日本史の新発見&発掘…2018年総まとめ
いよいよ、2018年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。
ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、
また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ
1月 | ● | 奈良県奈良市の春日大社にて、昭和14年(1939年)の宝庫解体修理の際に天井裏から発見された12本の刀剣を順次研磨していたところ、そのうちの1本が、日本刀の原型が成立した最初期である平安時代末期ごろに作られた「古伯耆物(こほうきもの)」と呼ばれる最古級の日本刀と判明しました。 大社では、平安時代から続く武家に伝えられていたものが、南北朝~室町初期に奉納されたと推測しています。 |
4月 | ● | 広島県立歴史博物館で徳川家康(とくがわいえやす)が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣&夏の陣(年表>>)の詳細な陣形を記録した最古級かつ最大級の陣図が見つかりました。 これまで、主戦場だった城外の部隊配置まで詳しく示された陣図は過去に例がなく、戦いの様子を知る重要な史料とみられています。 |
5月 | ● | 邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(まきむくいせき=奈良県桜井市)で大量に発掘された桃の種について、放射性炭素年代測定をした結果、西暦135~230年のものとみられることが判明しました。 これは248年ごろ没したとされる女王卑弥呼(ひみこ)が活動した時代と重なり、邪馬台国の位置をめぐる論争にも影響を与えそうだとの事。 |
● | 滋賀県草津市教育委員会が、草津市野路町の榊差遺跡(さかきさしいせき)で、国内最古となる奈良時代前半の獣脚の鋳型を発見した事を発表…獣脚は獣を模した釜や鍋を支える部分で、祭祀等で使用した物と考えられています。 | |
6月 | ● | 広島県福山市の県立歴史博物館が、14世紀中頃の南北朝時代に描かれたとみられる本州から九州のほぼ全域が記された日本地図が見つかったと発表しました。 現存する最古の日本地図は京都・仁和寺(にんなじ)所蔵の「日本図」(1305年)とされるものの、これは西日本が欠けていて、全体が残った地図では今回の物が最古級…日本地図の変遷を辿るうえで貴重な品であると注目されています。 |
7月 | ● | 江戸時代の弘前藩で活動していた忍者の物とみられる忍術書が見つかりました。 中には武器の説明や敵に狙われないための心得等が記されており、発見した青森大(青森市)の清川繁人教授によれば「忍者部隊の存在は文献には残っていたが、今回の忍術書の発見によって、その活動が裏付けられた」との事。 |
● | 昨年、福井県小浜市内の発心寺で本堂改修工事中に発見された駕籠が、江戸幕府3代将軍=徳川家光(とくがわいえみつ)が乗っていた駕籠(かご)と確認されました。 徳川将軍家の駕籠はこれまでに3挺確認されていますが、完全な形で現存するのは唯一。 福井県立若狭歴史博物館(小浜市)によれば、駕籠は幅86cm、奥行き118cm、高さ102.5cmの大型で、ヒノキから作った細いひもを編んだ物が全体に張り付けられた物で、つや出しに透明の漆が塗ってあるそう…現段階で将軍や大名クラスの乗り物は実物がほとんど確認されておらず、大変重要な資料だと注目されています。 |
|
● | 京都市東山区の三十三間堂で、国宝の風神・雷神像と観音二十八部衆像の配置について、従来が創建時とは異なっていたことが分かったため、鎌倉期の絵像などを基に識者から意見を聞き、創建時の姿に近づけるため、84年ぶりに左右が入れ替わり、もとの位置に…堂内の中央にある千手観音坐像が本来南向きになっているとされ、坐像から見て左手に風神像が来るとの事。 | |
8月 | ● | 縁結びの御利益があるといわれる京都府の下鴨神社に奉納される絵馬について、見ず知らずの人が絵馬に書いた内容を面白がってSNSにアップする人が増えたため、それを阻止しようという神社の計らいで、絵馬の全面を覆う形の「個人情報保護シール」を提供…SNS社会となった現代の事情が見て取れます。 |
● | 京都のお盆の風物詩「五山の送り火」(参照>>)は、かつては今よりもっと多くの山で行われていたと言われていたものの、詳しい場所はわかっていませんでしたが、京都大学が、京都市内の山で送り火が行われていた可能性のある痕跡を見つけました。 江戸時代の絵図には現在の京都市左京区あたりに、今はない「い」の送り火が描かれており、その「い」の送り火が行われていたことを示唆する痕跡が見つかったようです。 |
|
9月 | ● | 今年の9月5日に関西で猛威を振るった台風21号の影響で、屋根飾りがはがれた二条城(京都市中京区)の二の丸御殿にて、剥脱箇所から徳川家の紋「三つ葉葵」の飾り跡が見つかりました。 屋根の板に凹凸が残り、紋は直径64cmで木製か銅製だったらしく、1603年の家康による築城時に取り付けた可能性大ですが、その後に皇室別邸となった明治期に外され、菊の紋など別の飾りで覆われたと思われます。 |
● | 兵庫県中央部の神河(かみかわ)町で、飛鳥時代後半(7世紀後半)に創建されたとみられる寺院跡が見つかりました。 町教育委員会によれば、鎌倉時代に成立した仏教史書「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」などには、飛鳥時代に地元の豪族が、命を救ってくれた愛犬を弔った「播磨犬寺」を建てたとする伝承があり、この犬寺と関わる可能性が高いとみており、「伝説の舞台が遺跡でみつかった貴重なケース」との事です。 |
|
10月 | ● | 京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満(あしかがよしみつ)が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかりました。 金閣寺や市埋蔵文化財研究所によれば「幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すもの」という事です。 |
● | 江戸時代に来日し、その後国外追放になったドイツ人医師シーボルト(参照>>)に、日本人妻お滝が送った最も古い手紙がオランダ・ライデン大で見つかりました。 シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、調査した西南学院大の宮崎克則教授は「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」としています。 これまでオランダ語訳の存在は知られていましたが、日本語原本の所在は不明だった中、ライデン大の大学院生が大学の日本関係資料の中で発見して宮崎教授が確認した物です。 |
|
● | 鎌倉・室町時代の遺跡として知られる大阪府高槻市の上牧遺跡で、さらに古い古墳時代の集落跡が見つかりました。上牧遺跡は、1971年に発見され鎌倉・室町時代の遺跡とされていましたが、新名神高速道路の建設のため、去年、新たに発掘を始めたところ、3世紀~6世紀の古墳時代の建物や井戸の跡などが確認され、大阪府は「水陸交通の拠点だったこの地域を、300年以上支配した集団が存在したことがわかった」としています。 | |
● | 日本初の本格的な宮廷庭園の跡とされる奈良県明日香村の飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)で、その大きさの全容が初めて明らかになりました。 池は南北に2つあり、今回は、北側の池の構造が初めて詳しく調査され、広さが約1500㎡で、水深は深いところで2mほどあったとみられ、岸の一部が石で階段状に作られて池に入って行ける構造になっていることがわかり、当時、水遊びに使われた可能性もあるということです。 一方、南側の池は北側よりも広いものの水深は30cmほどで、池の内側に島を作るなど北側とは全く構造が異なり、観賞用に作られたとみられています。 |
|
11月 | ● | 滋賀県栗東市蜂屋の蜂屋遺跡で新たに溝跡が見つかり、法隆寺の屋根に使われたのと同じ文様を持つ飛鳥時代後半(7世紀後半)の瓦などが大量に出土したと滋賀県文化財保護協会が発表しました。 会によれば、法隆寺と深い関係を持つ寺院が存在した可能性があるとの事。 |
● | 飛鳥時代に築かれた狭山池(大阪狭山市)でかつて発掘された水路用の巨石は、古墳時代の大王らを葬った石棺だった事が判明…府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員さんによると、巨石の特徴をもとに製作時期を絞り込み、仏教伝来で知られる欽明天皇、聖徳太子(しょうとくたいし)の弟の来目(くめ)皇子らが埋葬者ではないか?とみています。 | |
● | 織田信長(おだのぶなが)が築城したとされる愛知県小牧市の小牧山城の発掘調査で、山頂の天守(主郭)近くに屋敷建物があったことを示す礎石が見つかりました。 同じ場所から天目茶わんや青磁の小わんなどの破片数点も出土し、天守近くに居宅などの城主の生活空間が設けられたのは、これまでは、1567年に信長が岐阜城に設けたのが初めてと考えられていましたが、これで岐阜城以前に築城された小牧山城が先という事になります。 |
|
12月 | ● | 滋賀県長浜市の小谷城跡で、浅井長政(あざいながまさ)と妻=お市(いち)の方が生活していたと伝えられる「御屋敷(おやしき)跡」から、建物の礎石を固定する「根石」や青磁皿の破片などが見つかりました。 御屋敷跡で建物の存在を示す遺構が発見されたのは初めてで「伝承通り2人が住んでいた屋敷だった可能性が高まった」との事です。 |
● | 滋賀県草津市野路(のじ)町の榊差(さかきざし)遺跡で、8世紀初頭(奈良時代前半)の仏像の「光背(こうはい)」の土製鋳型(いがた)の破片が見つかりました。 現存する飛鳥~奈良時代の金銅仏で光背があるのは法隆寺の献納宝物「四十八体仏」などわずかで、それらを製作した鋳型がこれまでに確認されておらず、国内最古の鋳型の可能性があるという事です。 |
こうして見てみると、この1年も、様々な発見やニュースがありましたね~
絵馬に貼る個人情報保護シールなんかは「まさに、今どきやなぁ」って感じですが、個人的に気になるのは、やはり11月の信長の小牧山城ですかね。
この小牧山城(こまきやまじょう=愛知県小牧市)は、織田信長が美濃の斎藤氏を攻めるための拠点として建てた城です。
かの『信長公記』にも、永禄四年(1561年)5月の美濃の斎藤龍興(さいとうたつおき=道三の孫)との交戦=森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)&続く美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)等を終えてしばらく経った永禄六年(1563年)に、信長が
「んじゃ、小牧山に移るか~」
てな事をいきなり言い出したために、急遽、城を造ったような雰囲気で書かれてあったり、
その後、永禄十年(1567年)8月に龍興の居城である稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)が陥落した(8月15日参照>>)事によって、役目を終えるかのように廃城・・・つまり、結果的に、わずか4年間しか使用されなかった事から、
かつては、急造りの付城(つけじろ=攻撃の拠点として敵城の近くに築いた城)か砦(とりで)のような物だったと考えられていました。
しかし、近年の発掘調査によって、しっかりとした三重の石垣に囲まれた立派な城であった事が明らかとなり、さらに、周囲には緻密な計算による町割にて、ちゃんとした城下町が形成されており、いわゆる、この先の信長&秀吉の時代に代表される「戦う山城」ではない「統治する山城」であった事がわかって来ています。
(お城の変革については【城の日】のページで>>)
そういった城は、これまでは「岐阜城が最初」とされていましたが、どうやらコチラの小牧山の方が早いようで・・・まさに、お城の一大変化の最初の城だったのですね。
おそらく、これから先の発掘調査によって、また更なる発見がある事でしょう・・・期待が膨らみます。('-'。)(。'-')。ワクワク
・‥…━━━☆
てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2018年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~
ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m
そして、来年=2019年はいよいよ新元号誕生の年・・・今後とも、よろしくお願いします
.
固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント