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2018年12月11日 (火)

賤ヶ岳の前哨戦~秀吉の長浜城攻防

 

天正十年(1582年)12月11日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が長浜城を囲みました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、天下目前にして本能寺に散った織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)・・・すでに家督を譲られていた嫡男(11月29日参照>>)織田信忠(のぶただ)も共に亡くなった事から、織田家の後継者は次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)かと思われましたが、6月27日に開かれた織田重臣たちによる清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)にて、亡き信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の織田秀信)後継者に、その後見人に信孝が就任する事に決定します(6月27日参照>>)

この時、織田家の筆頭家老だった柴田勝家(しばたかついえ)は三男の信孝を推していたものの、本能寺の変当時は北陸にて合戦中(6月3日参照>>)ですぐには戻れずにいて、その間に中国大返し(6月6日参照>>)の離れ業で舞い戻って信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市)で討った(6月13日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、その功績を笠に、自分の推す三法師をムリクリで後継者に決めた的な雰囲気で語られる事が多いですが、

このブログの清須会議のページで追記させていただいているように、最近では「これは至極真っ当な決定であった」という考え方がされるようになっています。

なんせ上記の通り、すでに次男の信雄は北畠家を、三男の信孝は神戸家を継いでおり、織田家の家督は信忠に譲られていたのですから、幼いとは言え、その嫡男が家を継ぐのは正当で、なんなら、その後見人に信孝を据えている所なんざ、むしろ秀吉が勝家に気を使った感ありなわけです。
(この清須会議は、あくまで織田家の後継者を決める会議で、「天下云々」または別の話ですので…)

なので、この時点では勝家と秀吉の間には何の懸念も危惧もなかったわけですが、ただ、この後の信孝の態度により、両者の間に亀裂が生じてしまうのです。

それは・・・
ご存知のように、山崎の合戦の後、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)が炎上する(6月15日参照>>)という出来事があったわけですが、そのために、安土城を修復する間、岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)を任されていた後見人の信孝が三法師を預かっていたのですが、その後、修復が完了したので安土に移すように(←これが会議で決まった事ですから)秀吉が求めても、いっこうに聞き入れないばかりか、叔母(信長の妹もしくは姪)であるお市(いち)の方と勝家の結婚を勝手に決めて連携を強化し、秀吉との敵対姿勢をあらわにして来たのです。

しかも一方の秀吉も、亡き信長の葬儀を京都で盛大に行う(10月15日参照>>)ものの、そこに信孝と勝家の姿はなく・・・とまぁ、誰もが感じ始める険悪なムード。

と、そんなこんなの11月2日、勝家は前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)の3人を秀吉のもとに派遣して和議に当たらせます。

と言っても、これは完全なる時間稼ぎ・・・北陸の冬は雪深く、この先、しばらくは身動き取れない状態になるだろうし、もし秀吉と渡り合う事になるのであれば、今のうちに各地の諸大名と連絡を取っておいて、来年の雪解けを待って行動を起こし、そこに、すでに連絡済みの諸大名との連プレーで・・・てな思惑があったわけです。

しかし、その思惑を秀吉はお見通し・・・とりあえずは和議OKの返事を口頭でしつつも、正式な書面での返答には
丹羽長秀(にわながひで)君や池田恒興(いけだつねおき)君とも相談してみんと…」
と言って応じなかったのです。

そして、その交渉から1ヶ月後の12月7日(9日とも)、秀吉は5万の大軍を率いて、江北(こうほく=滋賀県北部)に侵出しました。

先の池田恒興に、筒井順慶(つついじゅんけい)細川忠興(ほそかわただおき)らを率いて北上する道すがら、安土に点在する城々に兵を配置しつつ、天正十年(1582年)12月11日には、堀秀政(ほりひでまさ)佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)に入った秀吉は、すかさず、勝手知ったる長浜城を寸分のぬかりなく囲みます。

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長浜城・本丸跡と復元天守 

そもそも秀吉が、信長から最初に与えられた城が長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)だった事もあり、この辺の地理には精通している秀吉ですから・・・

この時の長浜は・・・
先の清須会議にて、秀吉が光秀の旧領であった丹波(たんば=京都府中東部)山城(やましろ=京都府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)を得た代わりに、勝家が、これまでの越前(えちぜん=福井県東部)北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)に加えて、新たに得たのが近江三郡とこの長浜城で、この時は、勝家の養子である柴田勝豊(かつとよ=実際には勝家の姉の子)が城主を務める、言わば柴田方の最前線の城でした。

こうして秀吉は、大軍で囲んだ、この長浜城に向けて、本領安堵等の条件を提示して降伏を呼びかけるのです。

もちろん、この冬場に越前からの援軍が望めない事も重々承知・・・しかも、どうやらこの勝豊は、勝家の養子でありながらも比較的冷遇されていたようで、勝家が甥の佐久間盛政(さくまもりまさ=勝家の姉もしくは妹の子)(5月12日参照>>)や、自分と同じ養子だけれど、もしかしたら実子かも知れない柴田勝政(かつまさ)らを厚遇する事に少々の不満を抱えていたとか・・・

その心理をうまく突いた秀吉が大谷吉継(おおたによしつぐ)を使って、
「なんなら越前一国の主として迎えても…」
「重臣たちも大名に取り立てる」

てな甘い言葉で誘ったのです。

長浜城内での話し合いの末、家老の意見を受け入れた勝豊は、17か条に及ぶ勝家への不満を列挙して絶縁を宣言し、
「不満のある者は越前に戻って勝家に仕えよ」
と固い決意をあらわにして、12月15日、秀吉方に降ったのでした。

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長浜城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

これを受けた秀吉は、長浜城を監視すべく、改修した横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市堀部町)蜂須賀家政(はちすかいえまさ)を置き、佐和山城には丹羽長秀を置いて、自らは、勝家と心をともにする信孝の岐阜城の攻撃へと向かい、この岐阜でのアレコレに続くように賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いへと突入していく事になります。
【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
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岐阜の乱と呼ばれるこの出来事については、一時的な和睦をする2022年12月29日ページ>>でご覧いただくとして、その後のおおまかな流れとしては、年が明けた
4月20日:【賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し】
4月21日:【賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】
4月23日:前田利家の戦線離脱】
4月24日:北ノ庄城・炎上前夜】
5月2日:【織田信孝の自刃】
をご覧いただければありがたいです。
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