信長の前に散る…三好義継が切腹す~若江城の戦い
天正元年(1573年)11月16日、居城の若江城を、織田信長に攻められた三好義継が切腹しました。
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今回の主役=三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)は、天文十八年(1549年)に、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の弟の十河一存(そごうかずまさ・かずなが=長慶の3番目の弟)の長男として生まれたと言います。
この伯父の三好長慶という人は・・・(これまで何度もブログに登場してますが…)
かつて室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として権勢を奮った細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後に、その3人の養子たちによる後継者争いの中で優位に立ち、事実上の政権樹立を勝ち取った細川晴元(はるもと)の家臣でしたが、天文十八年(1549年)6月の江口の戦いにて晴元らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握(6月4日参照>>)した後、第12代=足利義輝(よしてる=11代諸軍・足利義晴の息子)とも和解して(11月27日参照>>)、戦国初の天下人とも称される人物です。
その弟である十河一存は、数々の戦いで兄=長慶をサポートし「鬼十河(おにそごう)」と呼ばれた名将でしたが、残念ながら永禄四年(1561年)3月に、この世を去ってしまいます(5月1日参照>>)。
可愛い甥っ子として、義継を自らが養育するつもりであった長慶でしたが、その2年後の永禄六年(1563年)、長慶の跡継ぎであった一人息子=三好義興(よしおき)が22歳の若さで病死してしまった事から、長慶は義継を養子として迎え、以後、義継は三好家の嫡流を継ぐ事になったわけです。
しかし、以前も書かせていただいたように、先の十河一存の死を皮切りに、三好家には毎年のように次々と不幸な出来事が起こるのです。
十河一存の死後の将軍地蔵山の戦い(11月24日参照>>)が手痛い負け戦となる中、翌年の永禄五年(1562年)の3月には、長慶のすぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)が久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦い(3月5日参照>>)にて戦死し、その翌年に先の義興の死・・・さらにのその翌年の永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)を謀反の疑いで長慶自身が謀殺してしまい、しかも、その弟殺害の2ヶ月後に長慶は亡くなるのです(5月9日参照>>)。
実は、晩年の長慶はうつ病を発症しており、ほとんど合戦には出ずに引き籠りがちになっていて、実際に三好家を支えていたのは重臣の松永久秀(まつながひさひで)だったとの事・・・
こうして、わずか16歳で三好家を引っ張っていかねばならなくなった義継・・・そんな若き当主をサポートしたのが、先の松永久秀と、後に三好三人衆と呼ばれる三好長逸(みよしながやす)・三好政康(まさやす)・石成友通(いわなりともみち)ら三好一族の者たちでした。
翌永禄八年(1565年)5月1日には、将軍=義輝の要請により、左京大夫(さきょうのだいぶ=都の行政機関の長官・後の京都所司代)に任じられ、義輝から「義」の一字を賜って、その名を義重と改めますが(ここまでは重存)、そのわずか18日後、三好三人衆らととともに上洛して二条御所(武衛陣御所)を襲撃して義輝を暗殺してしまうのです(5月19日参照>>)。
その年齢から考えても、おそらく、この一件を主導したのは三好三人衆ではありましょうが、この件をキッカケに義重から、いよいよ義継へと改名していますので、義継自身も自らの意思で首謀者の一人として参加した事でしょう。
なんせ、この義輝さんは、かの長慶と何度も刃を交えて京都奪回&将軍復権を画策した人(11月27日参照>>)・・・長慶と和睦して京都に戻ったとは言え、もともと傀儡(かいらい=あやつり人形)には収まらず、自らが政務に手腕を発揮シたいタイプですから、おそらく長慶の死は彼にとって、誰の影響も受けずに采配を振るチャンス到来と思っていた可能性大。
一方、長慶を失った側の三好としては、それは困る・・・自分たちの思い通りになる将軍が都合が良い。
そこで三好三人衆は、以前に細川晴元とともに三好一族が推し挙げて堺公方(さかいくぼう)を称していた足利義維(よしつな)(2月13日参照>>)の息子=足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)が義輝に代わって第14代将軍になれるよう画策するのです。
一方、その間に、これまで、ともに三好家を支えていた松永久秀と三好三人衆は、どうやら決別したようで・・・というのは、義輝暗殺から半年後の永禄八年(1565年)11月、これまで長慶健在の時から久秀が行っていた大和(やまと=奈良)攻略(11月24日参照>>)での宿敵=筒井順慶(つついじゅんけい=大和の国衆)との筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻防戦(11月18日参照>>)にて三好三人衆が順慶の味方として登場するからなのですが・・・
なので義継は、三好三人衆とともに松永久秀と戦う事になるのですが、この頃には三好三人衆の頭の中は足利義栄の事でいっぱい・・・なんせ将軍ですからね~自分たちの意のままに動いてくれる上司なら、三好家当主より将軍の方がイイに決まってますがな。
この三好三人衆に不満を感じた義継は、彼らと離れて松永久秀のもとに・・・永禄十年(1567年)10月の東大寺大仏殿の戦い(10月10日参照>>)ではキッチリ松永方として参戦し、勝利に貢献しています。
そんな中、これまでの経緯や献金の金額不足から足利義栄の将軍就任に難色を示していた朝廷が、永禄十一年(1868年)ようやくOKサインを出し、その年の2月8日に足利義栄への将軍宣下がなされて、義栄は第14代将軍に就任し、もはや三好三人衆の天下か?
と思いきや、この一件によって、義輝暗殺の際に幽閉されていた興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)を脱出(7月28日参照>>)して、越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとに身を寄せていた義輝の弟=足利義昭(よしあき・義秋)が動き出すのです。
これまで義昭は、暗殺された前将軍の弟として、その後継者=次代将軍になる希望を抱き、自らを奉じて上洛してくれる大物武将を探して、自身が納得できるような者に声をかけていたものの良い返事が貰えず・・・しかし、上記の通り、義栄の将軍就任で、これ以上ジーッとしているわけにはいかず、おそらくは義昭にとってはキャリア不足の地方侍だとの認識だった・・・けど、だからこそ自分を奉じて上洛してくれそうな尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)に接触したのです(10月4日参照>>)。
自分を奉じてくれる武将を探していた義昭と、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)を手に入れて(8月15日参照>>)『天下布武』の印鑑を使い始め、上洛のキッカケ=朝廷への大義名分&手土産を探していた信長との利害関係が見事一致・・・永禄十一年(1568年)9月7日、信長は京都に向け、岐阜城を発ったのです(9月7日参照>>)。
ご存じのように、この信長の上洛は戦国の一大転換期とも言える出来事・・・当然ですが、その道筋には、上洛に協力する者と敵対する者がいるわけで、
そんな中、美濃(みの=岐阜県)の隣国で敵対しそうな朝倉は、現時点で若狭(わかさ=福井県西部)攻めの真っ最中(8月13日参照>>)なので、この一件にはスルー。
北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)には、妹(もしくは姪)のお市の方を嫁がせて懐柔済み(2011年6月28日の前半部分参照>>)。
NOと言った南近江(滋賀県南部)の六角承禎(じょうてい・義賢)は信長軍に蹴散らされます(9月12日参照>>)。
もちろん義栄を仰ぐ三好三人衆も信長に抵抗しますが、籠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)&芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)などを攻撃され、やむなく義栄を連れて、領国の阿波(あわ=徳島県)へと退去します。
一方、この時、三好義継と松永久秀はチャッカリ信長に協力&服属を約束・・・おかげで義継は若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を安堵され、久秀は「大和一国切り取り次第」=「奈良で戦って奪った土地は君が治めたらええぇがな」の許可を得ます。
翌・永禄十二年(1569年)1月、三好三人衆らが義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃した本圀寺の変では(2月2日参照>>)、義継は、将軍家被官の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らとともに、その防御の一翼を担い、その功績もあってか2ヶ月後には信長の仲介で義昭の妹と結婚し、義継も、もうすっかり織田傘下の人・・・と思いきや、
間もなく義昭と信長の間に亀裂が入り始めたり(1月23日参照>>)、信長と三好三人衆の野田福島の戦い(8月26日参照>>)に本願寺顕如(けんにょ=第11代法主)が三好側として参戦した(9月12日参照>>)事などから、やがて義継は松永久秀とともに反信長派に転じ、いわゆる「信長包囲網」の一角となりました。
そして、いよいよ天正元年(1573年)2月(7月に元亀より改元)、足利義昭が信長に反旗を翻し(2月20日参照>>)、一旦は和睦するも7月に再び挙兵・・・籠っていた槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)を攻撃され、やむなく息子=足利義尋(ぎじん)を人質に差し出して降伏します(7月18日参照>>)。
こうして、京都を追われた義昭は、妹婿である義継の若江城に・・・そして冒頭で書かせていただいたように、その後、義継の若江城は信長に攻められるのですが、
一説には、この「義昭を庇護した事」で信長の怒りをかって、その後に若江城を攻められたと言われたりもするのですが、実際には、若江城へ移動するにあたっては羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が護衛した=つまり、義昭の若江城入りは信長も承諾済みだったらしい・・・
なんせ、上記の通り、将軍になるには「朝廷の将軍宣下」があるわけで、京都を追放されようが、本人が「もうアカン」と思おうが、朝廷がそれを承諾しない限り、将軍は将軍のままなわけですから、信長に降伏いたとは言え、その後の身の振り方には朝廷やら何やらの周囲の仲介等があったと思われ、信長も、それらの手前もあり、反信長の神輿として担がれない場所であるとともに監視が効き、かつ将軍が滞在するにふさわしい場所として(本意であったかどうかは別として)義昭が若江城の預かりになる事は、信長も認めていた・・・いや、むしろ妹婿のいる若江城選んだというのが正解のように思います。
ただし、その他方、
「あの信長の事やから、おそらく、この一手先も二手先も読んでいるに違いない…ここは慎重に行動せねば!」
と察していた義継は、若江城にやって来た義昭を城中に入れる事無く、そのまま紀州(きしゅう=和歌山県)へ送った・・・
なんていう話もあります。
つまり、義継は、「義昭云々に関係なく、自分は信長から攻められるかも知れない」事を警戒し、信長に心許す事はなかったという事なのでしょう。
とにもかくにも、『信長公記』では、
そのような、信長への警戒心持ち反抗的な義継に対して、もはや揺るぎない信長の力を恐れる三好の家老たち=多羅尾綱知(たらおつなとも)・池田教正(いけだのりまさ)・野間長前(のまながさき)ら若江三人衆(わかえさんいんしゅう)が主君と離れて信長に内応し、そこに信長が派遣した佐久間信盛(さくまのぶもり)率いる織田軍が若江城を包囲・・・
義継の近臣であった金山信貞(かなやまのぶさだ)を自刃に追い込んだ後、若江三人衆は佐久間信盛を若江城中に引きいれたと言います。
佐久間勢が天守の真下まで攻め上って来た時、
「もはやこれまで!」
と覚悟を決めた義継は、妻子を刺し殺した後、天守から撃って出て佐久間勢の多くを負傷させた後、側近に介錯を頼んで、自らの腹を十文字に切り裂いたのだとか・・・
それは
「比類なき御働き 哀れなる有様なり」
比類なき活躍であったけれども、哀れであった・・・と、
天正元年(1573年)11月16日、三好義継、享年25・・・天下にその名を馳せた三好本流の最後の人となりました。
ちなみに、京都を追放され、三好義継も失った足利義昭ですが、今度は西国の雄=毛利(もうり)を頼って、まだまだネバりはります(7月18日参照>>)
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