佐々成政の城生城の戦い
天正十一年(1583年)11月28日、越中城生城を攻撃中の佐々成政と神保氏張が聞名寺を攻撃しました。
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織田信長(おだのぶなが)が天正元年(1573年)8月に越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月20日参照>>)、天正三年(1575年)8月に越前一向一揆を鎮圧(8月12日参照>>)した頃には、織田政権の北陸担当となった北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)の柴田勝家(しばたかついえ)のもと、府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)の前田利家(まえだとしいえ)、龍門寺城(りゅうもんじじょう=福井県越前市)の不破光治(ふわみつはる)とともに「府中三人衆」と呼ばれた小丸城(福井県越前市)の佐々成政(さっさなりまさ)でしたが、
天正八年(1580年)に、織田が、あの加賀一向一揆を壊滅(11月17日参照>>)させた事やら、その後に不破光治が亡くなった?(←生没年不明なので)事やら、成政が神保長住(じんぼうながずみ)とともに越中一向一揆を攻めた(9月8日参照>>)事やら・・・そんな、なんやかんやで、天正九年(1581年)頃には、利家は七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)にて能登(のと=石川県北部)一国を預かり、成政は富山城(とやまじょう=富山県富山市)にて越中(えっちゅう=富山県)一国を支配する立場となっていました。
ところがここで、ご存じ天正十年(1582年)6月の本能寺での信長の死(6月2日参照>>)・・・
その10日後の山崎の戦い(6月13日参照>>)で主君の仇を撃った事で、何となく主導権の握った感のある羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の思い通りに清洲会議(6月27日参照>>)が進み、さらに、わずか9カ月後の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(4月21日参照>>)で秀吉が勝って勝家が敗れてしまいます。
この賤ヶ岳の時は勝家派につくものの、隣国=越後(えちご=新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)へのけん制で動けなかった佐々成政は、剃髪する事で何とかこれまで通りの越中一国を安堵されますが、秀吉お仲間の前田利家は能登に加えて加賀(かが=石川県南部)を与えられ本拠を金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に移し、同じくお仲間の丹羽長秀(にわながひで)は越前と若狭(わかさ=福井県西部)を与えられ、元勝家の北ノ庄城を居城とする・・・とまぁ、急転直下で北陸の勢力図が大きく塗りかえられてしまったのです。
越中一国は安堵されたものの、信長さんに気に入られて「これから頑張るゾ!」と思っていた成政にとっては、どこの馬の骨ともわからぬ秀吉に大きな顔をされるのは、何とも不満・・・悶々とした気持ちを拭い去れない成政は、秀吉ドップリの西の隣国=利家か、はなから敵対関係にある東の隣国=上杉か、どちらかをを何とかしたいわけで。。。
なんせ、この上杉・・・かつて柴田勝家が最前線の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落として(6月3日参照>>)「さぁ、これから上杉の本拠地へ…」となった、その時に、あの本能寺の変が起きてしまい、そのまま織田軍が撤退したために魚津城も上杉に回復されており、その後に起こった織田勢が去った旧武田の領地を巡っての天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)でも上杉は北信濃(長野県北部)を獲得して和睦を図り(10月29日参照>>)、しかも、すでに秀吉と通じていて、先の賤ヶ岳の時には勝家派の成政を威嚇していた=だからこそ成政は動けなかったわけで。。。
で、ふと自身の越中を見渡してみると・・・城生城(じょうのじょう=富山県富山市八尾町)の斎藤信利(さいとうのぶとし=信和)が上杉と仲良さげな雰囲気。
この斎藤信利は、上杉謙信(けんしん=景勝の養父)の死後、いち時は織田方についていたものの、かつて飛騨(ひだ=岐阜県北部)の国人=塩屋秋貞(しおやあきさだ)に城生城を攻められた際に上杉の援軍によって救われた事があり、結局、ここに来て再び上杉に与して、越中にありながら成政には従わずにいたのです。
そこで天正十一年(1583年)8月、佐々成政と、それに臣従する神保氏張(じんぼううじはる)が城生城を攻めたのです。
この動きを見た斎藤信利は聞名寺(もんみょうじ=富山市八尾)に援助を求めます。
実は、この聞名寺は、かつて飛騨にありましたが、その地の真宗との対立を避けるためにコチラに移転して来たという経緯があり、その時に大きく支援したのが城生城の斎藤氏であったと・・・そこで、末寺や門徒に呼びかけ、全身全霊で以って城生城のピンチに立ち上がります。
この事を知った神保氏張は聞名寺へも攻撃を仕掛けますが、これが、自然の要害を盾としたなかなかの堅固・・・しかも門徒がゲリラ戦を展開し、むしろ次第に押され気味に・・・
城生城の攻防・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そこで氏張は、まずは富山への街道沿いに関所を設けて八尾(やつお)への救援路を遮断したうえ、石戸(せきど)付近の木陰にワラ人形を並べ、周囲にかがり火をガンガン焚いて大勢の兵が駐屯しているように見せかけます。
なんだかんだで戦のプロでは無い聞名寺門徒たち・・・寺の北側に出現したがこのワラ人形に門徒たちの注意が向いた天正十一年(1583年)11月28日早朝、井田川の西岸を南下して聞名寺の南に位置する桐山峠(きりやまとうげ=現在の城ヶ山公園付近?)に移動した神保軍が一気に聞名寺に奇襲をかけたのです。
奇襲に驚く聞名寺では、僧侶や門徒たちが次々に逃げだしますが、この日の、しかもこの時は親鸞(しんらん)上人の法要の真っ最中・・・しかし、読経を中断する事ができない住職は超特急で読経をやりきった後、寺宝を抱えて逃走し井波(いなみ=富山県南砺市)に隠れ住んだとか・・・
その一方で、一部の門徒は城生城に走って防戦を続けますが、ここ城生城も難攻とされる堅城だったため、神保氏張は一旦包囲を解いて引き挙げました。
しかし、当然、佐々成政は諦めません。
ほどなく井栗谷(いくりだに=富山県砺波市)に砦(とりで)を築いた成政は、近隣の諸将を取り込み、もちろん神保も連れて城生城を包囲して攻撃を開始します。
『肯構泉達録』によれば・・・
この時、さすがに聞名寺も落ち、周囲を囲まれて孤立無援となった状況では打つ手なく、城中より神保の陣に向けて和睦の使者がやって来ますが、氏張の出した和睦の条件は「信利の父=斎藤常丹(じょうたん=利基)の首」でした。
世は戦国・・・
「この首一つで収まるならば…」と決意する主君を、涙を呑んで家臣の斎藤喜左衛門(きざえもん)と豊嶋茂手木(とよしまもてぎ)が介錯をし、常丹の首を差し出しますが、なんと氏張は、「そんな約束はしてない」と突っぱね、攻撃を続行したのです。
「騙された!」
と怒り心頭の城内ですが、もはや、どうしようもなく、ほどなく城生城は陥落しました。
何とか脱出した斎藤信利は、常陸(ひたち=茨城県)の国へと落ちて行ったという事です。
こうして城生城は佐々成政の物となりますが、それも、この翌年の
小牧長久手(こまきながくて)の戦い(↓下記参照)
【末森城攻防戦】>>
【利家VS佐々成政~鳥越城の攻防】>>
【小牧長久手の決着】>>
の後、天正十三年(1585年)の秀吉の富山侵攻により、降伏した成政(8月6日参照>>)に代わって前田利長(としなが=利家の息子)が拝領する事となります。
ところで、この地に語り継がれる伝承を一つ・・・
その伝承では、この城生城の落城は、昔、この地で退治された大蛇の恨みによる物で、城が攻め込まれた際、にわかに現れた怪雲渦巻く中から登場した大蛇が、すわっと城に巻きついて落城させたのだとか・・・
これで積年の恨みが晴れたのか?落城を見た後、その怪雲から大蛇の体がドサリと落ち、そこには転々と白い石を並べたような大蛇の骨が半里ほどに渡って残っていた・・・と。。。
どうやらコレ、城生城の近くにあって、現在は富山県の天然記念物に指定されている天狗平化石層(てんぐびらかせきそう)の事らしい・・・
確かに、白と黒の地層が縞をなして露わに連なる不思議な光景は、昔の人から見れば大蛇の骨に見えたかも知れませんね。
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