が信長に謁見して配下となる事を約束した事で、元亀元年(1570年)、今度は、信長の威光を背景に有子山城(ありこやまじょう=兵庫県豊岡市)主として、祐豊は再び但馬に戻っていました。

その後、信長が、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)(8月20日参照>>)北近江(きたおう=滋賀県北部)浅井(あざい)(8月28日参照>>)、さらに将軍=義昭(7月18日参照>>)とも本願寺顕如(けんにょ)(9月12日参照>>)らとも敵対した事から、信長は、彼らを支援する毛利とも敵対関係になり、逆に天正元年(1753年)に尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)が信長の傘下となった事から、その尼子の家臣である山中幸盛(やまなかゆきもり=鹿介)らと協力して山名祐豊も毛利と戦う事になるのですが、

この頃は、山名の但馬を含め、東からの新興勢力の信長と西国に君臨する毛利とのハザマで揺れる丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)因幡(いなば=鳥取県東部)美作(みまさか=岡山県東北部)備前(びぜん=岡山県東南部)等の近隣の国人領主たちは皆、どちらの強国に属するべきか?を模索していたわけで・・・

そのため、毛利方についた赤井忠家(あかいただいえ)(8月9日参照>>)武田高信(たけだ たかのぶ)らの侵攻を受けて戦う山名祐豊でしたが、いかんせん、以前に一旦滅亡している事もあってか、家臣団の統率をうまくとる事ができず、ここに来て、山名の宿老であった垣屋氏や八木氏らが毛利と通じるようになってしまうのです。

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秀吉の但馬攻略ルート

 (背景は地理院地図>>)

播磨支配を目指す秀吉としては、進行方向の側面に当たる但馬には静かにしておいてもらいたい・・・ちょうどその頃、いち早く信長の才能を見抜いて、自らの主君=小寺政職(こでらまさもと)に信長傘下になる事を進言して、すでに味方になっていた黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=後の如水・当時は小寺孝高)(11月29日参照>>)が、自らの居城であった姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)秀吉に提供する事を申し出たのです。

かくして天正五年(1577年)10月23日官兵衛の迎えで姫路城に入った秀吉は、周辺の諸将に人質を出させて服従を誓わせますが、もちろん、ここに来ても毛利側につく気満々の武将もいるわけで・・・

そんな中、10月28日には「11月の10日頃には決着つくと思います」と報告して信長を大いに喜ばせていた秀吉は、未だ従わない諸城を攻略すべく、11月初め、市川(いちかわ)に沿って北上して朝来(あさご)へと浸行していきます。

このルートは播磨からの防御とともに生野(いくの)銀山という金のなる木を入手できる絶好の要路・・・そのルートの先にあったのが岩州城(いわすじょう=兵庫県朝来市)でした。

この岩州城を守っていた武将については、物部(もものべ)山口(やまぐち)など複数の伝承があるものの、この時の秀吉が、岩州城を攻略した後、間髪入れず、その北側にある竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市)に向かう事を踏まえれば、山名宗全(やまなそうぜん=応仁の乱の西軍大将)の時代から、その竹田城の守備を任されていた太田垣氏(おおたがきし)の将が守っていたとする『武功夜話』の記述が、案外当たっているかも知れません。

ただし、『武功夜話』では、この時の但馬侵攻の総大将は羽柴秀長(ひでなが=秀吉の異父弟)で、秀吉自身は出陣していないと記していますが、11月9日の日付で発給された秀吉の禁制が現地の法宝寺(ほっぽうじ=朝来市和田山町)というお寺に残っているそうなので、やはり秀吉は総大将として現地入りしていたものと思われます。

・・・で、この通り、秀吉のいるいないが疑問になる事や、『信長公記』などの文献でも、この戦いの事がいたくアッサリとしている事から、この岩州城の戦いは、城兵の抵抗も、ほとんど無かったと考えられています。

ほどなく岩州城を攻略した秀吉は、その足で、さらに北に位置する竹田城へ・・・この竹田城を守っていたのは、山名祐豊の重臣でありながら、すでに毛利の吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)に通じていた太田垣輝延(おおたがきてるのぶ)でした。

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竹田城跡(兵庫県朝来市)

今や、天空の城または日本のマチュピチュとして全国的に有名になった竹田城(12月21日参照>>)ですが、雲海に浮かぶ華麗な石垣群が構築されたのは、この竹田城の最後の城主となった赤松広秀(あかまつひろひで)(10月28日参照>>)の頃であったとされ、おそらく、この天正五年の段階では、未だ(とりで)と呼ぶべき小規模な要塞であった事でしょうが、

そんな竹田城に秀吉の大軍が押し寄せたのですから、ひとたまりもありません・・・

なので、かの『信長公記』でも
「小田垣(太田垣)楯籠(たてこも)る竹田へ取り懸(かか)げ、是(こ)れ又、退散」
と、やはりここも、いたくアッサリと攻略した雰囲気で書かれています。

とは言え、山名四天王とまで言われた太田垣氏が、この竹田城の落城で以って滅亡するわけですし、丹波・播磨・因幡を結ぶ要所であるこの地を抑えれば実質的に但馬を制圧したも同然の場所なわけですから、それなりの戦いがあった事は確か・・・そこの詳細な部分は、今後の歴史研究や新発見に期待すべきところでしょう。

とにもかくにも、10月下旬から11月にかけての20日余りの期間に、岩州城から竹田城、そして太田垣氏と同じく山名四天王の一角であった八木氏(やぎし)八木城(やぎじょう=兵庫県養父市八鹿町)三方城(みかたじょう=兵庫県養父市大屋町)などの諸城を攻略した秀吉は、

いよいよ11月29日、赤松政範(あかまつまさのり)上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)に攻めかかるのですが、そのお話はの【信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め】のページ>>でどうぞ
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