信長に降った宇喜多直家VS毛利輝元~作州合戦の始まり
天正七年(1579年)2月17日、毛利に反旗を翻して信長に降った宇喜多直家の寺畑城を、毛利輝元が落としました。
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戦国時代、長きに渡って中国地方を二分していた山陰の雄=出雲(いずも=島根県東部)の尼子(あまこ・あまご)氏と、山陽の雄=周防(すおう=山口県の東南部)の大内(おおうち)氏。
この両家を倒して
●厳島の戦い(10月1日参照>>)
●月山富田城の開城(11月28日参照>>)
新たなる中国地方の覇者となりつつあったのが安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)でしたが、その東に位置する備中(びっちゅう=岡山県西部)や備前(びぜん=岡山県東南部)では、勢いある毛利の支援を受けて領国を拡大しようという者もいれば、敵対して己の領地を守ろうとする者も・・・
というより、それぞれが自らの損得を計算しつつ動き回り、そこに尼子の残党も加わって、「昨日の敵が今日の友⇔今日の味方は明日の敵」な混乱を状態だったわけですが、(2月15日参照>>)
そんな中、毛利に滅ぼされた尼子の残党=山中幸盛(ゆきもり=鹿介)らが、新当主=尼子勝久(かつひさ)をひっさげて旧領回復に勤しみ(1月22日参照>>)、そこに協力する姿勢を見せる但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)らを、「東側からけん制して欲しい」との毛利からの依頼に応えた尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)は、配下の明智光秀(あけちみつひで)や細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部) ・丹後(たんご=京都府北部)を、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)に但馬の平定を命じます。
つまり、最初の段階では、信長は、毛利の要請によって西へと兵を向けたはずだったのですが・・・
やがて、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が信長と敵対した事(9月12日参照>>)、また、天正元年(元亀四年=1573年)に、信長によって京都を追われた(7月18日参照>>)足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)が毛利を頼って安芸に身を置く事になった事などから、いわゆる信長包囲網が形成されるに至って、義昭や本願寺に味方する毛利(7月13日参照>>)は信長と敵対する事になります。
そうなると、この両者に挟まれた形となる中国地方東半分(現在の兵庫県&岡山県&鳥取県)あたりの武将は、ここでどう動くのか?自身の身の置き所次第で、この先の運命が決まる状況になって来る・・・お察しの通り、毛利から織田に行く者、逆に織田から毛利に降る者と様々に入り乱れて来る。。。
そんなこんなの天正三年(1575年)、毛利に敵対する立場をとっていた天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下である宇喜多直家(うきたなおいえ)は、今や浦上家内で主人に匹敵する力を持ち始めた事から、独立を画策して毛利と結んで浦上に反旗・・・毛利の配下として兵乱に参戦する中で、天神山城の戦いに勝利して、直家は浦上宗景を追放する事に成功するのです。
●備中兵乱・松山合戦(6月2日参照>>)
一方、この同じ年の東海では、三河(みかわ=愛知県西部)の徳川家康(とくがわいえやす)と組んだ信長が、甲斐(かい=山梨県)の武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)を長篠設楽原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)にて撃破し(5月21日参照m>>)、翌・天正四年(1576年)には、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の築城に着手して、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いを見せ始めます。
なので、はじめは、毛利の要請によって西へと侵攻した秀吉や光秀は、そのまま、今度は毛利配下の武将たちを攻略する軍として進んでいくわけで・・・
天正五年(1577年)10月23日には秀吉が但馬を平定(10月23日参照>>)、
6日後の29日には丹波攻略中の明智光秀が籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)を攻略(10月29日参照>>)、
さらに、敵の敵は味方とばかりに、毛利に敵対する尼子残党もチャッカリ織田の傘下となり、続く11月に秀吉が落とした上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)の守備係に抜擢されます(11月29日参照>>)。
この上月城は、今まさに織田と毛利の覇権境界線に建つ城・・・当然ながら、すぐに奪回を試みる宇喜多直家は翌・天正六年(1578年)1月に上月城を奪い返しますが、そのわずか2か月後に、またまた秀吉の猛攻に遭い、またまた奪い返されてしましました。(5月14日参照>>)
ただ、この頃の秀吉は播磨(はりま・兵庫県南西部)三木城(兵庫県三木市)の攻略中(3月29日参照>>)でもあり、しかも、その三木城がなかなか落ちなかったため、どうしても上月城の守りは手薄になってしまう・・・
そこで、直家からの救援要請を受けた毛利は、翌4月、元就の後を継いで当主となっていた毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)自らが総大将となって、大軍で以って上月城を包囲・・・
それを受けて、5月には、秀吉が三木城攻防戦の合間を縫って近くまで駆け付け、信長に更なる援軍を要請しますが、例の信長包囲網で東西南北敵だらけの信長からは「三木城に集注…上月からは撤退せよ」との命令・・・やむなく翌6月に秀吉は上月城周辺から兵を退きます。
それからほどない7月9日、上月城は毛利の手に落ちたのです(5月4日参照>>)。
ところが・・・実は、この最後の上月城攻防戦には、、弟の宇喜多忠家(ただいえ)を宇喜多軍の大将に据えてはいるものの、直家自らは不参加なのですよ。
そもそもは直家の支援要請に応じて毛利本隊が上月城へと動いたはずなのに・・・です。
実は・・・すでに、この頃には宇喜多直家は織田に寝返る事を考えていたわけで・・・
(正式に宇喜多が織田の傘下となるのは直家の従兄弟で養子の宇喜多基家(もといえ)が織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)に謁見してた翌年の10月ですが…)(10月30日参照>>)
当然、毛利も、この直家の動きを察していたわけで・・・
●↑作州合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
早速、明けて天正七年(1579年)の2月・・・吉川元春(きっかわもとはる=元就の息子で輝元の叔父)自らが3000の兵を率いて出陣し、高田城(たかだじょう=岡山県真庭市・勝山城とも)に本陣を置いて宇喜多配下の諸城へ迫ります。
こうして始まった毛利×宇喜多の作州(さくしゅう=岡山県東北部:美作の別名)合戦・・・まずは、毛利の先鋒を任された草刈重継(くさかりしげつぐ)らが、当時、宇喜多の支配下にあった寺畑城(てらはたじょう=岡山県真庭市久世:大寺畑&小寺畑)へと猛攻を仕掛けます。
この時、寺畑城内にいた内通者が材木庫に火をかけ、そのドサクサで毛利軍を寺畑城内に引き入れたため、城内は大混乱となり、やむなく城主の江原親次(えばらちかつぐ)は寺畑城を捨てて篠向城(ささぶきじょう=岡山県真庭市三崎)へと逃走・・・天正七年(1579年)2月17日、寺畑城は落城したのです。
勢いづく毛利勢は、そのまま篠向城を落とし、さらに篠向の城兵が敗走した宮山城(みややまじょう=岡山県真庭市高屋)へと迫りますが、ここには、かつてこの周辺に隆盛を誇った美作三浦(みまさかみうら)氏(1月22日参照>>)の残党が籠っていて「ここに退路は無い」とばかりに命懸けの防戦に加え、毛利勢が城下の民家に風呂を借りに行ってる事を嗅ぎつけた宮山城兵が、その風呂場を襲撃して大混戦となり、多くの攻め手を討ち取った事から、毛利は宮山城を断念・・・ここは、何とか阻みました。
さらに、吉川元春は本陣を移動させて、次に湯山城(ゆやまじょう=真庭市湯原)を攻撃します。
この時には、毛利配下の杉原盛重(すぎはらもりしげ)が旭川に3000もの筏を並べて湯山城を攻め立てたと言いますが、激しい反撃に遭い、結局落とせずに撤退しました。
やがて3月上旬から宇喜田勢の反撃が開始されます。
直家率いる2万余騎の軍勢は、またたく間に寺畑城&篠向城を奪回したかと思うと、その勢いのまま枡形城(ますがたじょう=岡山県苫田郡鏡野町)へ向かいますが、堅固なここが落とせないとなると次に岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市中北上)へ・・・
そこも、落とすに難しいと判断した直家は矛先を変えて、今度は三宮城(さんのみやじょう=岡山県久米郡美咲町西垪和)へと向かいます。
ここでは激しい銃撃戦が展開されるも、途中から雨が降ったため鉄砲が使えなくなり、宇喜多軍は、急遽、弓矢の攻撃に切り替えますが、遅れをとった三宮城側が対処できず・・・やむなく城将の村上久成(むらかみひさなり)が撃って出たところを組み合いの末に敗れて首を取られる事に・・・
さらに宇喜多配下で荒神山城(こうじんやまじょう=岡山県津山市荒神山)主の花房職秀(はなぶさもとひで)が、吉井川を隔てた向かい側に位置する神楽尾城(かぐらおじょう=岡山県津山市上田邑)に夜討ちをかけて落城させました。
加えて、4月には宇喜多配下の新免宗貫(しんめんむねつら)が草刈重継の矢筈城(やはずじょう=岡山県津山市加茂町山下:高山城・草刈城とも)を攻撃させますが、天然の要害である矢筈城は落とす事ができませんでした。
とまぁ・・・勝った負けたが入り乱れるこの作州合戦はこの天正七年(1579年)4月の矢筈城攻防を最後に一旦収まり、この続きは、直家が正式に織田傘下となった翌年3月の辛川崩れ(からかわくずれ)(3月13日参照>>)、さらに同6月の祝山合戦(いわいやまかっせん)(6月15日参照>>)へと持ち越される事になるのですが・・・
その祝山のすぐ後には、10年続いた石山合戦が終結して(8月2日参照>>)毛利が本願寺の加勢をする事もなくなるのですが、
一方で、宇喜多家では直家が病死し、未だ幼い秀家(ひでいえ)が家督を継ぐものの、すでに鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)まで手中に収めた(10月25日参照>>)秀吉軍の配下に組み込まれつつ、あの本能寺の変(6月2日参照>>) を迎える事になるのです。
ご存知のように、この本能寺の時に、絶賛水攻め中だった備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区高松)での戦いにて、毛利と秀吉が和睦を成立させたために(6月4日参照>>)、これまで毛利VS宇喜多で散々ドンパチやってきた美作周辺のほとんどが宇喜多の物になる事に・・・
これを受けて、最後まで毛利への義理を貫いていた草刈重継も、やむなく難攻不落と言われた矢筈城を明け渡す事になります。。。
ここに美作の戦国が終わるわけですが、その宇喜多VS毛利の最後の戦いとなる境目合戦については8月18日のページでどうぞ>>o(_ _)oペコッ
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