賤ヶ岳の前哨戦~長島城の戦い
天正十一年(1583年)2月12日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が滝川一益の長島城へと迫りました。
・・・・・・・・
天正十年(1582年)6月2日、本能寺にて織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)と、すでに家督を譲られていた嫡男の織田信忠(のぶただ)(11月29日参照>>)が共に亡くなった事を受けて、織田家の後継者は、次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)かと思われましたが、その後に開かれた織田重臣たちによる清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)にて、亡き信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の織田秀信)が後継者に、その後見人に信雄&信孝兄弟が就任する事に決定します(6月27日参照>>)。
何度か書かせていただいておりますが・・・
以前は、この会議の決定は、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、仇である明智光秀(あけちみつひで)を山崎(やまざき=京都府向日市)で討った(6月13日参照>>)事を武器にムリクリで決定したように思われていましたが、近年は至極真っ当な決定であったという考えが主流です。
というのも、すでに他家を継いでいる弟たちより、亡き後継者の嫡子が継ぐのは不思議では無いですし、その幼さをカバーするために信雄と信孝の二人が後見人となったうえに、山崎の合戦のドサクサで燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間は、信孝が自身の居城である岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)で三法師を預かる事になったのですから、むしろ秀吉は、信孝を後継者に推していた先輩=柴田勝家(しばたかついえ)に華を持たせた感すらあります。
なんせ、他家を継いでてもOKなら、秀吉は、すでに自分の養子になってる「四男の秀勝(ひでかつ)にだって権利ある」って、力で推し通す事もできたかも知れませんからね。
まぁ、領地配分は、秀吉が京都に近いえぇトコを分捕ってますが、もともとそこは敗者=光秀の領地だった場所が主ですので、山崎での功績を考えれば当然のようにも思います。
ただ・・・この後、少々ギクシャクし始めます。
なんせ信孝は、城の修復が終わったら安土に戻す約束の三法師を、いつまでも手放そうとしないばかりか、自分の味方の勝家とお市(いち)の方(信長の妹もしくは姪)の結婚を決めて、秀吉を排除すべく岐阜城に籠ったのです(12月29日参照>>)。
まぁ、一方の秀吉も亡き信長の葬儀を京都で盛大に行って(10月15日参照>>)後継者になりたい感を思いっきり出しちゃってますが・・・
この一触即発の険悪ムードに、勝家は自身の与力である前田利家(まえだとしいえ)、不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)、金森長近(かなもりながちか)の3人を秀吉のもとに派遣して和議に当たらせますが、これを「雪深い北陸の冬に合戦をしたくないがための時間稼ぎ」と見抜いた秀吉は、12月、池田恒興(いけだつねおき)や筒井順慶(つついじゅんけい)、細川忠興(ほそかわただおき)ら5万の軍勢とともに近江(おうみ=滋賀県)に入り、勝家領地の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を包囲・・・城主の柴田勝豊(かつとよ=実際には勝家の姉の子)は12月15日、降伏を表明します(12月11日参照>>)。
●←賤ヶ岳前哨戦
長浜城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景地理院地図>>)
この勢いのまま秀吉は岐阜へと兵を向けますが、未だあの本能寺から半年余り・・・さすがに秀吉も、亡き殿様の息子をモロ攻撃しては、他の織田家臣の手前マズイと思ったか?岐阜城を、いつでも攻撃できる布陣で包囲はしたものの、実際に攻撃を仕掛ける事はありませんでした。
一方、籠城する信孝は、こういう場合、稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)や(6月8日参照>>)や氏家直昌(うじいえなおまさ=卜全の息子)など美濃(みの=岐阜県南部)の国人衆は、皆、自分の味方になってくれる物と踏んでいましたが、稲葉&氏家両者をはじめ多くの者が、すでに秀吉に懐柔されていてアテが外れてしまいます。
なんせ、この時、秀吉は自分ではなく、織田信雄の名前を前面に出して諸将を懐柔しており、名前を出された信雄も、織田家後継者になる気満々の雰囲気を醸し出してますので、あくまで「信雄VS信孝の…」というテイで事を進めていたのでしょう。
なので信孝としては、囲まれた→周辺に味方はいない→北陸の勝家は雪のため援軍は出せない・・・で、この状況を知った伊勢(いせ=三重県南東部)の滝川一益(たきがわかずます←彼は信孝の味方です)が「ここは一旦和睦して春を待ちなはれ~」と進言し、信孝は、その一益の忠告を聞いて、問題の三法師はもちろん、自らの母や妻子を秀吉のもとに引き渡すとして和睦を交渉。
秀吉も、その申し出を呑む形で三法師らを安土に送り、12月29日に岐阜城の包囲を解いて京都へと戻りました。
しかし、このしばしの休息の間に、一益は、秀吉側についていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)、亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)(3月3日参照>>)、国府城(こうじょう=三重県鈴鹿市国府町)などを相次いで攻略して、伊勢における守備を固め、来るべき秀吉軍に備えるのです。
それを受けて、天正十一年(1583年)2月12日、秀吉軍が3方から北伊勢に侵出し、一益に奪われた支城を囲むと同時に、秀吉自らが3万余騎を率いて一益が拠る長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)へと迫ったのです。
秀吉の動向を知った一益は、先手を取って各要所に人員を配置し、様々な予防線を張って、その進路を妨害しようとしますが、大軍によって破られ、やむなく、自らが兵を率いて城外へ撃って出ますが、それもかなり押し戻されて城の外構え近くまで攻め入られてしまい、さらに城下に放たれた火によって、民家も寺社も、ことごとく焼き尽くされてしまいます。
その後、秀吉は一旦、桑名(くわな)から数里(約20km)ほど離れた場所に陣を移動させますが、そこでは夜に大きなかがり火を焚いて、滝川勢の夜討ちに備え、沢山の柵も設けました。
そう、実は一益は夜討ちを得意とした武将だったのですが、残念ながら、これまで同じ織田配下の同士であった秀吉は、その事も重々承知・・・「多勢のコチラに対して無勢の一益なら夜討ちしかない」と感づいていたのです。
この毎夜のかがり火に、「夜討ちは見抜かれている」と察した一益は、作戦を変更し、人数の少ない徒歩(かち)組の鉄砲隊を組織してゲリラ戦を展開する事に・・・
3月某日、秀吉軍の先鋒を務めていた中村一氏(ながむらかずうじ)隊が、鉄砲を所持した隊を組織していなかったところを狙われたか?この一益の徒歩組に散々に打ち負かされ、秀吉軍は大打撃を受けてしまいます。
その後も、長島城攻略においては大軍を擁したワリには大きな成果が得られないまま、しばらくの膠着状態が続きます。
他の城も・・・
国府城はほどなく開城されますが、亀山城&峯城にはなかなかの苦戦・・・3月3日、ようやく亀山城を落としますが、その6日後の3月9日、春を待っていた柴田勝家が居城の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を出陣。。。
この勝家の動きを知った秀吉は、一旦、近江へと戻り、柴田軍と睨み合う形となりますが(3月11日参照>>)、その間に、岐阜城の信孝が挙兵し、伊勢の滝川一益も巻き返しの大暴れ・・・
北ノ庄(福井県)→岐阜城(岐阜県)→長島城(三重県)
このラインが一つにつながって連携してしまっては、ちとヤバイ!
とばかりに、秀吉は再び岐阜へと向かうのですが、これをチャンスと見た勝家が仕掛け、そこに秀吉の大返しが・・・と、ご存知の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いとなるわけです。
●関連ページ
【賤ヶ岳前哨戦~亀山城の戦い】>>
【決戦開始!賤ヶ岳…美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝の自刃】>>
【「鬼玄蕃」佐久間盛政の処刑】>>
【福井・九十九橋の怨霊伝説】>>
.
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 足利義昭からの副将軍or管領就任要請を断った織田信長の心中やいかに(2024.10.23)
- 大和平定~織田信長と松永久秀と筒井順慶と…(2024.10.10)
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
コメント