備前&播磨を巡って赤松義村と浦上村宗の戦い~三石城攻防戦
永正十五年(1518年)11月12日、反旗を翻した浦上村宗を赤松義村が攻めた三石城攻防戦が開始されました。
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村上源氏の流れを汲み、鎌倉幕府政権下で播磨(はりま=兵庫県南西部)の地頭職を務めていたとされる赤松(あかまつ)氏は、その鎌倉討幕から室町への転換期に、赤松則村(あかまつのりむら・円心)が討幕軍の一翼を担う多大なる活躍をし(4月3日参照>>)、その後の南北朝でも足利尊氏(あしかがたかうじ)側について貢献(3月2日参照>>)した事から、室町幕府政権下では四職家(他には京極・一色・山名)の1つに数えられ、則村の息子たちに与えられた摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)・美作(みまさか=岡山県北東部)・備前(びぜん=岡山県南東部)と、もともとの播磨に加えた計4ヶ国の守護(しゅご=県知事みたいな)を務めた名門です。
ただし、嘉吉元年(1441年)に則村の玄孫に当たる赤松満祐(あかまつみつすけ)が第6代将軍=足利義教(よしのり)を暗殺した(6月24日【嘉吉の乱】参照>>)事で、その討伐軍だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)に赤松の領地のほとんどが与えられ、一時は事実上の滅亡という一幕もありましたが、満祐の弟の孫にあたる赤松政則(あかまつまさのり)が、以前に、後南朝側(後南朝については後亀山天皇のページ参照>>)に持ち去られていた三種の神器の一つを取り戻した功績により加賀(かが=石川県)半国を与えられて赤松を再興した後、応仁の乱では東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)に与して功績を挙げた事で(5月28日参照>>)播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲いたのです。
そうして置塩城(おきしおじょう=兵庫県姫路市)に居を構えた政則は、更なる領地拡大を図って山名政豊(まさとよ=宗全の息子か孫)と戦い(9月4日参照>>)、長享二年(1488年)には播磨一帯から山名勢力の排除に成功(4月7日参照>>)・・・しかも、細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)を嫁に娶り、この戦国の頃の赤松は、以前にも増した全盛期を迎えていたのでした。
しかし、その結婚から、わずか3年後の明応五年(1496年)に赤松政則が急死・・・残念ながら洞松院との間には女の子しか生まれていなかったため、赤松の分家から娘の婿養子として入り、政則の後を継いだのが赤松義村(よしむら)でした。
そんな赤松氏を、かの鎌倉末期の則村の時代から家臣として支えていたのが守護代(しゅごだい=副知事みたいな)の浦上(うらがみ)氏・・・先の政則の時代に、見事な復権を果たせたのも、山名の勢力を一掃できたのも、忠臣の浦上則宗(うらがみのりむね)おればこそ!だったのです。
ただ、それだけの武将であればこそ、いつしか主君より多くの支持者が、その下につき、家内での影響力も大きくなって行くというもの・・・
なんせ上記の通り、赤松政則と洞松院は、わずか3年の結婚生活ですから、政則が亡くなった時点では、その娘さんも幼児なわけで、おそらく、その婿養子の義村も、彼女に見合う同じような年齢だったと思われ(正確な生年は不明)・・・
とは言え、しばらくの間は、義母の洞松院が頑張って義村を支えていた(3月11日参照>>)事もあり、浦上家内での権力闘争はあったものの、赤松と浦上の主従関係に亀裂が入るほどでは無かったわけですが、文亀二年(1502年)に浦上則宗が亡くなり、その後を浦上村宗(むらむね)が引き継いだあたりから、
(*村宗は則宗の甥の子とも息子とも言われ、村宗の前に則宗の養子が家督を継いでいたという話もありますが、そこらへんの経緯はよくわかっていません)
幼かった義村が成長し、自身で政務をこなすようになって来て、これまで、ほぼ思い通りに・・・悪い言い方すると浦上家のやりたい放題だった政務に主君のチェックが入る状態に、浦上村宗は反発するようになっていったのです。
やがて永正十五年(1518年)秋・・・浦上村宗は、家臣の宇喜多能家(うきたよしいえ=秀家の曽祖父)らとともに居城の三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)に籠り、赤松に反旗を翻したのでした。
もちろん、これをそのままにしておけない赤松義村は、永正十五年(1518年)11月12日、三石城へと出兵・・・船坂峠(ふなさかとうげ=兵庫県と岡山県の県境の峠)にて防戦する浦上方を撃破して三石城下へとなだれ込み、城から撃って出た浦上勢と激しい交戦を繰り広げました。
明けて翌13日も城から兵が撃って出て戦闘が始まり、囲む赤松勢が押せば城兵退き、城側の伏兵の出現に赤松が退けば城兵が追撃・・・と、一進一退の状況が続いた事で「これではらちがあかん!」とばかりに義村は、一気に攻め落とさんと15日朝から総攻撃を仕掛けます。
しかし、この時も・・・城側は攻め寄せる赤松勢を引きつけるだけ引きつけておいて、絶好のタイミングで一気に大手&搦め手から同時に出撃し、寄せ手を混乱させて切り崩し、大きな痛手を与えた事で、やむなく赤松軍は本陣の位置を船坂峠まで戻し、態勢を立て直す事に・・・
ところが、この間に、浦上村宗は二人の忍びに武具などを持たせて商人に見せかけて赤松の陣地に送り込み、敵の様子を探らせたばかりか、「村宗は病気で伏せっていて、しばらく動けないかも…」なんてウソの噂を流させたのです。
こうして赤松軍を油断させておいた11月19日夜、70人ばかりの少数精鋭で一気に夜襲を仕掛けます。
突然の火の手と鬨(とき)の声に驚く赤松勢は、応戦どころか、もはや逃げるので精一杯だったとか・・・
かくして年が明けた永正十六年(1519年)正月、赤松義村は作戦の変更・・・香登城(かがとじょう=岡山県備前市)に拠る村宗の弟=浦上宗久(むねひさ)に近づいて
「勝利のあかつきには村宗の領地をそっくりそのまま君にやる…浦上は君が掌握すればえぇ」
と、兄を裏切って赤松につくよう誘いをかけます。
それに乗った宗久は、密かにその準備に取り掛かりますが、その動きを、この時、香登城の二の丸を守備していた宇喜多能家が察知・・・二の丸の守備を強化して籠城すると同時に三石城へ宗久の裏切りを知らせて加勢の軍勢の派遣を要請した事で、逆に窮地に陥った宗久はやむなく城を脱出し、結果的に香登城は宇喜多能家が牛耳る事になってしまいました。
それでも諦めきれない義村は、その年の4月、さらに12月にも攻撃を仕掛け、翌永正十七年(1520年)の正月には、先に浦上傘下の富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市)を落としますが、7月に三石城からの救援が駆けつけて赤松軍を襲撃し、結局、このすべてが防がれてしまいます。
●三石城攻防戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
この度重なる敗戦で赤松の家名は地に落ち、それは同時に浦上村宗の名を挙げる形となり、やがて本拠の置塩城にでさえ村宗に同心する者が現れ、同永正十七年(1520年)の11月、やむなく義村は隠居して、嫡子の赤松晴政(はるまさ=才松丸→政村→政祐)を差し出す事で、何とか面目を保ちます。
とは言え、その後も何度か復権を目論んでイロイロ画策するのですが、結局、翌大永元年(1520年)9月に村宗の放った刺客によって義村が暗殺されてしまい、その後は晴政が赤松を継承していくワケですが、お察しの通り、もはや浦上村宗の傀儡(かいらい=操り人形)の当主なわけで・・・
ただ・・・後に起こる細川勝元の孫たち(勝元の息子の政元の養子たち)による後継者争いで(2月13日参照>>)、最初は浦上村宗とともに、彼の推す細川高国(たかくに)についていた晴政が、父の仇討ちを目論み、途中で細川晴元(はるもと)側に寝返って、晴元側の三好元長(みよしもとなが=三好長慶の父)と協力して村宗を討つと(6月8日参照>>)という場面があったのはあったのですが、結局は、この後も浦上村宗の息子たちとモメてる間に、出雲(いずも=島根県東部)の尼子(あまご)氏の台頭を許してしまい、この後、赤松氏が以前のように浮かび上がる事はありませんでした。
その後の赤松は、晴政の孫=赤松則房(のりふさ)の代に豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)の傘下となって置塩城を安堵されてますが、その細々と続いていた血脈も、関ヶ原の戦いで西軍につき、石田三成(いしだみつなり)の居城=佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)(9月17日参照>>)を守っていた赤松則英(のりひで=則房の息子)が、落城後に捕縛されて自害した事によって、名門=赤松の嫡流は断絶する事となるのです。
(庶流の赤松広秀も、その約1ヶ月に自害…10月28日参照>>)
鎌倉から室町を生き抜いた名門の武家が、戦国の世に姿を消す事は少なくありません・・・というより、それが下剋上であり戦国という物なのでしょうが、何とも、難しい時代であります。
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