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2019年1月10日 (木)

浅井久政の菖蒲嶽城の戦い~今井定清の将・島秀宣の勇姿

 

天文二十一年(1552年)1月10日、浅井久政今井定清の守る菖蒲嶽城を攻撃しました。

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鎌倉の時代より、宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)と、同じく佐々木氏の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)が南北の支配を固めていた近江の地でしたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)のさ中に起こった京極家内の後継者争い(8月7日参照>>)によって弱った主家に代わって、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)が力をつけていくのです。

その京極の様子を、同じ佐々木氏の流れを汲む者として快く思わない六角定頼(ろっかくさだより)が亮政と敵対・・・そこに、前管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)養子たちの間で勃発した後継者争い(2月13日参照>>)が絡んで、両者が戦う事になったのが享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)合戦(4月6日参照>>)でした。

Syoubudakezyounotatakai ●←菖蒲嶽城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この戦いは一応の六角勝利となりますが、かと言って浅井側にも、それほどのダメージは無く、その後も坂田郡(さかたぐん=現在の米原市付近)以南を六角氏が、以北を京極氏と事実上の実権を握った浅井がその勢力圏を維持していたので、両勢力の境界線あたりにある諸城に対して六角定頼は、浅井に従わう事をヨシとせず六角に流れて来た旧京極の家臣などを配置して警戒に当たらせていたのです。

そんな中、天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて、息子の浅井久政(ひさまさ)の時代となりますが、その頃には、先の管領家=細川の後継者争いも、すでに細川晴元(はるもと=政元の養子・澄元の子)がほぼ勝利を治めた状況となっていました。

その後、天文十六年(1547年)頃から・・・今度は、その晴元勝利に貢献した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と晴元が敵対した(9月14日参照>>)ため、定頼の娘が晴元に嫁いでいた縁で六角氏は度々、晴元の加勢として出兵する事になるのですが、

天文十八年(1549年)6月の江口の戦い(6月24日参照>>)は、三好勢の完全勝利となり、晴元は近江坂本へと身を潜める事に・・・

で、この度々の六角出陣の忙しさをチャンスと見た浅井久政は、天文十九年から二十年にかけて、今は六角氏に臣従している元京極氏だった諸将に誘いをかけ、寝返り工作に勤しむのです。

その寝返り工作をかけたうちの一人が、菖蒲嶽城(菖蒲岳城・しょうぶだけじょう=滋賀県彦根市)今井定清(いまいさだきよ)でした。

この今井氏は、近江の国人から京極家の重臣となった家柄でしたが、例の京極家のお家騒動の中の京極高清(きょうごくたかきよ)息子同士による争いで、はじめは次男を推す六角についていたものの、嫡男を推す浅井に合戦で負けたために浅井支持に回った事で六角の怒りをかって攻められ、当時、今井の当主であった今井秀俊(ひでとし)が自刃・・・

その時、未だ幼少だった秀俊の息子の定清が、その後、六角定頼の庇護のもとに成長した事から、この時、浅井との境界線となる菖蒲嶽城を、その盾となるべく任されていたのでした。

とは言え、コレって・・・
「六角定頼の庇護のもとに成長」←って事は、その間の生活は定清にとっては肩身の狭い生活だったのでは?っと想像してしまいます~(あくまで個人の憶測ですが)定清にとって六角定頼は父の仇なわけですから・・・

おそらくは、そんな境遇に置かれた戦国武将の誰もが夢見るように、彼もまた、独立=一国一城の主になる事を夢見ていたのでしょうか?

『嶋記録』によれば、この菖蒲嶽城は「この時期に定清自身が六角氏に願い出て築城した城」だとされ、それも、わずか2歳の息子を六角氏への人質として観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)へと送るという誠意を見せる事で、天文十三年(1544年)に、その築城を許されたの事。

とにもかくにも、そんなこんなの天文二十年(1551年)5月・・・浅井久政は、今井方の家臣=島秀宣(しまひでのぶ)を通じて浅井方に寝返るよう説得します。

もちろん今井定清は悩みます・・・上記の通り、可愛い息子を人質に出してますから・・・しかし、秀宣は、定清にとって宿将(しゅくしょう=経験に富んだ優れた武将)の中の宿将。。。定清は信頼する秀宣の進言を聞いて、浅井方につく事を決意するのです。

ところが、なぜか、そんな今井の動向が、浅井方には
「浅井の意向を受け入れず、今井は六角に味方するようだ」
と、間違って伝わってしまうのです。

かくして天文二十一年(1552年)1月10日、その誤報をマジに受け取った浅井久政は、突如出兵して菖蒲嶽城を攻めたのです。

予想していなかった攻撃を受けた菖蒲嶽城では、慌てて、島秀宣以下島一族が大手門で防戦する一方で、今井一族の井戸村清光(いどむらきよみつ)井戸村与三郎(よさぶろう)兄弟も、すぐさま救援に駆け付けて戦いますが、準備不足もあってか?苦戦を強いられ、与三郎は討死・・・清光も数か所の深手を負ってしまいます。

そんな中、どうしても、この浅井からの攻撃に納得いかない島秀宣・・・なんせ、大事な嫡子を危険にさらしてまで浅井の味方になったのですから・・・

そこで、やにわに前に進み出た秀宣は、浅井方に向かって大声で呼びかけます。

「この攻撃は、いかなる理由によるものか?」
と・・・

すると、当然、浅井方からは
「そちらが六角についたとの知らせを受けたので…」
との返答。

それを聞いた秀宣・・・
「それは誰かの讒言だと思う…もし、今井定清が六角に通じているのが事実ならば、俺はこの場で割腹して謝罪する!」
と強く言い放ちました。

堂々とした秀宣の姿に、その言葉を信じた浅井方が速やかに兵を退いていったので、両者ともに、かなりの犠牲者を出しはしたものの、戦いそのものは、すぐに収まってという事です。

とは言え、結局、その後に六角氏の威力に負けた浅井久政が、六角の傘下に入ってしまった事から、それに不満を持つ家臣と息子の浅井長政(ながまさ)が家内クーデターを決行したあげく、永禄三年(1560年)の野良田(のらだ=滋賀県彦根市)の戦いで、六角定頼の息子=六角義賢(よしかた=承禎 )に勝利して(8月18日参照>>)、浅井家が独立を果たすわけで・・・

つまり、主家である京極家をしのぐ勢いにまで浅井を押し上げた父=浅井亮政と、六角から独立してやがては北近江の覇権を手に入れる息子=浅井長政に挟まれるという展開で、何かと愚将扱いされるのが今回の浅井久政さん・・・

ただ、この時期の六角氏には勢いがあり、臣従しない=敵側に回っていたとすれば、そこで浅井は滅亡していた可能性もあるわけで・・・

「ヤバイ」と思ったら、おとなしく傘下に入って生き残りを図っておいて、その「時を待つ」というのも、戦国の一つの生き方かも知れませんので、一概に愚将とは言えないかも・・・ですね。
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