三木×広瀬×牛丸×江馬~戦国飛騨の生き残り作戦
天正十一年(1583年)1月27日、三木&広瀬の連合軍が、牛丸親綱の小鷹利城を攻撃しました。
・・・・・・・・・・
飛騨(ひだ=岐阜県北部)大野(おおの=岐阜県北西部)郡を本領とし、小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)を居城とする牛丸(うしまる)氏は、一説に平氏の流れを汲むとする古くからの名族でしたが、隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)郡を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)の江馬(えま)氏も、同じく平氏の流れを汲む名門で、これまで両者の間には少なからずのぶつかりがありました。
さらに室町時代頃になると、そこに、京極(きょうごく)氏の一族で益田(ました=岐阜県中東部)郡に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)氏、飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)の高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)氏も台頭して来ます。
やがて、室町幕府の力が衰え始めた戦国の世になると、上杉謙信(うえすぎけんしん)の越後(えちご=新潟県)と、武田信玄(たけだしんげん)の甲斐(かい=山梨県)、という大物の地に挟まれた形となる飛騨一帯の武将は、常に、この大物たちの動向に左右されつつ、この戦国の世を生き抜いていく事になります。
そんな中、飛騨南部に勢力を伸ばし始めた三木氏の三木自綱(みつきよりつな)は、南北朝時代から飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)家の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)を果たして上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)に近づいて信長の奥さん=濃(のう)姫の妹を娶って親族となり、その力を借りて飛騨統一せんが勢いを見せ始めます。
ただ、天正四年(1576年)に、それを脅威に感じた大野郡の国人=塩屋秋貞(しおやあきさだ)の要請によって駆け付けた上杉謙信に攻められ、頼綱は降伏して(8月4日参照>>)、その傘下となるのですが、ご存知のように、その後、ほどなくして謙信が亡くなり(3月13日参照>>)、上杉家は後継者争いで飛騨云々言ってる場合じゃなくなってしまう(3月17日参照>>)わけで・・・
その後、天正六年(1578年)の月岡野(富山市上栄周辺)の戦い(10月4日参照>>)にも信長側親族として参戦して上杉に勝利し、ますます勢いづく頼綱は、新たに松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を構築(築城年数には諸説あり)して、そこに拠点を移します。
この頼綱の行動に脅威を感じたのが、先の高堂城から広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)に拠点を移していた広瀬氏の広瀬宗域(ひろせむねくに)でした。
頼綱と宗域は、かつてはともに天神山城(てんじんやまじょう=岐阜県高山市八軒町・現在の高山城)の高山外記(こうやまげき)を倒す等、連合を組んでいた時もありましたが、一方で織田に近づく頼綱に対して、宗域は信玄によしみを通じて敵意を見せた事もあり・・・
しかし、ご存知の通り、大黒柱の信玄を失った(4月16日参照>>)武田は、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦い(5月21日参照>>)で織田&徳川家康(とくがわいえやす)連合軍に敗れるなど、ここに来て少々分が悪い・・・
そこで宗域は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで一方の脅威を取り除き、その一方で、これまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)の小鷹利城を攻め、牛丸氏の名跡を奪おうと考えます。
天正八年(1580年)10月、家臣の磯村(いそむら)長十郎らに200の兵をつけて小鷹利城へと差し向けました。
迎える牛丸側も一族を中心にした200余名の兵を出陣させ、両者は古川(ふるかわ=岐阜県飛驒市古川町)付近でぶつかり合戦に至りましたが、なかなかに両者の戦力は互角・・・小競り合いがあるものの決着がつかなかった事から、翌天正九年(1581年)になって和平の話が進み、両者ともに兵を撤退させて、広瀬×牛丸は和睦の運びとなりました。
こうしてしばらくの平穏がおとずれますが、ここに来て時代の転換期が・・・
そう、翌天正十年(1582年)3月には、あの武田が滅び(3月11日参照>>)、その3ヶ月後の6月には、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)・・・と、戦国の勢力図が目まぐるしく変わります。
このゴタゴタを見逃さなかったのが姉小路頼綱と広瀬宗域、そして牛丸親綱も・・・
この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。
それは、本能寺から約5ヶ月後の10月下旬・・・飛騨での覇権争いであった事から、後に「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦いですが、戦いの詳細については【八日町の戦い】のページ>>で見ていただくとして・・・とにもかくにも、この戦いで江馬輝盛は討死し、江馬氏は滅亡します。
●↑戦国飛騨周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
ところが、一方で、この頃から、その威勢に衰えが見え始めた牛丸氏・・・これをチャンスと見た姉小路頼綱と広瀬宗域は、天正十一年(1583年)1月27日、再び連合を組み、大軍を擁して小鷹利城を攻めたのです。
懇意にしていた両者に裏切られた牛丸親綱・・・特に広瀬宗域はわずかな間の2度めの裏切り。。。
なんとも悔しい思いが残る親綱でしたが、不意を突かれた事で城内は完全に準備不足・・・「このまま戦っても勝ち目はない」と踏んだ親綱は、その夜、城内のあちこちにかがり火を焚かせて、さも大勢がスタンバイしているように見せかけておいて、そのスキに、主だった者60余人が城を抜け出し、越中(えっちゅう=富山県)目指して逃走を図ったのです。
これを知った広瀬&三木連合軍は、すぐさま追跡を開始し、角川(つのかわ=岐阜県飛騨市河合町)付近で激しい戦いとなりました。
牛丸側は24名を失うものの、親綱以下30余名が逃げ切り、何とか越中にたどり着いたものの、富山城(とやまじょう=富山県富山市)の佐々成政(さっさなりまさ)に断られ、さらに西へ・・・当時、越前(えちぜん=福井県東部)大野城(おおのじょう=福井県大野市)主であった金森長近(かなもりながちか)の下に逃げ込み、何とか生き延びました。
しかし、その翌年・・・酒宴と称して、広瀬宗域を自らの松倉城に招いた姉小路頼綱は、その宴の席で宗域を騙し討ちにし、広瀬城を奪い取ってしまうのです。
何とか難を逃れた宗域の嫡子=広瀬宗直(むねなお)は・・・そう、彼もまた越前の金森長近のもとへと逃げ込んだのです。
こうして、飛騨でひとり勝ちとなり、飛騨統一を果たした姉小路頼綱は、織田軍の旧北陸方面部隊であった柴田勝家(しばたかついえ)や、かの佐々成政と懇意な間柄になるわけですが、
天正十三年(1585年)、そこに乗り込んで来るのが、その柴田勝家を倒した後(4月21日参照>>)の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)です(8月29日参照>>)。
この時に飛騨攻略を任されたのが金森長近(8月10日参照>>)・・・長近のもとで逃げ延びた牛丸親綱&広瀬宗直の部隊が、その恨み晴らすべく先頭となって戦い、大きな功績を挙げた事は言うまでもありません。
結局、佐々成政も姉小路頼綱も、秀吉の前に屈する事となり、飛騨国は金森長近が統治する事となったのです。
ちなみに、その後の牛丸親綱&広瀬宗直・・・
広瀬宗直は、金森長近の領国運営に反発して一揆を先導して追放されたようですが、牛丸親綱は、ずっと長近の配下として戦い、あの関ヶ原の前哨戦=郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)の戦い(9月1日参照>>)でも、やはり先頭に立って戦い、戦場の露と消えたのだとか・・・
にしても、今日のお話は、
メッチャ出演者が多かった(^-^;・・・まさに群雄割拠。。。生きるも死ぬも紙一重の世界です。
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 武田信玄の伊那侵攻~高遠頼継との宮川の戦い(2024.09.25)
- 宇都宮尚綱VS那須高資~喜連川五月女坂の戦い(2024.09.17)
- 朝倉宗滴、最後の戦い~加賀一向一揆・大聖寺城の戦い(2024.07.23)
- 織田信長と清須の変~織田信友の下剋上(2024.07.12)
- 斎藤妙純VS石丸利光の船田合戦~正法寺の戦い(2024.06.19)
コメント