赤松政則VS山名政豊~真弓峠の戦い
文明十五年(1483年)12月25日、赤松政則軍と山名政豊軍がぶつかった真弓峠の戦いがありました。
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嘉吉元年(1441年)、播磨(はりま=兵庫県西南部)・備前(びぜん=岡山県南東部)・美作(みまさか=岡山県北東部)の守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)であった赤松満祐(あかまつみつすけ)が、時の室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=第6代)を暗殺した嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)で、その討伐軍として活躍した山名宗全(そうぜん=持豊)が、その功により赤松の旧領を賜って武家のトップクラスに躍り出る一方で、当然の事ながら、謀反を起こした赤松家は没落・・・
しかし、応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱(5月20日参照>>)で西軍総大将となった宗全に対抗する東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の下で、満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)が功を挙げて(5月28日参照>>)、何とか復権を果たします。
やがて約10年に渡った応仁の乱も、東西総大将の死を以て下火となり、彼らの後継者たち=細川政元(まさもと=勝元の息子)と山名政豊(やまなまさとよ=宗全の息子か孫)らに和睦が結ばれた後、文明九年(1477年)11月に大内政弘(おおうちまさひろ)の帰郷(11月11日参照>>)によって幕を閉じました。
一方で、このまま終わらなかったのが山名VS赤松の戦い・・・
播磨や備前や美作などは、政則にしてみれば、もともと赤松家の物だった領地ですが、政豊にとっては功績の恩賞に先代が貰った領地・・・本来ならば、そこを将軍家がシッカリ采配せねばならないところですが、もはや、取ったもん勝ちの戦国模様ですから、、、
なんだかんだで先の大出世で旧領を回復した赤松政則は、幕府の侍所(さむらいどころ=軍事&警察組織)にも任じられ、ライバルの山名政豊を肩を並べるようになりますが、回復したばかりの領地が気になる政則は、守護代の浦上則宗(うらがみのりむね)を京都に常駐させて、自らは領国にて領地経営に当たります。
この動きを心配した山名政豊は、文明九年(1477年)~翌・十年(1478年)にかけて、何度も京都と領国を行ったり来たり・・・文明十一年(1479年)の9月には、時の将軍=足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子・第9代)の静止を振り切って帰国して(9月4日参照>>)、赤松に通じた稲葉(いなば=鳥取県東部)での反乱を鎮圧せねばならない状況でした。
やがて文明十二年(1480年)12月12日の『大乗院寺社雑事記』には、
「山名軍が今年中には必ず播磨に攻め入るだろう」って、
あと半月しかないやろ!というツッコミはさておき、そこまで緊張した両者の関係だったわけですが、
そんなこんなの文明十五年(1483年)の夏頃・・・赤松配下で玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(まつだもとなり)が、政豊の息子=山名俊豊(としとよ)の勧誘を受けて山名へと寝返り、赤松派の福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)を包囲して攻撃を仕掛けて来たのです(12月13日参照>>)。
これを受けた赤松政則は、「我が播磨に侵攻して来た」として、早速、幕府から松田元成討伐の許可を得ました。
ただし・・・許可は得たものの、主君=政則自身の福岡城救援を進言する浦上則宗をよそに、政則は、三石城(みついしじょう=岡山県備前市)の浦上則国(うらがみのりくに)?もしくは赤松政秀(まさひで・龍野城主の赤松政秀とは同姓同名の別人)?を福岡城の救援に向かわせただけで、自身は、かつての領地であった但馬(たじま=兵庫県北部)朝来(あさご)を奪還目指して12月16日、1500余騎を率いて置塩城(おきしおじょう・おじおじょう=兵庫県姫路市)を出陣したのです。
●真弓峠の戦いの進路図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
『備前軍記』『備前文明乱記』等によれば・・・
赤松政則は、12月18日に粟賀(あわが=兵庫県神崎郡神河町・大賀)に着陣した後、さらに但馬(たじま=兵庫県北部)の国境に近い真弓峠(まゆみとうげ=兵庫県朝来市生野町)まで攻め寄せますが、すでに季節は冬・・・
見慣れた木々も真っ白な雪に覆われた銀世界だったため、どこが谷やら山やら見分けがつかず、とりあえずは日当たりの良い場所や風に当たらない場所を見つけて各所に陣を張って野営をしていた文明十五年(1483年)12月25日未明に、山名配下の但馬勢約2000余騎が赤松陣営を急襲したのだとか・・・
積雪のために身動きが取れなかった赤松勢は、この真弓峠にて、主だった武将34名を含む300余人が討死するという大敗を喫してしまったのです。
この悲報を本陣の粟賀にて受け取った赤松政則は、
「今、この戦いによって疲労困憊しているであろう但馬勢を、本隊にて直ちに攻撃すべき!」
と息巻きますが、
「この雪では平野部にて戦う方が勝算がある」
と側近たちに説得されて、やむなく諦め、姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)へと退却していきました。
しかも、この真弓峠の敗退の一報が、福岡城を救援していた赤松の部隊に届くと、彼らも一気に戦意喪失・・・やがて、その救援隊も次々に播磨へと退却して行ったため、年が明けて間もなくの1月上旬に、かの福岡城も陥落してしまいました(1月6日参照>>)。
その後の事は、史料が少なく、よくわかっていないのですが、公家の日記等に、
「赤松政則が高野山に逃げた」
とか
「赤松政則は行方不明になってる」
とか書かれているようなので、おそらく、しばらくの間は山名勢の勢いが強く、赤松は風前の灯だった事がうかがえます。
しかも、上記の通り、今回の真弓峠の敗北と福岡城の陥落は、これまでず~っと政則を支えてきた老臣=浦上則宗の進言を聞き入れずに兵を両所に分散してしまった政則の判断ミスに拠るものとのイメージが家臣たちの間に蔓延し、主君への不信感から赤松家内も、一時は分裂してしまいます。
が、本来の敵は山名・・・何とか主従協力して敵に当たり、文明十七年(1485年)に再び真弓峠でぶつかった時には、見事山名に勝利し、やがて訪れた長享二年(1488年)4月の英賀坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)の戦いにて、赤松VS山名の最終決戦となるのですが、そのお話は2018年4月7日のページ>>にてどうぞm(_ _)m
…にしても、
応仁の乱以前に名門であった山名や赤松といった大大名たちが、このように争っている間に、今回では守護代だった浦上などが力をつけて行き(11月12日参照>>)、やがて、その浦上もが配下であった宇喜多直家(うきたなおいえ)に出し抜かれ(6月15日参照>>)、その宇喜多も毛利(もうり)と織田(おだ)のハザマで蠢き・・・と、お馴染みの戦国絵図へと展開していく事になるわけで、物語は、まさに大河の如く~長く々々つながっていくのですよね~ヽ(´▽`)/
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