本庄繁長の乱で上杉謙信が本庄城を攻撃
永禄十一年(1568年)11月7日、反旗を翻した本庄繁長の籠る本庄城を上杉謙信が攻撃しました。
・・・・・・・・・
天文十一年(1542年)に信濃(しなの=長野県)諏訪(すわ)を制し(6月24日参照>>)、さらに北へと勢力を伸ばそうとする甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)(4月22日参照>>)に対し、天文二十二年(1553年)から永禄七年(1564年)にかけて、何度も川中島(かわなかじま=長野県長野市)にて(8月3日参照>>)刃を交えていた越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎・上杉輝虎)・・・
一方で、その両者がともに傘下にしておきたい場所が、越後にも信濃にも接している隣国=越中(えっちゅう=富山県)・・・なんせ上洛するには、ここを通らねばなりませんし、それはイコール物流という観点からも重要ルートなわけで。。。
ここ越中は、もともとは南北朝の動乱の後に守護(しゅご=県知事的存在)だった畠山(はたけやま)氏以下、それをサポートするが守護代(しゅごだい=副知事的)の遊佐(ゆさ)氏、神保(じんぼう)氏、椎名(しいな)氏が分割して治めていた場所でしたが、応仁の乱を経た戦国時代に入って畠山氏の力が衰え始める中で越中一向一揆が頻発(9月19日参照>>)したりした事により、徐々にその立ち位置も微妙に・・・
で、この永禄の頃には射水(いみず=富山県射水市)や婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)の神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)の椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦を繰り返していましたが、そんな両者の戦いを影で支援していたのが武田信玄(神保を支援)と上杉謙信(椎名を支援)だったわけです(3月30日参照>>)。
ところが、そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月、これまで密かに行っていた信玄の裏工作により、椎名康胤が武田側に寝返ったのです。
父の時代からの同盟者であった康胤に裏切られた事にショックを受けつつも、謙信は康胤の松倉城を落とすべく3月16日に居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣します。
一方、この康胤の寝返りを受けて、翌・4月、今度は神保長職が上杉に寝返り・・・すると、これまで信玄の要望(信玄の奥さんの妹の夫は本願寺顕如)で長職とともにゲリラ戦を展開していた一向一揆が、これまた神保から離れて武田側に寝返り(←あ~ややこしい)、長職傘下の守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)と放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を攻撃して陥落させてしまいます。
そこで謙信は、ひとまず松倉城への抑えとして配下の河田長親(かわだながちか)を魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)に配置して守らせ、自らは、長職と連携して守山城と放生津城への攻撃を開始するのです(4月13日参照>>)。
しかし、その陣中に、鳥坂城(とっさかじょう=新潟県胎内市)の中条藤資(なかじょうふじすけ)からの書状が届きます。
なんと、その書状の中には、もう一通の書状が・・・それは、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)の本庄繁長(ほんじょうしげなが)から中条藤資に宛てた物で、その中身は
「コチラの味方になってくれませんか?」
のお誘い・・・
そう・・・この謙信留守の間に武田側に寝返った本庄繁長が、中条藤資に送った寝返りを即す密書を、上杉を裏切る気ゼロの藤資が、そのまま謙信に見せたのです。
激おこの謙信は、すぐに陣を引き払って春日山城へ帰還し、本庄城攻撃の準備に入ります。
一方、その本庄繁長は、中条藤資以外にも、平林城(ひらばやしじょう=新潟県村上市)の色部勝永(いろべかつなが)や黒川城(くろかわじょう=新潟県胎内市)の黒川実氏(くろかわさねうじ)、大場沢城(おおばさわじょう=新潟県村上市)の鮎川盛長(あゆかわもりなが)ら周辺の武将へ同様の書状を送って寝返りに誘っていたのです。
ところが、これが大きな誤算・・・中条藤資と同じく、彼らにも断られてしまったのです。
結果、本庄繁長は周囲を敵に囲まれた孤立無援の形になってしまい、やむなく本庄城に籠城して武田の援軍を待つしかなくなってしまいます。
そのニュースを得た信玄は、本願寺に向けて繁長救援を要請・・・これを受けた勝興寺(しょうこうじ=富山県高岡市)の一向一揆衆が越後へと侵入する一方で、海津城(かいづじょう=長野県長野市松代町)を出た信玄は、7月10日、謙信側の飯山城(いいやまじょう=長野県飯山市)を攻撃します。
しかし、さすがの謙信はこれを予想しており、すでに配下の者を援軍として送り込んで防戦したため、信玄はそれ以上の進軍ができず、10月13日には、本庄城に、使者とともに兵糧を送り込んで、今後の作戦を練ります。
一方、10月20日に春日山城を出発した謙信は、柏崎(かしわざき=新潟県柏崎市)から出雲崎(いずもざき=新潟県三島郡)を経て新潟に着陣・・・永禄十一年(1568年)11月7日、いよいよ本庄城への攻撃を開始します。
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
このピンチに繁長は、御大=信玄の出陣を要請しますが・・・残念ながら、この頃の信玄は、今川義元(いまがわよしもと)亡き後の駿河(するが=静岡県東部)への侵攻に忙しい・・・(【薩埵峠の戦い】参照>>)(【今川館の攻防戦】参照>>)
もちろん、これは「本庄より駿河が大事」って事だけではなく、11月の東北は、もはや雪に閉ざされ、行くに行けない状況だった事もあって、冬でも暖かい駿河への侵攻を優先したのです。
現に、本庄城を攻撃していた謙信方も、かなり雪に悩まされたようで・・・しかも本庄城が堅固な要塞なうえに城兵も少数ながらゲリラ戦をウマく展開し、もはや援軍も望めず籠城を続けるだけの本庄城を、謙信はなかなか落とせずにいました。
この状況を見るに見かねた陸奥(むつ=青森・岩手・宮城・福・秋田北東部)の蘆名盛氏(あしなもりうじ)と伊達輝宗(だててるむね) が、年も押し迫った12月28日に「繁長を許したって~」と謙信に願い出ますが、未だ激おこの謙信はガンとして首を縦に振らず・・・
そのまま年が明けた永禄十二年(1569年)1月9日には、夜の闇に紛れ本庄方の兵が謙信側の陣地を襲撃します。
しかし本庄方も、少数のゲリラ的攻撃では謙信方に大きなダメージを与える事はできず・・・まだまだヤル気満々の謙信は、周辺の農民に
「槍でも鍬でも鋤でも持って集まれ~~参戦したら褒美をつかわす~」
と呼びかけると同時に、先の色部勝永や黒川実氏らから人質と誓詞(せいし)を取って味方の団結を強めますが、3月に入って、今度は本庄繁長本人から蘆名盛氏と伊達輝宗を通じて赦免の願い出が・・・
さすがに、未だ激おこの謙信ではありましたが、進展の無い戦いが、あまりに長引くのも良く無いし、なんたって先の松倉城が、あのままになってますから、ここは一つ東北の諸将の顔を立てて、「繁長の息子を人質として差し出す事を条件に本庄の所領を安堵する」という事で、この戦いの終わらせる事にしたのです。
こうして本庄繁長の乱と呼ばれる戦いは終結・・・
この後、再び松倉城への攻撃に戻る謙信でしたが、なかなか手ごわい松倉城をようやく落としたのは元亀二年(1571年)3月の事・・・
一方、この一件で上杉の配下となった本庄繁長は、謙信の死後、御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)に勝利して上杉の後継者となった上杉景勝(かげかつ)に仕えて縦横無尽の大活躍・・・「上杉にこの人あり」と言われるほどの勇将となるのですから、世の中わからない物です。
ま、その活躍ぶりは、おいおい、その日付にて書かせていただく事にします。
.
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 足利義昭からの副将軍or管領就任要請を断った織田信長の心中やいかに(2024.10.23)
- 大和平定~織田信長と松永久秀と筒井順慶と…(2024.10.10)
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 松山城奪取戦~上杉謙信と北条氏康の生山の戦い(2024.11.27)
- 戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎(2024.11.20)
- 奈良の戦国~筒井順賢と古市澄胤の白毫寺の戦い(2024.11.14)
コメント
おぉ我が故郷の情報が
ちなみに本庄氏の村上城は江戸期に改築され、現在は(改修されましたが)中々見事な石垣が残っています。
また色部氏の「平林城」は早々に主がいなくなったものの、城跡として整備されているのでピクニック気分で登れます。こちらは土塁が遺構として残っています。
どちらも頂上からの眺めは格別ですし、一日あれば見て回れます。近くに瀬波温泉もありますので、お近くに来られた際はぜひぜひ。
投稿: ゲッチュ | 2018年11月 7日 (水) 16時58分
ゲッチュさん、こんばんは~
おぉ、お近くなんですか?
土塁や石垣が残ってるのは興味そそられますね~
機会があったら行ってみたいです!
コメントありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2018年11月 7日 (水) 18時26分