死ぬまで続いた信長と家康の清須同盟
永禄五年(1562年)1月15日、織田信長と徳川家康が清洲城にて会見し、『清洲同盟(きよすどうめい)』を締結させました。
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永禄三年(1560年)5月19日、海道一の弓取りと称され、この時点で最も天下に近いと思われていた駿河(するが=静岡県東部)&遠江(とおとうみ=静岡県西部)を支配する今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)の奇襲を受けて命を落とします・・・ご存知、桶狭間(おけはざま)の戦いです(2015年5月19日参照>>)。
この時、幼い頃に今川に人質に出されて(8月2日参照>>)、そのまま成長した事で、今川方の一人として義元の行軍に参加していた徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)は、守っていた今川兵が逃げ出してカラになっていた岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に入り、その後、念願の独立を果たします(2008年5月19日参照>>)。
岡崎城は、もともと享禄二年(1529年)に三河(みかわ=愛知県東部)を統一した松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)の居城でしたが(12月5日参照>>)、その後の家臣の離反等で亡命を余儀なくされた松平広忠(ひろただ=家康の父)が、強大な力を持つ今川義元に息子=家康を人質に出して傘下となった事で、事実上、今川の城となっていましたが、今回の主君義元=の死を受けて守備兵が逃げて空っぽになっていたので、そこに家康が入ったというワケです。
で、独立したからには「少しでも領地を増やしたい!」とばかりに、三河に在する今川傘下の勢力に敵対する家康ですが、父の死を受けて今川家を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)は、当然、この家康の態度に激おこなわけで・・・
そこで、東のアンチャンが怒ってるなら、西のアンチャンを味方にしておかねば!とばかりに、家康は、この独立の間もなくから、配下の石川数正(いしかわかずまさ)を信長のもとに派遣して同盟の模索に取り掛かります。
一方の信長も、義元を殺っちゃった以上、当然、今川は1番の敵になるわけですが、この時点では尾張統一さえ果たしていない駆け出しだし、どっちかと言うと、今、盛んにドンパチやってる(5月14日参照>>)北の隣国=美濃(みの=岐阜県部)の斎藤龍興(さいとうたつおき=斎藤道三の孫)との戦いに集注したいぶん、今川の領地と尾張の間に位置する三河の家康は味方につけておきたいわけで・・・で、コッチも、家康の母方の叔父で織田家と同盟を結んでいる水野信元(みずののぶもと)を派遣して家康との同盟交渉に当たらせました。
双方の殿様が同盟に前向きなワリには、正式な同盟締結まで、しばらくの歳月が流れたのには、やはり、これまでの両者の関係・・・上記の通り、これまでの家康は今川の傘下であり、信長の織田家は、その今川と敵対していたわけですから、配下の重臣たちがなかなか賛同せず、現に、桶狭間直後は、少なからずの小競り合いも、両者の間には勃発しています。
しかしながら、やがて、桶狭間から2年が過ぎた永禄五年(1562年)1月15日、家康が信長の居城である清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に赴いて、会見をし、顔と顔を突き合わせての正式な同盟が結ばれるのです。
よって、この同盟は、結ばれたその場所をとって一般的には『清洲同盟(きよすどうめい)』と呼ばれます。
(『織徳同盟(しょくとくどうめい)』あるいは『尾三同盟(びさんどうめい)』とも呼ばれます)
そして、この清洲同盟は、信長が本能寺にて倒れる天正十年(1582年)まで(2015年6月2日参照>>)、 1度も破綻する事無く20年の長きに渡って・・・というよりも、信長が亡くなったからこそウヤムヤになったのですから、言い方としては最後まで破棄される事なく(生きてる間は)継続されたままだった同盟という事になります。
個人的な印象ではありますが、意外に信長さんって(相手が家康だからに限らず)、相手が完全に敵に回らない限り、簡単に同盟を破棄しない人だったように思いますね~。
それに関連して、この同盟の力関係についても、個人的に思うところがあります。
一般的には、
「この同盟が20年の長きに渡って破られる事は無かった」
と言っても、それは
「信長の無理難題に対して、忍耐力のある家康が耐えに耐えていたからこそ」
という風に思われがち・・・つまり、同盟とは言え、信長の力が強く、家康とは主従関係に近かったのでは?と。。。
現に、ドラマや小説等には、そんな感じで描かれ、時には、家康が豊臣秀吉(とよとみひでよし=信長配下の時代は羽柴秀吉)や明智光秀(あけちみつひで)らと同等に並んでる風に、見ている側が錯覚してしまうように描かれる事すら、しばしばです。
しかし、秀吉と光秀は信長の家臣ですが、家康は同盟者・・・それも、私としては、上記のような主従に近い、あるいは人質を出しての臣従のような同盟ではなく、おそらくは同等の同盟者だったと思っています。
それを、信長と家康の間に上下関係があるように感じてしまう1番の要因は、例の家康が息子の信康(のぶやす)を自刃に追い込んだ事件(信康自刃は信長の命令だったとされる)ですが、以前から、このブログに書かせていただいているように、私としてははアレは徳川家の内部分裂だと考えております。
参照ページ↓
●信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫>>
●築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!>>
●なぜ家康は信康を殺さねばならなかったのか?>>
しかし、結果的に最大の汚点(=息子殺し)となるこの一件を、後世(江戸時代)の人たちが「神君と崇める家康公が行った事にはできない」と考え、悪く言えば「死人に口なし」で「信長の命令だった」事にしておきたかったのではないか?と・・・
もちろん、20年の間ずっと両者に上下関係がまったく無かったか?と言えば、それはそれで違う気もしますが、少なくとも、同盟を結んだ直後は同等であったと思います。
なんせ、上記の通り・・・同盟を結んだ時は家康は独立したばかりですが、信長だって未だ尾張すら統一ない状況でしたからね。
ただ、その後、この永禄五年(1562年)の11月に尾張統一を果たした(11月1日参照>>)信長は、永禄十年(1567年)8月に稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させて美濃を手に入れ(8月15日参照>>)、稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう)と改めて「天下布武(てんかふぶ)」のハンコを使いはじめ、翌永禄十一年(1568年)9月には、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)わけで・・・
とは言え、この上洛の寸前まで、かの義昭は「もっと大物はおらんのか?」と、自分を奉じて上洛してくれる武将を模索していた(10月4日参照>>)くらい、信長は、まだ大物途上の役者不足だったわけですが、この上洛の際に、近江(おうみ=滋賀県)の覇者であった六角承禎(じょうてい・義賢)を破り(9月12日参照>>)、第14代将軍の足利義栄(よしひで=義昭の従兄弟)を奉じて畿内を牛耳っていた三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)を破った(9月28日参照>>)事、また、敗れた三好三人衆とともに京都を去った義栄に代わって、信長が無事に連れて来た義昭が第15代将軍になった(10月18日参照>>)事で、信長は朝廷にも一目置かれる大出世となったわけで、ここらあたりでやっと信長と家康との力の差が明確になったように思います。
ただ、力の差はできても、同盟者として、その信頼関係が揺らぐ事は無かったんでしょうね。
なんせ、このすぐ後に始まる今川滅亡への道で、12月12日の薩埵峠(さつたとうげ)の戦い(12月12日参照>>)、翌日の今川館の攻防戦(12月13日参照>>)、そして12月27日から始まる掛川城攻防戦(12月27日参照>>)・・・と、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)との見事な連携プレーで、家康は今川を滅亡に追い込んでいます。
『浜松御在城記』によれば、この時、「大井川を境として、東の駿河は武田、西の遠江(とおとうみ=静岡県西部)は徳川クンが切り取ったらえぇ」と呼びかけて信玄と家康の仲を取り持ったのが信長と言われています。
つまり、信長にしてみれば「今川はお前(家康)に任したゾ」って事ですよね?
メッチャ信頼してますやん。
この後も、家康はあの姉川の戦い(6月28日参照>>)にも参戦し、共通の敵である武田にはタッグを組んで戦う事になる
【三方ヶ原の戦い】>>
【長篠の戦い】>>
【武田滅亡~天目山の戦い】>>
と来ますが・・・
有名な本能寺直前の、あの安土城(あつちじょう=滋賀県近江八幡市)での饗応の時にも、信長の方は自ら家康に酌をして「(臣下ではない)同盟者アピール」してますが、一方の家康は、この頃には、少し思う所があったかも知れません。
というのも、上記の武田の滅亡・・・確かに、武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)の本拠地=甲斐深く攻め込んで引導を渡したのは信長ですが、長篠から滅亡までの7年間、家康はかなり頑張って遠江に点在する武田の城を奪っています(8月24日参照>>)。
しかし、武田滅亡後の論功行賞(3月24日参照>>)では、他の信長の家臣たちとともに、家康が「信長から駿河を賜る」という感じに受け取れます。
(まぁ、同じ独立大名の木曾義昌(きそよしまさ)も、同様に信濃木曽谷2郡を賜ってるので、それが普通だったのかも知れませんが)
しかも、その直後、岐阜へと戻る信長の接待役も(4月4日参照>>)・・・(ま、これも、その心の内は何とも言えませんが…)
ただ、本能寺後の家康の素早さを見る限り、やはり、この同盟関係・・・信長は何とも思って無かったかも知れませんが、家康の方には腹に一物あったかも感が匂いますね。
もちろん、力の差が歴然として「同盟関係が上下関係になってて腹立つ!」てな、子供じみた思いではなく、「チャンスが来たら、その時は同盟もクソも無いゾ!」的な、戦国武将らしい一物です。
なんせ、この本能寺の後、決死の伊賀越え(2007年6月2日参照>>)で三河に戻った家康は、3か月後に行われた清須会議(6月23日参照>>)をよそに、完全に甲斐を取りに行ってる感あります。
【河尻秀隆の死】>>
【天正壬午の乱】>>
もちろん、この家康の行動は、あくまで「信長が本能寺で亡くなったからこそ」の行動で、もし本能寺の変が無かったら、もっと長く同盟関係は続いていたのではないか?と思いますが・・・
ちなみに、
一説には、本能寺の変の原因は
「武田が滅亡した事で家康との同盟が不要になった信長が、家康を暗殺しようと企んだのを、光秀がそれを逆手に取って、家康と組んで信長を討った」
なんて話もありますが、以前も書かせていただいたように、私としては、その可能性は、かなり低いと考えております。
なんせ上記の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)を見る限り、武田滅亡の後に信長横死となれば、その旧領を上杉と北条が間髪入れず取りに来てますから。
当然ですが、それは「機会あらばすぐにでも攻め入ってやる」という気持ちが上杉や北条にもあったわけで・・・
本能寺の当時、西の毛利を攻め、四国への出兵準備をしていた信長にとって、そのまま順調に行ったなら、背後の彼ら(上杉&北条)側=東の盾となってくれるであろう家康の存在は大切なはず・・・あの信長が上杉と北条の脅威を察知していないなんて事は考え難いですからね。
(まぁ実際には信長が死んでるので家康もそこに参戦したわけですが…)
て事は、ひょっとしたら、天正壬午の三つ巴は、生前の約束通り、織田の物となった旧武田の領地を、家康が上杉と北条から守ろうとした?という事も考えられなくも無いですが、先の河尻秀隆(かわじりひでたか)死亡の件や乱を収める和睦の条件が「双方切り取り次第」なとこなんかを見ても、やっぱ取りに行ってる感が拭えません。
まぁ、お互い戦略に長けた戦国武将ですから、また別の展開があって、何等かのチャンス的な物が訪れたならわかりませんが、少なくとも、信長と家康にとってお互いの利害が一致している間は、まだまだこの同盟は続いていたはずだと考えております。
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コメント
本能寺の数年後には織田氏は勢力が小さくなりましたが、江戸時代になったら織田氏は高家になった系統もあるので、島津氏や伊達氏の様に外様の大藩ではなくなりましたが、関ヶ原で勢力が縮小した毛利氏や上杉氏とも違い、一定の存在感・家格は維持できたと見てもいいのかも?
「江戸時代以降の織田氏」に関しての書籍(小説含む)は何かありますか?
来年の大河ドラマで信長と家康を演じる俳優は誰でしょうかね?近く決まる見込みです。
大河ドラマは「西郷どん」以降は撮影開始が早いので、主要配役第1次発表は月内にも決まりそうです。
投稿: えびすこ | 2019年1月17日 (木) 10時33分
えびすこさん、こんにちは~
>「江戸時代以降の織田氏」に関しての書籍(小説含む)は何かありますか?
う~ん(^-^;
どうでしょうね~
もともと私は小説はまったく読まないし、作家さんの書籍もここんとこ読んでないので、よくわかりません。ゴメンナサイ
近頃はもっぱら古文書の類をあさってますww
奈良県宇陀市の歴史なんか調べてみるのも良いかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2019年1月17日 (木) 18時25分