長島一向一揆の小木江城攻め~織田信与の自刃
元亀元年(1570年)11月21日、長島一向一揆に攻められた信長の弟=織田信与が小木江城にて自刃しました。
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尾張(おわり=愛知県西部)と伊勢(いせ=三重県中北部)の国境を隔てるように流れる木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)・・・その河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)は、上記の通り、現在では三重県ですが、古文書等には「尾州河内長島」とか「尾張国河内郡」とか表記され、尾張の一部とみなされていました。
とは言え、永禄五年(1562年)に織田信長(おだのぶなが)が尾張を統一(11月1日参照>>)した後も、ここ長島は、その支配下に入っておらず、室町中期に、浄土真宗の中興の祖=蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の息子である蓮淳(れんじゅん)が願証寺(がんしょうじ)を建立して以来、寺を中心に本願寺門徒が周辺の国人領主(地元に根付いた武士)を取り込んで、砦などを設けて武装化した本願寺門徒の地でありました。
そんな中、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて信長が上洛した事で、それまで畿内を掌握していた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・・石成友通)が阿波(あわ=徳島県)へと追いやられたのです(9月7日参照>>)。
しかし、当然、追いやられたままで済むはずはなく、
その三好三人衆が、元亀元年(1570年)6月、越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)と北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)を相手にした、あの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月19日参照>>)のために信長が畿内を留守にする絶好のチャンスを起死回生とばかりに、その年の8月に仕掛けたのが野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の戦い(8月26日参照>>)・・・
そこに、当時、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・現在の大阪城のある場所)を拠点としていた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が三好側として参戦して来たのです。
信長が上洛した当初は、矢銭(やせん=軍資金)の徴収も言われるがままに支払い、決して信長との関係は悪くなかった本願寺でした。
しかし、ここに来てのいきなりの参戦・・・その理由については、
大阪という土地の中でも、1~2を争う絶好な場所に建つ石山本願寺の地を「僕に譲ってくれへんか?」と信長が言ってきた?
とも、
野田福島での三好三人衆を包囲した信長軍の態勢が、完全に石山本願寺を包囲する態勢だった事にブチ切れた?
とも言われますが、
とにもかくにも、元亀元年(1570年)9月7日、ここに顕如は全国の本願寺門徒に向けて
「今こそ、開山・親鸞聖人の恩誼(おんぎ)に報いる時!
その命惜しまず忠節を見せてくれ!参戦せん者は破門にするぞ!」
てな檄文を発したのです(9月12日参照>>)。
「総本山の石山本願寺が危ない!」
とばかりに蜂起する全国の本願寺門徒・・・当然、当時の願証寺住職=証意(しょうい=蓮淳の曾孫・證意)以下、長島の一向一揆も立ち上がります。
早速、代々伊藤一族が城主を務めていた長島城(ながしまじょう=三重県桑名市)に大軍で押し寄せて伊藤一族を追放して城を奪い取ります。
そして、この長島城を拠点に、11月16日、信長の弟=織田信与(のぶとも・信與)が守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃したのです。
これは明らかに、信長の援軍の手が、この古木江城まで届かないであろう事を計算しての攻撃でした。
というのも、あの8月に勃発し、9月の本願寺の参戦によって三好方が勢いづいた野田福島の戦いが、未だ継続中・・・9月12日に三好勢が川端の堤防を切断して敵方に水を引き寄せた事で、信長の陣屋もろとも周辺が水浸しになり、その水が2~3日引かなかったおかげで、信長勢はかなり苦戦していたようなのです。
そこを見計らった9月20日、今度は、先の姉川の合戦で敗れた浅井&朝倉が、信長の重臣=森可成(もりよしなり)の守る宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)近くの坂本(さかもと=滋賀県大津市)まで琵琶湖の西岸を南下して来たのです。
その姉川のページにも書かせていただきましたが、この合戦での信長は、「ひょっとして判断ミスった??」と思えるほど追撃をかけなかった事で、負けた浅井&朝倉のダメージは意外に少なく、ここで野田福島の戦況を知って「チャンス!」とばかりに仕掛けて来たわけです。
城を死守すべく果敢に撃って出る可成でしたが、その数は、加勢に駆け付けた信長の弟=織田信治(のぶはる)の兵を加えても、わずかに1000・・・そこに浅井&朝倉に加えて本願寺の要請を受けた比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の僧兵が加わった約30000の軍勢が押し寄せたのです。
少ない人数の中、何とか落城だけは防いだものの、可成と信治は壮絶な討死を遂げます(9月20日参照>>)。
この合戦後の9月22日付け、六角氏の重臣に宛てた手紙の中で、浅井長政は、
「今、坂本にいます。一両日中には京都に入ろうと話してますんで、その後は、いよいよ野田福島で行きますよって、安心してください」
というノリノリの手紙を送っています。
この長政の心の内を知ってか知らずか、信長は翌日の9月23日に柴田勝家(しばたかついえ)を殿(しんがり=最後尾)として急きょ野田福島の陣を引き払い、翌23日に京都に戻って浅井&朝倉攻撃に備えます。
この間にも浅井&朝倉勢は醍醐(だいご=京都市伏見区)周辺に放火しつつ山科(やましな=京都市山科区)まで進撃して来ていました。
ところが、翌24日、信長勢が侵攻すると浅井&朝倉勢は比叡山方面へ逃げ、そこに布陣して立て籠もったのです。
そこで信長は比叡山に向けて
「僕の味方をしてくれはるんなら、僕の領国内にある比叡山の領地も返還したいと思います。
けど、仏に仕える身やから、どっちかの味方になる事はできん!とおっしゃるんなら中立を保っていて下さい。
もしも、このどっちもイヤ…浅井&朝倉に味方する~っていうのであれば、攻撃しなアカン事になります」
との朱印状を発しますが、比叡山は、返答をせずに無視したばかりか、浅井&朝倉を擁護する姿勢を見せたのです。
(ご存じのように、この比叡山の姿勢が、後の焼き討ちにつながるわけですが…)
そこで信長は宇佐山城に置いていた本陣を比叡山の麓に移動して比叡山を包囲するような布陣に整え、京都方面には八瀬(やせ=京都市左京区)・大原(おおはら=京都市左京区)口や勝軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川)に、志賀方面には唐崎(からさき=滋賀県大津市)に・・・などに配下の者を配置し、その間に甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)にて本願寺の呼びかけに応じた六角承禎(じょうてい・義賢)を抑えた木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)が合流するなど、他方で戦っていた面々もはせ参じて来るのですが・・・
長島一向一揆&小木江城と堅田のい戦い位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
とまぁ、話がちょいと長くなってしまいましたが、とにもかくにも、この時の信長はこういう状況だったわけで、おそらくは手いっぱいで援軍の派遣はムリなわけです。
そこをチャンスと見た長島一向一揆勢は、数日に渡って古木江城に激しい猛攻を加えます。
何とか防いでいた織田信与でしたが、元亀元年(1570年)11月21日、ついに一揆勢が城門を破って場内に突入して来たのです。
「このまま一揆勢の手にかかって命を落とすのは無念である」
そう言い残した信与は天守に上り、その最上階にて切腹して果てたのです。
(撃って出て討死した説もあり)
この信与は、信長から数えて5番目の弟・・・その生年はわかっていませんが、2か月前の宇佐山城で討死した信治が3番目の弟で天文十四年(1544年)生まれの27歳ですから、おそらく20代前半か10代後半と思われ、信長にとって、立て続けに弟を失ったこのあたりの戦いは、大きな心の傷を負った出来事だったのかも知れません。
なんせ、この滋賀・堅田(かただ=滋賀県大津市)方面での戦いは、1ヶ月ほどの小競り合いの後、12月14日に時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が下されて講和が結ばれますが(11月26日参照>>)、そのすぐ後に、秀吉の働きで本拠地の岐阜と京都との動脈を確保した信長は、即座に北伊勢方面への出陣を決意し(5月12日参照>>)、翌元亀二年(1571年)5月の長島一向一揆戦(5月16日参照>>)へと突入していく事になるのですから・・・
ところで、
このあと続く、8月の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)、
天正二年(1574年)9月の長島一向一揆せん滅(9月29日参照>>)
これらは、信長の残虐ぶりを表す出来事として有名な出来事ですが、どうでしょう?
こうして見ると、比叡山も一向一揆も、けっこうヤッちゃってる感じがするんですが・・・
(それも先にヤッちゃってる感が…(^-^;)
(もちろん浅井&朝倉もネ)
もちろん、信長さんが100%正しいとは思いませんし、「そこまでせんでも…」って部分もあるでしょうが、他の武将もそうであるように、そもそも戦国とはそういう時代・・・「戦争は嫌だ」と声高に叫べば、誰かが拾ってくれる現在とは価値観が違うのです。
なので、ドラマ等(「信長協奏曲」は除くww)で、ことさら信長だけを鬼のように描く(他の武将をイイ人に描くためでしょうか?)昨今の風潮には、個人的には、ちょっと疑問を感じているのです。
ドラマ&映画等の関係者の皆々様、そろそろ違うイメージの信長さんを登場させてはいかがでしょう?
今ハヤリの平和を主張する主人公が信長さん・・・てのもアリ???
一歴史ファンとしては期待してしまいますが、やっぱりダークなラスボスっぽく描かれるんでしょうね~まぁ、それもカッコイイならOKやけど(*^-^)
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コメント
>本願寺の要請を受けた比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の僧兵が加わった約30000万の軍勢が押し寄せたのです。
こんにちわ、茶々様。
細かいことでコメントしてすみません。
僧兵の数が....
すみません
投稿: DAI | 2018年11月21日 (水) 07時33分
DAIさん、こんばんは~
アハ!これは失礼しましたm(_ _)m
3億は事件ですがなww
早速、訂正させていただいときました~
ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2018年11月22日 (木) 01時49分