美作三浦氏~尼子&毛利との高田城攻防戦の日々
天正三年(1575年)1月22日、浦上宗景に背いた宇喜多直家が三浦貞広との戦いに参戦しました。
今回は中国地方における群雄割拠の時代のお話・・・なので、敵が味方に、味方が敵に~と非常にややこしいですが、お許しを。。。m(_ _)m
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美作(みまさか=岡山県東北部・作州)の高田城(たかだじょう=岡山県真庭市・勝山城とも)を治める美作三浦(みうら)氏は、あの源平の合戦で活躍する坂東平氏の三浦氏の庶流で、室町時代の初め頃に、この地の領主となった三浦貞宗(みうらさだむね)なる人物が高田城を構築したとされますが、そのあたりの事は記録が乏しく、よくわかっていません。
この戦国の頃には三浦貞久(みうらさだひさ)が当主を務め、小さいながらも高田城にて当地を治めていましたが、一方で、出雲(いずも=島根県東部)の守護代から、応仁の乱後のゴタゴタでのし上がり、実力で出雲の支配権を握って、さらに領地拡大に勤しむ月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)の尼子(あまご)氏(7月10日参照>>)から度々の侵攻を受けていたのです。
当時の尼子の当主は尼子晴久(あまごはるひさ)・・・天文十三年(1544年)には、伯耆(ほうき=島根県中部)&因幡(いなば=島根県東部)を攻略した晴久が、さらに美作へと侵攻し、配下の宇山久信(うやまひさのぶ)に高田城を攻めさせましたが、この時は貞久の見事な反撃によって、城を守り抜きました。
しかし天文十七年(1548年)、その貞久が病死してしまいます。
これをチャンスと見た尼子晴久が、間髪入れずに再び宇山久信を美作へ派遣し、三浦の支城を次々と攻略して高田城へと迫ります。
残念ながら、この時は多くの死者を出す激戦の末、高田城は陥落・・・父=貞久の後を継いでいた次男の三浦貞勝(さだかつ)は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の浦上宗景(うらがみむねかげ)を頼って落ちて行きました。
もちろん、このままでは収まらない三浦貞勝は、永禄二年(1559年)、旧臣たちを集めて再起を図ります。
そう・・・それは、去る弘治元年(1555年)の厳島(いつくしま)の戦い(10月1日参照>>)後に、西国の雄=周防(すおう=山口県東南部)の大内(おおうち)氏を滅亡させて頭角を現して来た安芸(あき=広島県)吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市)を拠点とする毛利元就(もうりもとなり)が、その矛先を尼子氏に向けた、その間を縫っての奪回作戦の決行でした。
しばらくの安寧に油断していた宇山久信に対し、ヤル気満々の三浦勢は増水した川に馬ごと乗り入れての決死の猛攻・・・「分が悪い」と判断した宇山久信が、まともな戦いを避けて高田城から撤退した事で、三浦貞勝はなんなく入城を果たせました。
しかし、安心はできません・・・そう、暮れ行く尼子に代わって上り調子の毛利が、高田城に手を出して来たのです。
すでに永禄二年(1559年)の時点で毛利の傘下となっていた成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)は、美作に侵攻した永禄八年(1565年)、高田城への攻撃を開始・・・1ヶ月に渡る攻防戦の末に高田城は落城し、三浦貞勝も、城を脱出したものの、逃走中に自刃して果てました。
城主のいなくなった高田城には、毛利配下の武将=牛尾久盛(うしおひさもり)が入り、城は毛利の物となったのです。
ところが、その翌年の永禄九年(1566年)、かの三村家親が浦上配下の宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺され、その混乱に乗じた三浦勢は、先代=三浦貞久の末弟にあたる三浦貞盛(さだもり)を大将に押し立てて高田城を奪回します。
とは言え、もちろん、この状況を毛利元就が許すはずもなく、ほどなく、配下の杉原盛重(すぎはらもりしげ)を投入して高田城奪回に動きます。
この時、ちょうど三浦方では、城主=貞盛の甥にあたる三浦貞広(さだひろ=貞久の長男)が主力部隊を率いて備中(びっちゅう=岡山県西部)に出陣中であったため高田城の守りは手薄・・・少ない城兵で何とか抵抗するも、力尽きた貞盛は 永禄十一年(1568年)2月19日に自刃し、またもや高田城は毛利の手に落ちました。
しかし、またまた立ち上がる三浦勢・・・実は、上記の高田城攻防戦の真っただ中の永禄九年(1566年)、あの尼子氏が居城の月山富田城を開城し(11月28日参照>>)、当主の尼子義久(よしひさ=晴久の息子)とその弟たちが毛利の手で幽閉の身となった事で、事実上の滅亡状態となっていたのですが、尼子家臣の山中幸盛(ゆきもり=鹿介)が、尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を当主と仰ぎ、月山富田城奪回&尼子再興を目指し、毛利相手に各地を転戦し始めていたのです(7月17日参照>>)。
永禄十二年(1569年)になって、その尼子再興軍が美作にやって来た時、三浦の遺臣たちは、この尼子再興軍に同調し、そのドサクサで高田城を奪回しようと蜂起・・・その年の7月に、同じように尼子に与する宇喜多直家らの援助を受けて、約4000となった三浦勢が高田城を囲みます。
一方、この時の高田城を守るのは、毛利から派遣されていた香川光景(かがわみつかげ)父子ら約500騎・・・7月に始まった戦闘が、ますます激しくなって来た10月頃には、高田城内にいた旧尼子家臣の内応もあり、いち時は窮地に立たされる毛利勢でしたが、光景父子の奮戦により何とか敵勢の城内への侵入を防いでいました。
やがて年が明けた元亀元年(1570年)、ここに来ても小競り合いが続いていましたが、宇喜多勢が備中への出陣のため高田城の包囲から退去・・・ここで備前からの援軍が去ってしまった三浦遺臣勢は、かの山中幸盛に援助を依頼し、その尼子再興軍の力を借りて、元亀元年(1570年)の10月、何とか高田城を奪回して亡き貞盛の甥=三浦貞広を城主としました。
ようやく居城を取り戻して一安心・・・と行きたいところですが、当然、毛利からの攻撃の危険は常にあるわけで・・・
元亀二年(1571年)には御大=元就を失う毛利ですが、ご存知のように、その後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと=元就の息子・隆元の子)を、毛利の両川と呼ばれた元就の息子たち(つまり輝元の叔父)=吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)が見事サポートして、高田城への攻撃に手を緩める事はありません。
しかも、ここに来て、あの宇喜多直家が主家の浦上からの独立を画策して毛利との講和を成立させます。
となると、三浦への援軍どころか、敵対関係になってしまったわけで・・・
そんな中、毛利は、天正元年(1573年)から徐々に版図を広げて高田城周辺へと迫り、翌・天正二年(1574年)には宮山城(みややまじょう=岡山県真庭市)を攻め立てます。
しかも、この翌年の天正三年(1575年)1月22日、ここに浦上に背く宇喜多直家が参戦して来たのです。
美作三浦氏をめぐる位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
この頃、久世(くせ=同真庭市)から駆け付けた寺畑城(てらはたじょう)城主で三浦家臣の牧菅兵衛(まきかんべえ)が、得意の夜襲で以って、宇喜多配下の伊賀久隆(いがひさたか=直家の妹婿)の守る槇山城(まきやまじょう=同真庭市・真木山城とも)を奪い取り、何とか要地を守ったと言いますが、それでも毛利勢の侵攻は止まらず・・・やがて、その寺畑城も猛攻を受け、いつしか、三浦の傘下となっている諸城がことごとく攻撃される状況に至って、天正四年(1576年)5月、ついに三浦貞広は降伏し、高田城は毛利軍の手に渡りました。
降伏宣言によって貞広の命こそ助かったものの、事実上の滅亡となった美作三浦氏は、配下の牧氏とともに、これ以降は宇喜多の配下として生きていく事に・・・
また、ほぼ同時進行で行われていた備中兵乱(びっちゅうひょうらん)で毛利に敵対していた三村元親(もとちか=家親の息子)が(6月2日参照>>)、天神山城の戦いで浦上宗景が敗れた事により、勝利した毛利は、この中国地方において、もはや敵無しの状態になったわけです。
そこに、遥か東からやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)(10月23日参照>>)・・・
そして、毛利に遺恨を持つ浦上や尼子残党の山中幸盛・・・果ては宇喜多直家までが、やがては織田傘下になる一方で、毛利は信長と敵対する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を援助する(7月13日参照>>)・・・という時代劇でお馴染みの場面へと展開していきます。
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