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2019年1月27日 (日)

三木×広瀬×牛丸×江馬~戦国飛騨の生き残り作戦

 

天正十一年(1583年)1月27日、三木&広瀬の連合軍が、牛丸親綱小鷹利城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・

飛騨(ひだ=岐阜県北部)大野(おおの=岐阜県北西部)を本領とし、小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)を居城とする牛丸(うしまる)は、一説に平氏の流れを汲むとする古くからの名族でしたが、隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)江馬(えま)も、同じく平氏の流れを汲む名門で、これまで両者の間には少なからずのぶつかりがありました。

さらに室町時代頃になると、そこに、京極(きょうごく)の一族で益田(ました=岐阜県中東部)に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)、飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)も台頭して来ます。

やがて、室町幕府の力が衰え始めた戦国の世になると、上杉謙信(うえすぎけんしん)越後(えちご=新潟県)と、武田信玄(たけだしんげん)甲斐(かい=山梨県)、という大物の地に挟まれた形となる飛騨一帯の武将は、常に、この大物たちの動向に左右されつつ、この戦国の世を生き抜いていく事になります。

そんな中、飛騨南部に勢力を伸ばし始めた三木氏の三木自綱(みつきよりつな)は、南北朝時代から飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)を果たして上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に近づいて信長の奥さん=(のう)の妹を娶って親族となり、その力を借りて飛騨統一せんが勢いを見せ始めます。

ただ、天正四年(1576年)に、それを脅威に感じた大野郡の国人=塩屋秋貞(しおやあきさだ)の要請によって駆け付けた上杉謙信に攻められ、頼綱は降伏して(8月4日参照>>)、その傘下となるのですが、ご存知のように、その後、ほどなくして謙信が亡くなり(3月13日参照>>)、上杉家は後継者争いで飛騨云々言ってる場合じゃなくなってしまう(3月17日参照>>)わけで・・・

その後、天正六年(1578年)の月岡野(富山市上栄周辺)の戦い(10月4日参照>>)にも信長側親族として参戦して上杉に勝利し、ますます勢いづく頼綱は、新たに松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を構築(築城年数には諸説あり)して、そこに拠点を移します。

この頼綱の行動に脅威を感じたのが、先の高堂城から広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)に拠点を移していた広瀬氏の広瀬宗域(ひろせむねくに)でした。

頼綱と宗域は、かつてはともに天神山城(てんじんやまじょう=岐阜県高山市八軒町・現在の高山城)高山外記(こうやまげき)を倒す等、連合を組んでいた時もありましたが、一方で織田に近づく頼綱に対して、宗域は信玄によしみを通じて敵意を見せた事もあり・・・

しかし、ご存知の通り、大黒柱の信玄を失った(4月16日参照>>)武田は、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦い(5月21日参照>>)で織田&徳川家康(とくがわいえやす)連合軍に敗れるなど、ここに来て少々分が悪い・・・

そこで宗域は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで一方の脅威を取り除き、その一方で、これまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)小鷹利城を攻め、牛丸氏の名跡を奪おうと考えます。

天正八年(1580年)10月、家臣の磯村(いそむら)長十郎らに200の兵をつけて小鷹利城へと差し向けました。

迎える牛丸側も一族を中心にした200余名の兵を出陣させ、両者は古川(ふるかわ=岐阜県飛驒市古川町)付近でぶつかり合戦に至りましたが、なかなかに両者の戦力は互角・・・小競り合いがあるものの決着がつかなかった事から、翌天正九年(1581年)になって和平の話が進み、両者ともに兵を撤退させて、広瀬×牛丸は和睦の運びとなりました。

こうしてしばらくの平穏がおとずれますが、ここに来て時代の転換期が・・・

そう、翌天正十年(1582年)3月には、あの武田が滅び(3月11日参照>>)、その3ヶ月後の6月には、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)・・・と、戦国の勢力図が目まぐるしく変わります。

このゴタゴタを見逃さなかったのが姉小路頼綱と広瀬宗域、そして牛丸親綱も・・・

この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。

それは、本能寺から約5ヶ月後の10月下旬・・・飛騨での覇権争いであった事から、後に「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦いですが、戦いの詳細については【八日町の戦い】のページ>>で見ていただくとして・・・とにもかくにも、この戦いで江馬輝盛は討死し、江馬氏は滅亡します。

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●↑戦国飛騨周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところが、一方で、この頃から、その威勢に衰えが見え始めた牛丸氏・・・これをチャンスと見た姉小路頼綱と広瀬宗域は、天正十一年(1583年)1月27日、再び連合を組み、大軍を擁して小鷹利城を攻めたのです。

懇意にしていた両者に裏切られた牛丸親綱・・・特に広瀬宗域はわずかな間の2度めの裏切り。。。

なんとも悔しい思いが残る親綱でしたが、不意を突かれた事で城内は完全に準備不足・・・「このまま戦っても勝ち目はない」と踏んだ親綱は、その夜、城内のあちこちにかがり火を焚かせて、さも大勢がスタンバイしているように見せかけておいて、そのスキに、主だった者60余人が城を抜け出し越中(えっちゅう=富山県)目指して逃走を図ったのです。

これを知った広瀬&三木連合軍は、すぐさま追跡を開始し、角川(つのかわ=岐阜県飛騨市河合町)付近で激しい戦いとなりました。

牛丸側は24名を失うものの、親綱以下30余名が逃げ切り、何とか越中にたどり着いたものの、富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)断られ、さらに西へ・・・当時、越前(えちぜん=福井県東部)大野城(おおのじょう=福井県大野市)主であった金森長近(かなもりながちか)の下に逃げ込み、何とか生き延びました。

しかし、その翌年・・・酒宴と称して、広瀬宗域を自らの松倉城に招いた姉小路頼綱は、その宴の席で宗域を騙し討ちにし、広瀬城を奪い取ってしまうのです。

何とか難を逃れた宗域の嫡子=広瀬宗直(むねなお)は・・・そう、彼もまた越前の金森長近のもとへと逃げ込んだのです。

こうして、飛騨でひとり勝ちとなり、飛騨統一を果たした姉小路頼綱は、織田軍の旧北陸方面部隊であった柴田勝家(しばたかついえ)や、かの佐々成政と懇意な間柄になるわけですが、

天正十三年(1585年)、そこに乗り込んで来るのが、その柴田勝家を倒した後(4月21日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)です(8月29日参照>>)

この時に飛騨攻略を任されたのが金森長近(8月10日参照>>)・・・長近のもとで逃げ延びた牛丸親綱&広瀬宗直の部隊が、その恨み晴らすべく先頭となって戦い、大きな功績を挙げた事は言うまでもありません。

結局、佐々成政も姉小路頼綱も、秀吉の前に屈する事となり、飛騨国は金森長近が統治する事となったのです。

ちなみに、その後の牛丸親綱&広瀬宗直・・・

広瀬宗直は、金森長近の領国運営に反発して一揆を先導して追放されたようですが、牛丸親綱は、ずっと長近の配下として戦い、あの関ヶ原の前哨戦=郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)の戦い(9月1日参照>>)でも、やはり先頭に立って戦い、戦場の露と消えたのだとか・・・

にしても、今日のお話は、
メッチャ出演者が多かった(^-^;・・・まさに群雄割拠。。。生きるも死ぬも紙一重の世界です。
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2019年1月22日 (火)

美作三浦氏~尼子&毛利との高田城攻防戦の日々

 

天正三年(1575年)1月22日、浦上宗景に背いた宇喜多直家が三浦貞広との戦いに参戦しました。

今回は中国地方における群雄割拠の時代のお話・・・なので、敵が味方に、味方が敵に~と非常にややこしいですが、お許しを。。。m(_ _)m

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美作(みまさか=岡山県東北部・作州)高田城(たかだじょう=岡山県真庭市・勝山城とも)を治める美作三浦(みうら)は、あの源平の合戦で活躍する坂東平氏の三浦氏の庶流で、室町時代の初め頃に、この地の領主となった三浦貞宗(みうらさだむね)なる人物が高田城を構築したとされますが、そのあたりの事は記録が乏しく、よくわかっていません。

この戦国の頃には三浦貞久(みうらさだひさ)が当主を務め、小さいながらも高田城にて当地を治めていましたが、一方で、出雲(いずも=島根県東部)守護代から、応仁の乱後のゴタゴタでのし上がり、実力で出雲の支配権を握って、さらに領地拡大に勤しむ月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)尼子(あまご)(7月10日参照>>)から度々の侵攻を受けていたのです。

当時の尼子の当主は尼子晴久(あまごはるひさ)・・・天文十三年(1544年)には、伯耆(ほうき=島根県中部)因幡(いなば=島根県東部)を攻略した晴久が、さらに美作へと侵攻し、配下の宇山久信(うやまひさのぶ)に高田城を攻めさせましたが、この時は貞久の見事な反撃によって、城を守り抜きました。

しかし天文十七年(1548年)、その貞久が病死してしまいます。

これをチャンスと見た尼子晴久が、間髪入れずに再び宇山久信を美作へ派遣し、三浦の支城を次々と攻略して高田城へと迫ります。

残念ながら、この時は多くの死者を出す激戦の末、高田城は陥落・・・父=貞久の後を継いでいた次男の三浦貞勝(さだかつ)備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)を頼って落ちて行きました。

もちろん、このままでは収まらない三浦貞勝は、永禄二年(1559年)、旧臣たちを集めて再起を図ります。

Mourimotonari600 そう・・・それは、去る弘治元年(1555年)の厳島(いつくしま)の戦い(10月1日参照>>)後に、西国の雄=周防(すおう=山口県東南部)大内(おおうち)を滅亡させて頭角を現して来た安芸(あき=広島県)吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市)を拠点とする毛利元就(もうりもとなり)が、その矛先を尼子氏に向けた、その間を縫っての奪回作戦の決行でした。

しばらくの安寧に油断していた宇山久信に対し、ヤル気満々の三浦勢は増水した川に馬ごと乗り入れての決死の猛攻・・・「分が悪い」と判断した宇山久信が、まともな戦いを避けて高田城から撤退した事で、三浦貞勝はなんなく入城を果たせました。

しかし、安心はできません・・・そう、暮れ行く尼子に代わって上り調子の毛利が、高田城に手を出して来たのです。

すでに永禄二年(1559年)の時点で毛利の傘下となっていた成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)は、美作に侵攻した永禄八年(1565年)、高田城への攻撃を開始・・・1ヶ月に渡る攻防戦の末に高田城は落城し、三浦貞勝も、城を脱出したものの、逃走中に自刃して果てました。

城主のいなくなった高田城には、毛利配下の武将=牛尾久盛(うしおひさもり)が入り、城は毛利の物となったのです。

ところが、その翌年の永禄九年(1566年)、かの三村家親が浦上配下の宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺され、その混乱に乗じた三浦勢は、先代=三浦貞久の末弟にあたる三浦貞盛(さだもり)を大将に押し立てて高田城を奪回します。

とは言え、もちろん、この状況を毛利元就が許すはずもなく、ほどなく、配下の杉原盛重(すぎはらもりしげ)を投入して高田城奪回に動きます。

この時、ちょうど三浦方では、城主=貞盛の甥にあたる三浦貞広(さだひろ=貞久の長男)が主力部隊を率いて備中(びっちゅう=岡山県西部)に出陣中であったため高田城の守りは手薄・・・少ない城兵で何とか抵抗するも、力尽きた貞盛は 永禄十一年(1568年)2月19日に自刃し、またもや高田城は毛利の手に落ちました。

Yamanakasikanosuke500 しかし、またまた立ち上がる三浦勢・・・実は、上記の高田城攻防戦の真っただ中の永禄九年(1566年)、あの尼子氏が居城の月山富田城を開城し(11月28日参照>>)、当主の尼子義久(よしひさ=晴久の息子)とその弟たちが毛利の手で幽閉の身となった事で、事実上の滅亡状態となっていたのですが、尼子家臣の山中幸盛(ゆきもり=鹿介)が、尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を当主と仰ぎ、月山富田城奪回&尼子再興を目指し、毛利相手に各地を転戦し始めていたのです(7月17日参照>>)

永禄十二年(1569年)になって、その尼子再興軍が美作にやって来た時、三浦の遺臣たちは、この尼子再興軍に同調し、そのドサクサで高田城を奪回しようと蜂起・・・その年の7月に、同じように尼子に与する宇喜多直家らの援助を受けて、約4000となった三浦勢が高田城を囲みます。

一方、この時の高田城を守るのは、毛利から派遣されていた香川光景(かがわみつかげ)父子ら約500騎・・・7月に始まった戦闘が、ますます激しくなって来た10月頃には、高田城内にいた旧尼子家臣の内応もあり、いち時は窮地に立たされる毛利勢でしたが、光景父子の奮戦により何とか敵勢の城内への侵入を防いでいました。

やがて年が明けた元亀元年(1570年)、ここに来ても小競り合いが続いていましたが、宇喜多勢が備中への出陣のため高田城の包囲から退去・・・ここで備前からの援軍が去ってしまった三浦遺臣勢は、かの山中幸盛に援助を依頼し、その尼子再興軍の力を借りて、元亀元年(1570年)の10月、何とか高田城を奪回して亡き貞盛の甥=三浦貞広を城主としました。

ようやく居城を取り戻して一安心・・・と行きたいところですが、当然、毛利からの攻撃の危険は常にあるわけで・・・

元亀二年(1571年)には御大=元就を失う毛利ですが、ご存知のように、その後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと=元就の息子・隆元の子)を、毛利の両川と呼ばれた元就の息子たち(つまり輝元の叔父)吉川元春(きっかわもとはる)小早川隆景(こばやかわたかかげ)が見事サポートして、高田城への攻撃に手を緩める事はありません。

しかも、ここに来て、あの宇喜多直家が主家の浦上からの独立を画策して毛利との講和を成立させます。

となると、三浦への援軍どころか、敵対関係になってしまったわけで・・・

そんな中、毛利は、天正元年(1573年)から徐々に版図を広げて高田城周辺へと迫り、翌・天正二年(1574年)には宮山城(みややまじょう=岡山県真庭市)を攻め立てます。

しかも、この翌年の天正三年(1575年)1月22日、ここに浦上に背く宇喜多直家が参戦して来たのです。

Mimasakamiurasi
美作三浦氏をめぐる位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この頃、久世(くせ=同真庭市)から駆け付けた寺畑城(てらはたじょう)城主で三浦家臣の牧菅兵衛(まきかんべえ)が、得意の夜襲で以って、宇喜多配下の伊賀久隆(いがひさたか=直家の妹婿)の守る槇山城(まきやまじょう=同真庭市・真木山城とも)を奪い取り、何とか要地を守ったと言いますが、それでも毛利勢の侵攻は止まらず・・・やがて、その寺畑城も猛攻を受け、いつしか、三浦の傘下となっている諸城がことごとく攻撃される状況に至って、天正四年(1576年)5月、ついに三浦貞広は降伏し、高田城は毛利軍の手に渡りました。

降伏宣言によって貞広の命こそ助かったものの、事実上の滅亡となった美作三浦氏は、配下の牧氏とともに、これ以降は宇喜多の配下として生きていく事に・・・

また、ほぼ同時進行で行われていた備中兵乱(びっちゅうひょうらん)で毛利に敵対していた三村元親(もとちか=家親の息子)(6月2日参照>>)、天神山城の戦いで浦上宗景が敗れた事により、勝利した毛利は、この中国地方において、もはや敵無しの状態になったわけです。

そこに、遥か東からやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)(10月23日参照>>)・・・

そして、毛利に遺恨を持つ浦上や尼子残党の山中幸盛・・・果ては宇喜多直家までが、やがては織田傘下になる一方で、毛利は信長と敵対する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を援助する(7月13日参照>>)・・・という時代劇でお馴染みの場面へと展開していきます。
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2019年1月15日 (火)

死ぬまで続いた信長と家康の清須同盟

 

永禄五年(1562年)1月15日、織田信長と徳川家康が清洲城にて会見し、『清洲同盟(きよすどうめい)を締結させました。

・・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)5月19日、海道一の弓取りと称され、この時点で最も天下に近いと思われていた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を支配する今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)奇襲を受けて命を落とします・・・ご存知、桶狭間(おけはざま)の戦いです(2015年5月19日参照>>)

Tokugawaieyasu600 この時、幼い頃に今川に人質に出されて(8月2日参照>>)、そのまま成長した事で、今川方の一人として義元の行軍に参加していた徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)は、守っていた今川兵が逃げ出してカラになっていた岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に入り、その後、念願の独立を果たします(2008年5月19日参照>>)

岡崎城は、もともと享禄二年(1529年)に三河(みかわ=愛知県東部)を統一した松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)の居城でしたが(12月5日参照>>)、その後の家臣の離反等で亡命を余儀なくされた松平広忠(ひろただ=家康の父)が、強大な力を持つ今川義元に息子=家康を人質に出して傘下となった事で、事実上、今川の城となっていましたが、今回の主君義元=の死を受けて守備兵が逃げて空っぽになっていたので、そこに家康が入ったというワケです。

で、独立したからには「少しでも領地を増やしたい!」とばかりに、三河に在する今川傘下の勢力に敵対する家康ですが、父の死を受けて今川家を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)は、当然、この家康の態度に激おこなわけで・・・

そこで、東のアンチャンが怒ってるなら、西のアンチャンを味方にしておかねば!とばかりに、家康は、この独立の間もなくから、配下の石川数正(いしかわかずまさ)を信長のもとに派遣して同盟の模索に取り掛かります。

Odanobunaga400a 一方の信長も、義元を殺っちゃった以上、当然、今川は1番の敵になるわけですが、この時点では尾張統一さえ果たしていない駆け出しだし、どっちかと言うと、今、盛んにドンパチやってる(5月14日参照>>)北の隣国=美濃(みの=岐阜県部)斎藤龍興(さいとうたつおき=斎藤道三の孫)との戦いに集注したいぶん、今川の領地と尾張の間に位置する三河の家康は味方につけておきたいわけで・・・で、コッチも、家康の母方の叔父で織田家と同盟を結んでいる水野信元(みずののぶもと)を派遣して家康との同盟交渉に当たらせました。

双方の殿様が同盟に前向きなワリには、正式な同盟締結まで、しばらくの歳月が流れたのには、やはり、これまでの両者の関係・・・上記の通り、これまでの家康は今川の傘下であり、信長の織田家は、その今川と敵対していたわけですから、配下の重臣たちがなかなか賛同せず、現に、桶狭間直後は、少なからずの小競り合いも、両者の間には勃発しています。

しかしながら、やがて、桶狭間から2年が過ぎた永禄五年(1562年)1月15日、家康が信長の居城である清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に赴いて、会見をし、顔と顔を突き合わせての正式な同盟が結ばれるのです。

よって、この同盟は、結ばれたその場所をとって一般的には『清洲同盟(きよすどうめい)と呼ばれます。
『織徳同盟(しょくとくどうめい)あるいは『尾三同盟(びさんどうめい)とも呼ばれます)

そして、この清洲同盟は、信長が本能寺にて倒れる天正十年(1582年)まで(2015年6月2日参照>>)、 1度も破綻する事無く20年の長きに渡って・・・というよりも、信長が亡くなったからこそウヤムヤになったのですから、言い方としては最後まで破棄される事なく(生きてる間は)継続されたままだった同盟という事になります。

個人的な印象ではありますが、意外に信長さんって(相手が家康だからに限らず)、相手が完全に敵に回らない限り、簡単に同盟を破棄しない人だったように思いますね~。

それに関連して、この同盟の力関係についても、個人的に思うところがあります。

一般的には、
「この同盟が20年の長きに渡って破られる事は無かった」
と言っても、それは
「信長の無理難題に対して、忍耐力のある家康が耐えに耐えていたからこそ」
という風に思われがち・・・つまり、同盟とは言え、信長の力が強く、家康とは主従関係に近かったのでは?と。。。

現に、ドラマや小説等には、そんな感じで描かれ、時には、家康が豊臣秀吉(とよとみひでよし=信長配下の時代は羽柴秀吉)明智光秀(あけちみつひで)らと同等に並んでる風に、見ている側が錯覚してしまうように描かれる事すら、しばしばです。

しかし、秀吉と光秀は信長の家臣ですが、家康は同盟者・・・それも、私としては、上記のような主従に近い、あるいは人質を出しての臣従のような同盟ではなく、おそらくは同等の同盟者だったと思っています。

それを、信長と家康の間に上下関係があるように感じてしまう1番の要因は、例の家康が息子の信康(のぶやす)を自刃に追い込んだ事件(信康自刃は信長の命令だったとされる)ですが、以前から、このブログに書かせていただいているように、私としてははアレは徳川家の内部分裂だと考えております。
参照ページ↓
●信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫>>
●築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!>>
●なぜ家康は信康を殺さねばならなかったのか?>>

しかし、結果的に最大の汚点(=息子殺し)となるこの一件を、後世(江戸時代)の人たちが「神君と崇める家康公が行った事にはできない」と考え、悪く言えば「死人に口なし」で「信長の命令だった」事にしておきたかったのではないか?と・・・

もちろん、20年の間ずっと両者に上下関係がまったく無かったか?と言えば、それはそれで違う気もしますが、少なくとも、同盟を結んだ直後は同等であったと思います。

なんせ、上記の通り・・・同盟を結んだ時は家康は独立したばかりですが、信長だって未だ尾張すら統一ない状況でしたからね。

ただ、その後、この永禄五年(1562年)の11月に尾張統一を果たした(11月1日参照>>)信長は、永禄十年(1567年)8月に稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させて美濃を手に入れ(8月15日参照>>)、稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう)と改めて「天下布武(てんかふぶ)」のハンコを使いはじめ、翌永禄十一年(1568年)9月には、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)わけで・・・

とは言え、この上洛の寸前まで、かの義昭は「もっと大物はおらんのか?」と、自分を奉じて上洛してくれる武将を模索していた(10月4日参照>>)くらい、信長は、まだ大物途上の役者不足だったわけですが、この上洛の際に、近江(おうみ=滋賀県)の覇者であった六角承禎(じょうてい・義賢)を破り(9月12日参照>>)、第14代将軍の足利義栄(よしひで=義昭の従兄弟)を奉じて畿内を牛耳っていた三好三人衆三好長逸・三好政康・石成友通)を破った(9月28日参照>>)事、また、敗れた三好三人衆とともに京都を去った義栄に代わって、信長が無事に連れて来た義昭が第15代将軍になった(10月18日参照>>)事で、信長は朝廷にも一目置かれる大出世となったわけで、ここらあたりでやっと信長と家康との力の差が明確になったように思います。

ただ、力の差はできても、同盟者として、その信頼関係が揺らぐ事は無かったんでしょうね。

なんせ、このすぐ後に始まる今川滅亡への道で、12月12日の薩埵峠(さつたとうげ)の戦い(12月12日参照>>)、翌日の今川館の攻防戦(12月13日参照>>)、そして12月27日から始まる掛川城攻防戦(12月27日参照>>)・・・と、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との見事な連携プレーで、家康は今川を滅亡に追い込んでいます。

『浜松御在城記』によれば、この時、「大井川を境として、東の駿河は武田、西の遠江(とおとうみ=静岡県西部)は徳川クンが切り取ったらえぇ」と呼びかけて信玄と家康の仲を取り持ったのが信長と言われています。

つまり、信長にしてみれば「今川はお前(家康)に任したゾ」って事ですよね?
メッチャ信頼してますやん。

この後も、家康はあの姉川の戦い(6月28日参照>>)にも参戦し、共通の敵である武田にはタッグを組んで戦う事になる
【三方ヶ原の戦い】>>
【長篠の戦い】>>
【武田滅亡~天目山の戦い】>>
と来ますが・・・

有名な本能寺直前の、あの安土城(あつちじょう=滋賀県近江八幡市)での饗応の時にも、信長の方は自ら家康に酌をして(臣下ではない)同盟者アピール」してますが、一方の家康は、この頃には、少し思う所があったかも知れません。

というのも、上記の武田の滅亡・・・確かに、武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)の本拠地=甲斐深く攻め込んで引導を渡したのは信長ですが、長篠から滅亡までの7年間、家康はかなり頑張って遠江に点在する武田の城を奪っています(8月24日参照>>)

しかし、武田滅亡後の論功行賞(3月24日参照>>)では、他の信長の家臣たちとともに、家康が「信長から駿河を賜る」という感じに受け取れます。
(まぁ、同じ独立大名の木曾義昌(きそよしまさ)も、同様に信濃木曽谷2郡を賜ってるので、それが普通だったのかも知れませんが)

しかも、その直後、岐阜へと戻る信長の接待役(4月4日参照>>)・・・(ま、これも、その心の内は何とも言えませんが…)

ただ、本能寺後の家康の素早さを見る限り、やはり、この同盟関係・・・信長は何とも思って無かったかも知れませんが、家康の方には腹に一物あったかも感が匂いますね。

もちろん、力の差が歴然として「同盟関係が上下関係になってて腹立つ!」てな、子供じみた思いではなく、「チャンスが来たら、その時は同盟もクソも無いゾ!」的な、戦国武将らしい一物です。

なんせ、この本能寺の後、決死の伊賀越え(2007年6月2日参照>>)で三河に戻った家康は、3か月後に行われた清須会議(6月23日参照>>)をよそに、完全に甲斐を取りに行ってる感あります。
【河尻秀隆の死】>>
【天正壬午の乱】>>

もちろん、この家康の行動は、あくまで「信長が本能寺で亡くなったからこそ」の行動で、もし本能寺の変が無かったら、もっと長く同盟関係は続いていたのではないか?と思いますが・・・

ちなみに、
一説には、本能寺の変の原因は
「武田が滅亡した事で家康との同盟が不要になった信長が、家康を暗殺しようと企んだのを、光秀がそれを逆手に取って、家康と組んで信長を討った」
なんて話もありますが、以前も書かせていただいたように、私としては、その可能性は、かなり低いと考えております。

なんせ上記の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)を見る限り、武田滅亡の後に信長横死となれば、その旧領を上杉と北条が間髪入れず取りに来てますから。

当然ですが、それは「機会あらばすぐにでも攻め入ってやる」という気持ちが上杉や北条にもあったわけで・・・
本能寺の当時、西の毛利を攻め、四国への出兵準備をしていた信長にとって、そのまま順調に行ったなら、背後の彼ら(上杉&北条)東の盾となってくれるであろう家康の存在は大切なはず・・・あの信長が上杉と北条の脅威を察知していないなんて事は考え難いですからね。
(まぁ実際には信長が死んでるので家康もそこに参戦したわけですが…)

て事は、ひょっとしたら、天正壬午の三つ巴は、生前の約束通り、織田の物となった旧武田の領地を、家康が上杉と北条から守ろうとした?という事も考えられなくも無いですが、先の河尻秀隆(かわじりひでたか)死亡の件や乱を収める和睦の条件が「双方切り取り次第」なとこなんかを見ても、やっぱ取りに行ってる感が拭えません。

まぁ、お互い戦略に長けた戦国武将ですから、また別の展開があって、何等かのチャンス的な物が訪れたならわかりませんが、少なくとも、信長と家康にとってお互いの利害が一致している間は、まだまだこの同盟は続いていたはずだと考えております。
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2019年1月10日 (木)

浅井久政の菖蒲嶽城の戦い~今井定清の将・島秀宣の勇姿

 

天文二十一年(1552年)1月10日、浅井久政今井定清の守る菖蒲嶽城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・・

鎌倉の時代より、宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)と、同じく佐々木氏の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)が南北の支配を固めていた近江の地でしたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)のさ中に起こった京極家内の後継者争い(8月7日参照>>)によって弱った主家に代わって、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)が力をつけていくのです。

その京極の様子を、同じ佐々木氏の流れを汲む者として快く思わない六角定頼(ろっかくさだより)が亮政と敵対・・・そこに、前管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)養子たちの間で勃発した後継者争い(2月13日参照>>)が絡んで、両者が戦う事になったのが享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)合戦(4月6日参照>>)でした。

Syoubudakezyounotatakai ●←菖蒲嶽城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この戦いは一応の六角勝利となりますが、かと言って浅井側にも、それほどのダメージは無く、その後も坂田郡(さかたぐん=現在の米原市付近)以南を六角氏が、以北を京極氏と事実上の実権を握った浅井がその勢力圏を維持していたので、両勢力の境界線あたりにある諸城に対して六角定頼は、浅井に従わう事をヨシとせず六角に流れて来た旧京極の家臣などを配置して警戒に当たらせていたのです。

そんな中、天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて、息子の浅井久政(ひさまさ)の時代となりますが、その頃には、先の管領家=細川の後継者争いも、すでに細川晴元(はるもと=政元の養子・澄元の子)がほぼ勝利を治めた状況となっていました。

その後、天文十六年(1547年)頃から・・・今度は、その晴元勝利に貢献した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と晴元が敵対した(9月14日参照>>)ため、定頼の娘が晴元に嫁いでいた縁で六角氏は度々、晴元の加勢として出兵する事になるのですが、

天文十八年(1549年)6月の江口の戦い(6月24日参照>>)は、三好勢の完全勝利となり、晴元は近江坂本へと身を潜める事に・・・

で、この度々の六角出陣の忙しさをチャンスと見た浅井久政は、天文十九年から二十年にかけて、今は六角氏に臣従している元京極氏だった諸将に誘いをかけ、寝返り工作に勤しむのです。

その寝返り工作をかけたうちの一人が、菖蒲嶽城(菖蒲岳城・しょうぶだけじょう=滋賀県彦根市)今井定清(いまいさだきよ)でした。

この今井氏は、近江の国人から京極家の重臣となった家柄でしたが、例の京極家のお家騒動の中の京極高清(きょうごくたかきよ)息子同士による争いで、はじめは次男を推す六角についていたものの、嫡男を推す浅井に合戦で負けたために浅井支持に回った事で六角の怒りをかって攻められ、当時、今井の当主であった今井秀俊(ひでとし)が自刃・・・

その時、未だ幼少だった秀俊の息子の定清が、その後、六角定頼の庇護のもとに成長した事から、この時、浅井との境界線となる菖蒲嶽城を、その盾となるべく任されていたのでした。

とは言え、コレって・・・
「六角定頼の庇護のもとに成長」←って事は、その間の生活は定清にとっては肩身の狭い生活だったのでは?っと想像してしまいます~(あくまで個人の憶測ですが)定清にとって六角定頼は父の仇なわけですから・・・

おそらくは、そんな境遇に置かれた戦国武将の誰もが夢見るように、彼もまた、独立=一国一城の主になる事を夢見ていたのでしょうか?

『嶋記録』によれば、この菖蒲嶽城は「この時期に定清自身が六角氏に願い出て築城した城」だとされ、それも、わずか2歳の息子を六角氏への人質として観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)へと送るという誠意を見せる事で、天文十三年(1544年)に、その築城を許されたの事。

とにもかくにも、そんなこんなの天文二十年(1551年)5月・・・浅井久政は、今井方の家臣=島秀宣(しまひでのぶ)を通じて浅井方に寝返るよう説得します。

もちろん今井定清は悩みます・・・上記の通り、可愛い息子を人質に出してますから・・・しかし、秀宣は、定清にとって宿将(しゅくしょう=経験に富んだ優れた武将)の中の宿将。。。定清は信頼する秀宣の進言を聞いて、浅井方につく事を決意するのです。

ところが、なぜか、そんな今井の動向が、浅井方には
「浅井の意向を受け入れず、今井は六角に味方するようだ」
と、間違って伝わってしまうのです。

かくして天文二十一年(1552年)1月10日、その誤報をマジに受け取った浅井久政は、突如出兵して菖蒲嶽城を攻めたのです。

予想していなかった攻撃を受けた菖蒲嶽城では、慌てて、島秀宣以下島一族が大手門で防戦する一方で、今井一族の井戸村清光(いどむらきよみつ)井戸村与三郎(よさぶろう)兄弟も、すぐさま救援に駆け付けて戦いますが、準備不足もあってか?苦戦を強いられ、与三郎は討死・・・清光も数か所の深手を負ってしまいます。

そんな中、どうしても、この浅井からの攻撃に納得いかない島秀宣・・・なんせ、大事な嫡子を危険にさらしてまで浅井の味方になったのですから・・・

そこで、やにわに前に進み出た秀宣は、浅井方に向かって大声で呼びかけます。

「この攻撃は、いかなる理由によるものか?」
と・・・

すると、当然、浅井方からは
「そちらが六角についたとの知らせを受けたので…」
との返答。

それを聞いた秀宣・・・
「それは誰かの讒言だと思う…もし、今井定清が六角に通じているのが事実ならば、俺はこの場で割腹して謝罪する!」
と強く言い放ちました。

堂々とした秀宣の姿に、その言葉を信じた浅井方が速やかに兵を退いていったので、両者ともに、かなりの犠牲者を出しはしたものの、戦いそのものは、すぐに収まってという事です。

とは言え、結局、その後に六角氏の威力に負けた浅井久政が、六角の傘下に入ってしまった事から、それに不満を持つ家臣と息子の浅井長政(ながまさ)が家内クーデターを決行したあげく、永禄三年(1560年)の野良田(のらだ=滋賀県彦根市)の戦いで、六角定頼の息子=六角義賢(よしかた=承禎 )に勝利して(8月18日参照>>)、浅井家が独立を果たすわけで・・・

つまり、主家である京極家をしのぐ勢いにまで浅井を押し上げた父=浅井亮政と、六角から独立してやがては北近江の覇権を手に入れる息子=浅井長政に挟まれるという展開で、何かと愚将扱いされるのが今回の浅井久政さん・・・

ただ、この時期の六角氏には勢いがあり、臣従しない=敵側に回っていたとすれば、そこで浅井は滅亡していた可能性もあるわけで・・・

「ヤバイ」と思ったら、おとなしく傘下に入って生き残りを図っておいて、その「時を待つ」というのも、戦国の一つの生き方かも知れませんので、一概に愚将とは言えないかも・・・ですね。
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2019年1月 5日 (土)

信長上洛後…本圀寺の変と桂川の戦い

 

永禄十二年(1569年)1月5日、三好三人衆足利義昭の仮御所を襲撃した本圀寺の変と、それに関連する桂川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)し、自分たちの意のままになる14代将軍=足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)を擁立して畿内を牛耳る三好三人衆三好長逸三好政康石成友通らに対して、幕臣の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに救い出されて(7月28日参照>>)難を逃れた義輝の弟=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)は、亡き兄に代わって将軍の座を奪回すべく、当時身を寄せていた朝倉(あさくら)の家臣であった明智光秀(あけちみつひで)を通じて岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)織田信長(おだのぶなが)に接触(10月4日参照>>)・・・

Odanobunaga400a この義昭の意を受けた信長が上洛を開始したのは永禄十一年(1568年)9月7日の事でした(9月7日参照>>)

行く手を阻む南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義賢)を蹴散らし(9月12日参照>>)、三好三人衆らの富田・芥川・越水・高屋etcの城に一挙に攻撃を仕掛けた事で、押された三人衆は義栄を奉じて阿波(あわ=徳島県)へと逃れました

ちなみに、すでに、この時点で三人衆と決別していた三好家嫡流を継ぐ三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)と三好家重臣の松永久秀(まつながひさひで)は、ここで信長の傘下となっており、義継は若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を安堵、久秀は「大和(やまと=奈良県)一国切り取り次第」の許しを得ています(11月16日参照>>)

Asikagayosiaki600 その後、信長は京都に禁制を布き、事実上の支配を固めて義昭を迎え入れて、永禄十一年(1568年)10月18日、朝廷からの将軍宣下を受けた義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)すると、大体の戦後処理を終えた信長は、一旦岐阜へと戻りました。

一方、信長を見送った義昭は、とりあえずは六条の本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を仮御所として住んでいましたが、今回の信長の岐阜帰還をチャンスと見たのが、阿波へと退いた三好三人衆・・・

永禄十二年(1569年)正月元日・・・三好三人衆は、かつて信長に稲葉山城=現岐阜城を攻め落とされた(8月15日参照>>)」斎藤龍興(さいとうたつおき)などの美濃(みの=岐阜県)の浪人衆を誘い、薬師寺九郎左衛門(やくしじくろうざえもん)を先鋒の大将として本圀寺の仮御所を取り囲み、門前の家々を焼き払って寺内へ攻め込もうとします。

もちろん本圀寺も、数は劣るとは言え将軍の側近く配下の精鋭部隊が、その身を挺して防戦に当たります。

そこには、前義輝の時代から側近=細川藤賢(ふじかた)に、あの明智光秀もいました。

そんな中、先頭に立つ若狭衆の山県盛信(やまがたもりのぶ)宇野弥七(うのやしち)は、薬師寺勢の旗本衆に喰らいつき、多くの敵を斬って捨てながらの見事な討死を遂げます。

なおも続く敵を、幕府勢が斬っては追いながら、矢で射抜き・・・と、攻め手の三好勢はなかなかの苦戦を強いられ、とても御所内へ攻め込む事はできませんでした。

そんな小競り合いが数日続いた頃、「信長方についた三好義継や細川藤孝らの援軍が、軍勢を率いて、攻撃側の背後を攻めに来る」という情報が現地に飛び交った事で、薬師寺九郎左衛門は攻撃の手を緩め、永禄十二年(1569年)1月5日、包囲を解いて撤退を開始したのでした。

実は、この同じ日・・・実際に、三好義継や細川藤孝、さらに荒木村重(あらきむらしげ)池田勝正(いけだかつまさ)らを加えた面々が本圀寺の救援に向かっていたのです。

そんな彼らは、桂川方面(京都市西京区桂付近)にて三好三人衆の部隊とぶつかります。

早速、池田隊が敵と激突・・・三好方の高安権頭(たかやすごんのかみ)岩成勘助(いわなりかんすけ)など、名のある武将を次々と討ち取って敵勢を突破して、更に突き進んだのです。

5日に始まった戦いは、翌6日に終結しましたが、上記の通り、この桂川の戦いの頃には、すでに本圀寺の三好方の兵は撤退していましたから、当然、彼らが駆け付けずとも仮御所は無事だったわけですが・・・

この京都での異変を、同じ6日の日に岐阜で聞いた信長は、義昭を救援すべく、配下の者に、すぐに出立の命令を出しますが、この日はあいにくの大雪・・・それでも、「たとえ自分一人でも駆けつける!」との意気込みで、アタフタと揉める輸送隊や人夫を後目に、即座に岐阜を出立する信長・・・

本来なら3日かかるところを2日で駆け抜けた強行突破には、さすがの軍勢も追いつかず、信長が京都に着いた時には、従う者はわずか10騎だったとか・・・

しかし、ここで配下の者たちの働きによって義昭と仮御所が守られた事を知った信長は一安心・・・皆の働きを大いに喜んだと言います。

そして、この出来事をキッカケに、信長は義昭の御所=二条御所の建造を急ぐ事になります。
●義昭の御所については2月2日参照>>

Rakutyuurakugailyosiakigosyo
洛中洛外図屏風に描かれた義昭御所(上杉本・左隻)

とは言え、ご存知のように、義昭と信長のこのような蜜月時期は短く・・・わずか4年後に義昭は信長に反旗を翻し(2月20日参照>>)、将軍の妹婿となっていた三好義継も若江城にに散る(11月16日参照>>)事となります。

何とも・・・目まぐるしく情勢が変わるのが戦国の世というもの。
現在進行形でこの時代に生きていた武将たちには、どうにもこうにも先の読めない時代・・・当の信長すら、あの最期ですからね。。。
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2019年1月 2日 (水)

新年のごあいさつ&猪と摩利支天の話

 

新年 明けましておめでとうございます

Marisitencc3

平成最後のお正月となった今年はイノシシ年・・・という事で、古い川柳に
♪猪を 踏台にする 摩利支天 ♪
と謳われた摩利支天(まりしてん)イラストを描いてみました。
(今年の大河ドラマは「いだてん(韋駄天)ですがww)

摩利支天は勝利の神とされる事から、日本でも古くから武士の守り本尊として信仰を集めています。

梵名=マリーチ(Marich)と呼ばれていた音訳から、日本でも摩利支天と呼ばれるようになりますが、もともとのマリーチとは威光とか陽炎(かげろう)とかって意味だそうで、その光群を神格化した物で、日天の前で常に疾走していて阿修羅(あしゅら=一般的に悪鬼神や悪者の転生とされる)の軍をやっつけてくれているのだそう・・・まるでSPですな(だから武士の守り神なのね)

そして
「日は彼を見ざるも彼よく日を見る」
つまり、目の前で防御してもらってる日天でさえ摩利支天は見えないのに、摩利支天は日天を見つつ常に働いている・・・と、なんかカッコイイ~~(*゚▽゚)ノ

もちろん、日天だけではなく、私たちをも人知れず守ってくれているわけですが・・・

で、なぜ見えないか?というと、先に紹介したように「常に疾走している」=つまり、その動きが速すぎて見えないという事・・・

そのスピードの速さから、猪突猛進のイメージのある猪に「乗っている」あるいは「踏台にしている」という発想から、イノシシとともに描かれている事が多いのです。

仏画としては天女のように描かれたり、片手に弓を持っている姿が多い(手が8本ある場合もあり)のですが、「掌中に天扇を持つ」という事でイラストでも、そんな感じで描かせていただきました。

さぁ、今年は摩利支天の如く、イノシシ(年)をステップに、大きくジャンプできる年にしようではありませんか!

本年も
「今日は何の日?徒然日記」
をよろしくお願いします。。。。m(_ _)m

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