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2018年12月30日 (日)

日本史の新発見&発掘…2018年総まとめ

 

いよいよ、2018年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 奈良県奈良市春日大社にて、昭和14年(1939年)の宝庫解体修理の際に天井裏から発見された12本の刀剣を順次研磨していたところ、そのうちの1本が、日本刀の原型が成立した最初期である平安時代末期ごろに作られた「古伯耆物(こほうきもの)と呼ばれる最古級の日本刀と判明しました。
大社では、平安時代から続く武家に伝えられていたものが、南北朝~室町初期に奉納されたと推測しています。
4月 広島県立歴史博物館徳川家康(とくがわいえやす)が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣&夏の陣(年表>>)の詳細な陣形を記録した最古級かつ最大級の陣図が見つかりました。
これまで、主戦場だった城外の部隊配置まで詳しく示された陣図は過去に例がなく、戦いの様子を知る重要な史料とみられています。
5月 邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(まきむくいせき=奈良県桜井市)大量に発掘された桃の種について、放射性炭素年代測定をした結果、西暦135~230年のものとみられることが判明しました。
これは248年ごろ没したとされる女王卑弥呼(ひみこ)が活動した時代と重なり、邪馬台国の位置をめぐる論争にも影響を与えそうだとの事。
  滋賀県草津市教育委員会が、草津市野路町の榊差遺跡(さかきさしいせき)で、国内最古となる奈良時代前半の獣脚の鋳型を発見した事を発表…獣脚は獣を模した釜や鍋を支える部分で、祭祀等で使用した物と考えられています。
6月 広島県福山市県立歴史博物館が、14世紀中頃の南北朝時代に描かれたとみられる本州から九州のほぼ全域が記された日本地図が見つかったと発表しました。
現存する最古の日本地図は京都・仁和寺(にんなじ)所蔵の「日本図」(1305年)とされるものの、これは西日本が欠けていて、全体が残った地図では今回の物が最古級…日本地図の変遷を辿るうえで貴重な品であると注目されています。
7月 江戸時代の弘前藩で活動していた忍者の物とみられる忍術書が見つかりました。
中には武器の説明や敵に狙われないための心得等が記されており、発見した青森大(青森市)清川繁人教授によれば「忍者部隊の存在は文献には残っていたが、今回の忍術書の発見によって、その活動が裏付けられた」との事。
  昨年、福井県小浜市内の発心寺で本堂改修工事中に発見された駕籠が、江戸幕府3代将軍=徳川家光(とくがわいえみつ)が乗っていた駕籠(かご)と確認されました。
徳川将軍家の駕籠はこれまでに3挺確認されていますが、完全な形で現存するのは唯一。 
福井県立若狭歴史博物館(小浜市)によれば、駕籠は幅86cm、奥行き118cm、高さ102.5cmの大型で、ヒノキから作った細いひもを編んだ物が全体に張り付けられた物で、つや出しに透明の漆が塗ってあるそう…現段階で将軍や大名クラスの乗り物は実物がほとんど確認されておらず、大変重要な資料だと注目されています。
  京都市東山区三十三間堂で、国宝の風神・雷神像と観音二十八部衆像の配置について、従来が創建時とは異なっていたことが分かったため、鎌倉期の絵像などを基に識者から意見を聞き、創建時の姿に近づけるため、84年ぶりに左右が入れ替わり、もとの位置に…堂内の中央にある千手観音坐像が本来南向きになっているとされ、坐像から見て左手に風神像が来るとの事。
8月 縁結びの御利益があるといわれる京都府の下鴨神社に奉納される絵馬について、見ず知らずの人が絵馬に書いた内容を面白がってSNSにアップする人が増えたため、それを阻止しようという神社の計らいで、絵馬の全面を覆う形の「個人情報保護シール」を提供…SNS社会となった現代の事情が見て取れます。
  京都のお盆の風物詩「五山の送り火」(参照>>)は、かつては今よりもっと多くの山で行われていたと言われていたものの、詳しい場所はわかっていませんでしたが、京都大学が、京都市内の山で送り火が行われていた可能性のある痕跡を見つけました。
江戸時代の絵図には現在の京都市左京区あたりに、今はない「い」の送り火が描かれており、その「い」の送り火が行われていたことを示唆する痕跡が見つかったようです。
9月 今年の9月5日に関西で猛威を振るった台風21号の影響で、屋根飾りがはがれた二条城(京都市中京区)二の丸御殿にて、剥脱箇所から徳川家の紋「三つ葉葵」の飾り跡が見つかりました。
屋根の板に凹凸が残り、紋は直径64cmで木製か銅製だったらしく、1603年の家康による築城時に取り付けた可能性大ですが、その後に皇室別邸となった明治期に外され、菊の紋など別の飾りで覆われたと思われます。
  兵庫県中央部の神河(かみかわ)で、飛鳥時代後半(7世紀後半)に創建されたとみられる寺院跡が見つかりました。
町教育委員会によれば、鎌倉時代に成立した仏教史書「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)などには、飛鳥時代に地元の豪族が、命を救ってくれた愛犬を弔った「播磨犬寺」を建てたとする伝承があり、この犬寺と関わる可能性が高いとみており、「伝説の舞台が遺跡でみつかった貴重なケース」との事です。
10月 Dscn1995a 京都市北区金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満(あしかがよしみつ)が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかりました。
金閣寺や市埋蔵文化財研究所によれば「幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すもの」という事です。
  江戸時代に来日し、その後国外追放になったドイツ人医師シーボルト(参照>>)に、日本人妻お滝が送った最も古い手紙がオランダ・ライデン大で見つかりました。
シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、調査した西南学院大の宮崎克則教授は「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」としています。
これまでオランダ語訳の存在は知られていましたが、日本語原本の所在は不明だった中、ライデン大の大学院生が大学の日本関係資料の中で発見して宮崎教授が確認した物です。
  鎌倉・室町時代の遺跡として知られる大阪府高槻市上牧遺跡で、さらに古い古墳時代の集落跡が見つかりました。上牧遺跡は、1971年に発見され鎌倉・室町時代の遺跡とされていましたが、新名神高速道路の建設のため、去年、新たに発掘を始めたところ、3世紀~6世紀の古墳時代の建物や井戸の跡などが確認され、大阪府は「水陸交通の拠点だったこの地域を、300年以上支配した集団が存在したことがわかった」としています。
  日本初の本格的な宮廷庭園の跡とされる奈良県明日香村飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)で、その大きさの全容が初めて明らかになりました。
池は南北に2つあり、今回は、北側の池の構造が初めて詳しく調査され、広さが約1500㎡で、水深は深いところで2mほどあったとみられ、岸の一部が石で階段状に作られて池に入って行ける構造になっていることがわかり、当時、水遊びに使われた可能性もあるということです。
一方、南側の池は北側よりも広いものの水深は30cmほどで、池の内側に島を作るなど北側とは全く構造が異なり、観賞用に作られたとみられています。
11月 滋賀県栗東市蜂屋蜂屋遺跡で新たに溝跡が見つかり、法隆寺の屋根に使われたのと同じ文様を持つ飛鳥時代後半(7世紀後半)の瓦などが大量に出土したと滋賀県文化財保護協会が発表しました。
会によれば、法隆寺と深い関係を持つ寺院が存在した可能性があるとの事。
  飛鳥時代に築かれた狭山池(大阪狭山市)でかつて発掘された水路用の巨石は、古墳時代の大王らを葬った石棺だった事が判明…府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員さんによると、巨石の特徴をもとに製作時期を絞り込み、仏教伝来で知られる欽明天皇、聖徳太子(しょうとくたいし)の弟の来目(くめ)皇子らが埋葬者ではないか?とみています。
  織田信長(おだのぶなが)が築城したとされる愛知県小牧市小牧山城の発掘調査で、山頂の天守(主郭)近くに屋敷建物があったことを示す礎石が見つかりました。
同じ場所から天目茶わんや青磁の小わんなどの破片数点も出土し、天守近くに居宅などの城主の生活空間が設けられたのは、これまでは、1567年に信長が岐阜城に設けたのが初めてと考えられていましたが、これで岐阜城以前に築城された小牧山城が先という事になります。
12月 滋賀県長浜市小谷城跡で、浅井長政(あざいながまさ)と妻=お市(いち)の方が生活していたと伝えられる「御屋敷(おやしき)跡」から、建物の礎石を固定する「根石」や青磁皿の破片などが見つかりました。
御屋敷跡で建物の存在を示す遺構が発見されたのは初めてで「伝承通り2人が住んでいた屋敷だった可能性が高まった」との事です。
  滋賀県草津市野路(のじ)榊差(さかきざし)遺跡で、8世紀初頭(奈良時代前半)仏像の「光背(こうはい)」の土製鋳型(いがた)の破片が見つかりました。
現存する飛鳥~奈良時代の金銅仏で光背があるのは法隆寺の献納宝物「四十八体仏」などわずかで、それらを製作した鋳型がこれまでに確認されておらず、国内最古の鋳型の可能性があるという事です。

こうして見てみると、この1年も、様々な発見やニュースがありましたね~

絵馬に貼る個人情報保護シールなんかは「まさに、今どきやなぁ」って感じですが、個人的に気になるのは、やはり11月の信長の小牧山城ですかね。

この小牧山城(こまきやまじょう=愛知県小牧市)は、織田信長が美濃の斎藤氏を攻めるための拠点として建てた城です。

かの『信長公記』にも、永禄四年(1561年)5月の美濃の斎藤龍興(さいとうたつおき=道三の孫)との交戦=森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)&続く美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)等を終えてしばらく経った永禄六年(1563年)に、信長が
「んじゃ、小牧山に移るか~」
てな事をいきなり言い出したために、急遽、城を造ったような雰囲気で書かれてあったり、

その後、永禄十年(1567年)8月に龍興の居城である稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)が陥落した(8月15日参照>>)事によって、役目を終えるかのように廃城・・・つまり、結果的に、わずか4年間しか使用されなかった事から、

かつては、急造りの付城(つけじろ=攻撃の拠点として敵城の近くに築いた城)(とりで)のような物だったと考えられていました。

しかし、近年の発掘調査によって、しっかりとした三重の石垣に囲まれた立派な城であった事が明らかとなり、さらに、周囲には緻密な計算による町割にて、ちゃんとした城下町が形成されており、いわゆる、この先の信長&秀吉の時代に代表される「戦う山城」ではない「統治する山城」であった事がわかって来ています。
(お城の変革については【城の日】のページで>>

そういった城は、これまでは「岐阜城が最初」とされていましたが、どうやらコチラの小牧山の方が早いようで・・・まさに、お城の一大変化の最初の城だったのですね。

おそらく、これから先の発掘調査によって、また更なる発見がある事でしょう・・・期待が膨らみます。('-'。)(。'-')。ワクワク

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2018年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2019年はいよいよ新元号誕生の年・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

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2018年12月25日 (火)

赤松政則VS山名政豊~真弓峠の戦い

 

文明十五年(1483年)12月25日、赤松政則軍と山名政豊軍がぶつかった真弓峠の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

嘉吉元年(1441年)、播磨(はりま=兵庫県西南部)備前(びぜん=岡山県南東部)美作(みまさか=岡山県北東部)守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)であった赤松満祐(あかまつみつすけ)が、時の室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=第6代)を暗殺した嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)で、その討伐軍として活躍した山名宗全(そうぜん=持豊)が、その功により赤松の旧領を賜って武家のトップクラスに躍り出る一方で、当然の事ながら、謀反を起こした赤松家は没落・・・

しかし、応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱(5月20日参照>>)で西軍総大将となった宗全に対抗する東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の下で、満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)が功を挙げて(5月28日参照>>)、何とか復権を果たします

やがて約10年に渡った応仁の乱も、東西総大将の死を以て下火となり、彼らの後継者たち=細川政元(まさもと=勝元の息子)山名政豊(やまなまさとよ=宗全の息子か孫)らに和睦が結ばれた後、文明九年(1477年)11月に大内政弘(おおうちまさひろ)の帰郷(11月11日参照>>)によって幕を閉じました。

一方で、このまま終わらなかったのが山名VS赤松の戦い・・・

播磨や備前や美作などは政則にしてみれば、もともと赤松家の物だった領地ですが、政豊にとっては功績の恩賞に先代が貰った領地・・・本来ならば、そこを将軍家がシッカリ采配せねばならないところですが、もはや、取ったもん勝ちの戦国模様ですから、、、

なんだかんだで先の大出世で旧領を回復した赤松政則は、幕府の侍所(さむらいどころ=軍事&警察組織)にも任じられ、ライバルの山名政豊を肩を並べるようになりますが、回復したばかりの領地が気になる政則は、守護代浦上則宗(うらがみのりむね)京都に常駐させて、自らは領国にて領地経営に当たります。

この動きを心配した山名政豊は、文明九年(1477年)~翌・十年(1478年)にかけて、何度も京都と領国を行ったり来たり・・・文明十一年(1479年)の9月には、時の将軍=足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子・第9代)の静止を振り切って帰国して(9月4日参照>>)、赤松に通じた稲葉(いなば=鳥取県東部)での反乱を鎮圧せねばならない状況でした。

やがて文明十二年(1480年)12月12日の『大乗院寺社雑事記』には、
「山名軍が今年中には必ず播磨に攻め入るだろう」って、
あと半月しかないやろ!というツッコミはさておき、そこまで緊張した両者の関係だったわけですが、

そんなこんなの文明十五年(1483年)の夏頃・・・赤松配下で玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(まつだもとなり)が、政豊の息子=山名俊豊(としとよ)の勧誘を受けて山名へと寝返り、赤松派の福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)を包囲して攻撃を仕掛けて来たのです(12月13日参照>>)

これを受けた赤松政則は、「我が播磨に侵攻して来た」として、早速、幕府から松田元成討伐の許可を得ました。

ただし・・・許可は得たものの、主君=政則自身の福岡城救援を進言する浦上則宗をよそに、政則は、三石城(みついしじょう=岡山県備前市)浦上則国(うらがみのりくに)?もしくは赤松政秀(まさひで・龍野城主の赤松政秀とは同姓同名の別人)?を福岡城の救援に向かわせただけで、自身は、かつての領地であった但馬(たじま=兵庫県北部)朝来(あさご)を奪還目指して12月16日、1500余騎を率いて置塩城(おきしおじょう・おじおじょう=兵庫県姫路市)を出陣したのです。

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●真弓峠の戦いの進路図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『備前軍記』『備前文明乱記』等によれば・・・
赤松政則は、12月18日に粟賀(あわが=兵庫県神崎郡神河町・大賀)に着陣した後、さらに但馬(たじま=兵庫県北部)の国境に近い真弓峠(まゆみとうげ=兵庫県朝来市生野町)まで攻め寄せますが、すでに季節は冬・・・

見慣れた木々も真っ白な雪に覆われた銀世界だったため、どこが谷やら山やら見分けがつかず、とりあえずは日当たりの良い場所や風に当たらない場所を見つけて各所に陣を張って野営をしていた文明十五年(1483年)12月25日未明に、山名配下の但馬勢約2000余騎が赤松陣営を急襲したのだとか・・・

積雪のために身動きが取れなかった赤松勢は、この真弓峠にて、主だった武将34名を含む300余人が討死するという大敗を喫してしまったのです。

この悲報を本陣の粟賀にて受け取った赤松政則は、
「今、この戦いによって疲労困憊しているであろう但馬勢を、本隊にて直ちに攻撃すべき!」
と息巻きますが、
「この雪では平野部にて戦う方が勝算がある」
と側近たちに説得されて、やむなく諦め、姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)へと退却していきました。

しかも、この真弓峠の敗退の一報が、福岡城を救援していた赤松の部隊に届くと、彼らも一気に戦意喪失・・・やがて、その救援隊も次々に播磨へと退却して行ったため、年が明けて間もなくの1月上旬に、かの福岡城も陥落してしまいました(1月6日参照>>)

その後の事は、史料が少なく、よくわかっていないのですが、公家の日記等に、
「赤松政則が高野山に逃げた」
とか
「赤松政則は行方不明になってる」
とか書かれているようなので、おそらく、しばらくの間は山名勢の勢いが強く、赤松は風前の灯だった事がうかがえます。

しかも、上記の通り、今回の真弓峠の敗北と福岡城の陥落は、これまでず~っと政則を支えてきた老臣=浦上則宗の進言を聞き入れずに兵を両所に分散してしまった政則の判断ミスに拠るものとのイメージが家臣たちの間に蔓延し、主君への不信感から赤松家内も、一時は分裂してしまいます。

が、本来の敵は山名・・・何とか主従協力して敵に当たり、文明十七年(1485年)に再び真弓峠でぶつかった時には、見事山名に勝利し、やがて訪れた長享二年(1488年)4月の英賀坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)の戦いにて、赤松VS山名の最終決戦となるのですが、そのお話は2018年4月7日のページ>>にてどうぞm(_ _)m

…にしても、
応仁の乱以前に名門であった山名や赤松といった大大名たちが、このように争っている間に、今回では守護代だった浦上などが力をつけて行き(11月12日参照>>)、やがて、その浦上もが配下であった宇喜多直家(うきたなおいえ)に出し抜かれ(6月15日参照>>)、その宇喜多も毛利(もうり)織田(おだ)のハザマで蠢き・・・と、お馴染みの戦国絵図へと展開していく事になるわけで、物語は、まさに大河の如く~長く々々つながっていくのですよね~ヽ(´▽`)/
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2018年12月17日 (月)

大河ドラマ『西郷どん』~最終回を終えての感想

 

終わりましたね~
大河ドラマ『西郷どん』

9年前に『天地人』を見て「アレ?」っと思い、
『江 〜姫たちの戦国〜』を見て「ある意味スゴイ」と思い、
3年前の『花燃ゆ』「さすがにコレ以上は無いやろ」
と思っていたところ・・・
平成最後の年に、ゴッツイのんが出ちゃいました~

ネットの掲示板とか見てると、
「こんなに感動したドラマは初めて!」
とか
「一生モンのドラマです」
とか、おっしゃっている方もいらっしゃいますので、私ごときが、あまり酷な事を言うのもアレかな?とも思いますが、それこそ、感じ方、好みは人それぞれ・・・

なので今回は、あくまで、私個人的に思った感想などを吐露したいと思いますが・・・

・‥…━━━☆

とにもかくにも、ひと言で言うならば「回転ずし」のようなドラマでした~というのが感想です。

この脚本家さんは、おそらくは、家族の話を描きたかったんでしょうかね?

しかし、家族を描くには主人公が大物過ぎ&歴史の表舞台に関わり過ぎ・・・なので、家族の話をしているうちに、どんどん歴史通りに事が進んで行く感じ???

愛加那さんと奄美でイチャついてる間に安政の大獄が起こるし、家の屋根を修理している間に薩長同盟が進んで行くし、龍馬の嫁を連れて帰って来た夫にさんがヤキモチ焼いてる間に寺田屋は終わっちゃうし・・・

店長オススメの「家族エピソード」というネタを夢中で頬張ってる間に、どんどん歴史ネタの皿が回転して目の前を通り過ぎて行く~という感じ(←コレが「回転ずし」という意味です)

なのに、いつの間にか、その歴史ネタが「ウマく行った事は西郷さんのおかげ」って事になっていて、いつの間にか「西郷先生はスバラシイ」と皆が絶賛するようになってる・・・

一方、ウマく行かなかった、あるいは悪い方向に行った時は、必ずダークな面々のせい・・・前半は島津久光、中盤は幕府=徳川慶喜、後半は大久保利通

しかし、そんなダークな面々も、西郷どんと敵対しなくなった途端、カッコ良く描かれるようになるのも、このドラマのお約束のようですね。

とは言え、
オープニングの音楽と映像は良かったです~

けっこう長く大河ドラマ見てますが、歴代最高と言って良いくらい私好み・・・これまでで好きだったシルエットが美しい『独眼竜政宗』、CG兵士がぶつかり合う『天地人』、これらと並び立つステキさでした!

AメロとBメロが交差するオブリガートな感じと言い、奄美の民謡調になる所と言い・・・映像も、美しい鹿児島の山々に南国の海に子役ちゃんや俳優さんの映像が散りばめられていて・・・

そんなオープニングが、最終回にはドラマの最後の方に流れ、ドラマの名場面=回想映像が挟まれていて更に良かったです。

てゆーか、最終回はメッチャ良かったですよ~
失礼ながら、これまでの回転ずしは何だったのか?って思うほど・・・

また、最初の子役ちゃんが出てた頃も良かったですね。

できれば、その子役ちゃんが出ている頃に育んだ友情を中心に、かつ幼馴染の生き様も含めて、そこンところを丁寧に描いて欲しかったですね~私としては。

西郷さんと最後まで共にるす人と、途中で袂を分かつ人の、それぞれの思いや葛藤など名場面がいっぱいあるだろうに・・・

ところが、今回はなぜか、西郷どんと大久保さん以外の人が、誰が誰かわからないほどモブキャラになってしまっていました。

あっ!コレ、今回の『西郷どん』の掲示板等で知った言葉なんですが、「役名がわからない」ような「その他大勢」的な役どころの人を、最近は「モブキャラ」と呼ぶらしいです。

薩摩藩の人たち、新政府の要人たち、私学校の生徒たち・・・と、不肖私、一応毎週、マジメに見てたはずなんですが・・・なのに、誰が誰だかわからない・・・

せめて山県さんや江藤さんのような重要人物は、もう少し時間をかけて描いていただきたかった・・・はじめは桂さんの横にいて存在感があった伊藤博文さんも、いつのまにか周囲のモブキャラに呑み込まれて、最後はどこにいたのやら・・・

とにかく、そんな誰かわからない人たちが、何かと言うと大勢でわちゃわちゃと、大声出してモメまくる・・・そこに、西郷どんが登場し、涙ながらに「お互いを思い合い、皆で仲良くしよう」と懇願して収める~っていう学級会のような場面も何度かあったような~
(皆でウナギ取って収めた時もあった(゚ー゚;)

何をモメているのか?どうやって収めたのか?
が、くわしく描かれてないので、それが後々「西郷先生のおかげです」と言われても、あまりピンと来なかったです。
まぁ、私が理解できてないだけなんでしょうけど・・・

あっ、でも新政府で、ある意味、目立ってた人いましたね。
鶴瓶師匠・・・

もちろん、落語家としてタレントとしての鶴瓶師匠は嫌いじゃないです。
でも、なんで?岩倉具視が鶴瓶師匠だったんでしょう?

実際の西郷さんと岩倉さんは3歳しか違わないのに、なぜか主役の鈴木亮平さんとは親子ほどの年の差がある鶴瓶師匠・・・しかも、その鶴瓶師匠が完全にいつもの鶴瓶師匠で、いつもの大阪弁で話すのに、その 1人称が「マロ」という京言葉(ホントは公家言葉でしょうが)・・・

京言葉と大阪弁・・・「関西弁でくくったら同じやからえぇやん」とスタッフさんは思いはったんでしょうか?
奄美の方言は字幕スーパーまで出して徹底しはったのに、なぜなんでしょうね?不思議です。

不思議と言えば、ちょこちょこキャラクターの性格が変わるのも不思議でした。

主人公の西郷どんは、仏になったり鬼になったり、ホント忙しい・・・それまで「戦いはダメ」と言ってたワリには、いきなり、まわりがどう止めようが何しようが「クソ慶喜の首を取る」と息巻いて鳥羽伏見から戊辰戦争にまい進したのに(しかもドラマの中ではこの一連の戦いを自分と慶喜の私的な争いと言ってしまう)、戦いが終われば、戦死した人のお墓参りに勤しむ・・・
あるいは、前半には、渋る月照「僕が絶対にお守りします!キリッと言って半強制的に連れ出したのに旅の途中で自分だけ死のうとするとかって事もありました。

大久保さんは大久保さんで、自らが西郷暗殺の命令で出しておきながら、西郷どんが挙兵したと聞けば「なんでだ~~」とうろたえる・・・

「いや、君らがタネまいたんやから…」というツッコミ待ちなのでしょうか?よくワカラン展開になってましたね。

あと、気になったのはふきという人の役どころ・・・江戸にあった幕府公認の公娼は吉原だけですから、架空の人物とは言え、品川宿で働いていた彼女は「飯盛り女」という設定ですよね?

もちろん、当時は売春防止法は無いので、幕府公認でなくとも、堂々と商売してたんでしょうが、飯盛り女の彼女に外国の要人の接待の席で舞を披露させるとか・・・まるで吉原の花魁(おいらん)芸妓のように描くのはどうなんでしょう?時代考証として合ってるんでしょうか?
歴史好きとして気になります。

ドラマは創作物ですから、架空の人物が出ようが、少々史実から離れようがオモシロければ良いと思いますが、やはり「大河」という看板がある以上、時代考証は重要だと思います。

とか何とか言いながらも、「終わり良ければ、すべて良し」ということわざもある事ですし、最終回が良かったので、何となく1年間見ていて救われた感じがした、今回の『西郷どん』でした。

来年は、個人的には苦手な現代史・・・でも、期待してますヨ!NHK様

●幕末&維新の時代のお話はコチラ↓のリンクから見ていただけるとウレシイです。
 【幕末・維新の年表】>>
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2018年12月11日 (火)

賤ヶ岳の前哨戦~秀吉の長浜城攻防

 

天正十年(1582年)12月11日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が長浜城を囲みました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、天下目前にして本能寺に散った織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)・・・すでに家督を譲られていた嫡男(11月29日参照>>)織田信忠(のぶただ)も共に亡くなった事から、織田家の後継者は次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)かと思われましたが、6月27日に開かれた織田重臣たちによる清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)にて、亡き信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の織田秀信)後継者に、その後見人に信孝が就任する事に決定します(6月27日参照>>)

この時、織田家の筆頭家老だった柴田勝家(しばたかついえ)は三男の信孝を推していたものの、本能寺の変当時は北陸にて合戦中(6月3日参照>>)ですぐには戻れずにいて、その間に中国大返し(6月6日参照>>)の離れ業で舞い戻って信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市)で討った(6月13日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、その功績を笠に、自分の推す三法師をムリクリで後継者に決めた的な雰囲気で語られる事が多いですが、

このブログの清須会議のページで追記させていただいているように、最近では「これは至極真っ当な決定であった」という考え方がされるようになっています。

なんせ上記の通り、すでに次男の信雄は北畠家を、三男の信孝は神戸家を継いでおり、織田家の家督は信忠に譲られていたのですから、幼いとは言え、その嫡男が家を継ぐのは正当で、なんなら、その後見人に信孝を据えている所なんざ、むしろ秀吉が勝家に気を使った感ありなわけです。
(この清須会議は、あくまで織田家の後継者を決める会議で、「天下云々」または別の話ですので…)

なので、この時点では勝家と秀吉の間には何の懸念も危惧もなかったわけですが、ただ、この後の信孝の態度により、両者の間に亀裂が生じてしまうのです。

それは・・・
ご存知のように、山崎の合戦の後、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)が炎上する(6月15日参照>>)という出来事があったわけですが、そのために、安土城を修復する間、岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)を任されていた後見人の信孝が三法師を預かっていたのですが、その後、修復が完了したので安土に移すように(←これが会議で決まった事ですから)秀吉が求めても、いっこうに聞き入れないばかりか、叔母(信長の妹もしくは姪)であるお市(いち)の方と勝家の結婚を勝手に決めて連携を強化し、秀吉との敵対姿勢をあらわにして来たのです。

しかも一方の秀吉も、亡き信長の葬儀を京都で盛大に行う(10月15日参照>>)ものの、そこに信孝と勝家の姿はなく・・・とまぁ、誰もが感じ始める険悪なムード。

と、そんなこんなの11月2日、勝家は前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)の3人を秀吉のもとに派遣して和議に当たらせます。

と言っても、これは完全なる時間稼ぎ・・・北陸の冬は雪深く、この先、しばらくは身動き取れない状態になるだろうし、もし秀吉と渡り合う事になるのであれば、今のうちに各地の諸大名と連絡を取っておいて、来年の雪解けを待って行動を起こし、そこに、すでに連絡済みの諸大名との連プレーで・・・てな思惑があったわけです。

しかし、その思惑を秀吉はお見通し・・・とりあえずは和議OKの返事を口頭でしつつも、正式な書面での返答には
丹羽長秀(にわながひで)君や池田恒興(いけだつねおき)君とも相談してみんと…」
と言って応じなかったのです。

そして、その交渉から1ヶ月後の12月7日(9日とも)、秀吉は5万の大軍を率いて、江北(こうほく=滋賀県北部)に侵出しました。

先の池田恒興に、筒井順慶(つついじゅんけい)細川忠興(ほそかわただおき)らを率いて北上する道すがら、安土に点在する城々に兵を配置しつつ、天正十年(1582年)12月11日には、堀秀政(ほりひでまさ)佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)に入った秀吉は、すかさず、勝手知ったる長浜城を寸分のぬかりなく囲みます。

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長浜城・本丸跡と復元天守 

そもそも秀吉が、信長から最初に与えられた城が長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)だった事もあり、この辺の地理には精通している秀吉ですから・・・

この時の長浜は・・・
先の清須会議にて、秀吉が光秀の旧領であった丹波(たんば=京都府中東部)山城(やましろ=京都府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)を得た代わりに、勝家が、これまでの越前(えちぜん=福井県東部)北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)に加えて、新たに得たのが近江三郡とこの長浜城で、この時は、勝家の養子である柴田勝豊(かつとよ=実際には勝家の姉の子)が城主を務める、言わば柴田方の最前線の城でした。

こうして秀吉は、大軍で囲んだ、この長浜城に向けて、本領安堵等の条件を提示して降伏を呼びかけるのです。

もちろん、この冬場に越前からの援軍が望めない事も重々承知・・・しかも、どうやらこの勝豊は、勝家の養子でありながらも比較的冷遇されていたようで、勝家が甥の佐久間盛政(さくまもりまさ=勝家の姉もしくは妹の子)(5月12日参照>>)や、自分と同じ養子だけれど、もしかしたら実子かも知れない柴田勝政(かつまさ)らを厚遇する事に少々の不満を抱えていたとか・・・

その心理をうまく突いた秀吉が大谷吉継(おおたによしつぐ)を使って、
「なんなら越前一国の主として迎えても…」
「重臣たちも大名に取り立てる」

てな甘い言葉で誘ったのです。

長浜城内での話し合いの末、家老の意見を受け入れた勝豊は、17か条に及ぶ勝家への不満を列挙して絶縁を宣言し、
「不満のある者は越前に戻って勝家に仕えよ」
と固い決意をあらわにして、12月15日、秀吉方に降ったのでした。

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長浜城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

これを受けた秀吉は、長浜城を監視すべく、改修した横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市堀部町)蜂須賀家政(はちすかいえまさ)を置き、佐和山城には丹羽長秀を置いて、自らは、勝家と心をともにする信孝の岐阜城の攻撃へと向かい、この岐阜でのアレコレに続くように賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いへと突入していく事になります。
【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
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岐阜の乱と呼ばれるこの出来事については、一時的な和睦をする2022年12月29日ページ>>でご覧いただくとして、その後のおおまかな流れとしては、年が明けた
4月20日:【賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し】
4月21日:【賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】
4月23日:前田利家の戦線離脱】
4月24日:北ノ庄城・炎上前夜】
5月2日:【織田信孝の自刃】
をご覧いただければありがたいです。
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2018年12月 5日 (水)

家康の祖父・松平清康殺害「森山崩れ」と井田野の戦い

 

天文四年(1535年)12月5日、徳川家康の祖父である松平清康が殺害された森山崩れがありました。

・・・・・・・・・・・

松平清康(まつだいらきよやす)は、あの徳川家康(とくがわいえやす)のお祖父ちゃん・・・安祥(あんじょう=愛知県安城市)松平の2代目で松平宗家6代目だった父=松平信忠(のぶただ)が、隣国=駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)からの攻撃を受けて、うまく松平家内を統率できずにいたため、わずか13歳で家督を継ぎ、以後、祖父(つまり信忠の父)松平長親(ながちか)らの後見のもと、三河(みかわ=愛知県東部)統一に向けて走り始めます。

Matudairakiyoyasu700a 大永六年(1526年)に、これまで代々の居城であった安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市)から、2年前に奪った岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に拠点を移してからは、城下町を整備して、現在の岡崎につながる町の発展&基礎を築きつつ、三河の諸城を攻め取り、国内の国衆を服属させていきます。

この頃から、清和源氏(せいわげんじ)新田(にった)の一門である徳川の庶流=世良田(せらた)姓を名乗り始めたようで、これが後に家康が松平から徳川に改姓する(12月29日参照>>)根拠となっているのですが・・・

とにもかくにも、西に東に軍を進めて快進撃を果たした清康は、享禄二年(1529年)11月、念願の三河統一を果たしますが、もちろん、ここで終わりはしません。

翌・享禄三年(1530年)には隣国=尾張(おわり=愛知県西部)に出兵して諸戦を展開・・・そしていよいよ天文四年(1535年)12月に、当時は清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めたのです。

ところが、その陣中にあった天文四年(1535年)12月5日、突如、家臣の阿部正豊(あべまさとよ)によって、未だ25歳の若さで清康は斬殺されてしまうのです。

これは組織的な裏切りや謀反ではなく、正豊が、彼の父である阿部定吉(さだよし)が清康から謀反の疑いをかけられて誅殺されたとの間違った噂を信じ込んで勘違いのまま「父の仇討ち」を決行してしまった結果だったと言われています。

この事件は、その起こった場所をとって「森山崩れ(もりやまくずれ=守山崩れ)と呼ばれますが、この阿部定吉という人は清康に仕えていた忠臣で、上記の通りの「間違った噂」ですから、当然、定吉は死んでませんし、謀反の疑いもかけられてはいません。

むしろ息子の行動を知った定吉は、すぐさま現場に駆け付けて、自らの手で息子を成敗し、その責任をとって自身も切腹しようとしますが、周囲に諭されて思いとどまります。

Ieyasukeizu2 何といっても、清康の嫡男である松平広忠(ひろただ=つまり家康の父)に、
「今後は、その命かけて俺を盛り立ててくれ」
と言われた事が大きかった・・・

その約束通り、以後の定吉は、松平家の危うさに多くの家臣が離反しても決して広忠の側を離れず、叔父の松平信定(のぶさだ)松平信孝(のぶたか)兄弟が結託して岡崎城を占拠した時に(8月27日参照>>)、命からがら逃げだした亡命先でも苦楽をともにして助けました。

また、この時期に駿河の今川義元(いまがわよしもと)傘下となる事を広忠に進言したのも定吉だったとされます。

それは、結果的には、未だ幼き息子=家康に長きに渡る人質生活を送らせる(8月2日参照>>)事にはなりますが、1番危ういこの時期に、お家が潰れる事もなく、曲がりなりにも独立を保ちながら、後に義元の死をキッカケに再び岡崎に戻った家康が(5月12日参照>>)最終的に天下を取ることになるのも、この時の定吉の進言あればこそなわけです。

そんなこんなで閑話休題、
お話を「森山崩れ」の直後に戻しますが・・・

今回の清康の死を絶好のチャンスととらえたのが織田信秀・・・森山崩れから10日もしないうちに、兵を率いて三河に駒を進めて来たのです。。。。井田野(いだの・井田)の戦いです。

『三河物語』によれば、
「森山崩れシテ十日モ過ザルニ 小田(織田)之弾正之中(忠) 三河エ打出 大拾(樹)寺ニ旗ヲ立ル」
と間髪入れず攻め入って来た事が記されています。

この時、約8000の兵を率いてやってきた織田方に対し、迎え撃つ松平方は、わずかに800ほど・・・

これを受けた松平方では岡崎城を出て井田野(いだの=愛知県岡崎市鴨田町)に陣を張ります。

その陣を置いた場所で戦いに突入した両者でしたが、松平方にとっては主君を失ったばかりの最大のピンチですので、全員が殉死覚悟の戦い・・・しかし、一方の織田方は、10倍近く数が勝るぶん
「何やっても勝てるだろう」
と高をくくり、大した作戦もないまま
「思ひ思ひ心々に戦ひければ 必死の勢に追立られ…右往左往に逃走する」『改正三河後風土記』
と、しばらくは戦ったものの、あまりに強く攻め立てられたため、結局、そのまま退いていったようです(12月12日も参照>>)

こうして、なんとか岡崎城を守り、わずか10歳で父=清康の後を継いで松平家の当主となった広忠でしたが、彼もまた24歳という若さでこの世を去ります(3月6日参照>>)

生涯に渡って広忠をバックアップして来た阿部定吉も、ほぼ同じ頃に亡くなったとされますが、この時点で、松平家の後を継ぐべき家康は、今川に行くはずが、途中で奪われて敵の織田家の人質になってる(同じく8月2日参照>>)という危機的状態・・・

しかし、定吉の敷いたレールは、この時、家康とともにいた石川数正(いしかわかずまさ)酒井忠次(さかいただつぐ)にしっかりと引き継がれ、その後の家康&徳川家の隆盛へと繋がっていく事になるのですが、続きのお話となる安祥城の戦い11月6日のページでどうぞ>>m(_ _)m
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