小早川隆景が宇喜多忠家に…「辛川崩れ」の大敗
天正八年(1580年)3月13日、小早川隆景率いる毛利軍を宇喜多勢が迎え撃った辛川合戦がありました。
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弘治元年(1555年)に周防(すおう=山口県の東南部)の大内(おおうち)(10月1日参照>>)を、永禄九年(1566年)に出雲(いずも=島根県東部)の尼子(あまこ・あまご)(11月28日参照>>)を事実上の滅亡へと追いやって、西国の雄となった安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)。
一方、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)は、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦いを繰り返しつつ(9月12日参照>>)、天正元年(元亀四年=1573年)には、かの義昭を京都から追放(7月18日参照>>)・・・その義昭が毛利を頼った事から、両者は敵対関係となり、信長から中国地方の平定を任された羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が西へと迫りくる(10月23日参照>>)。
これまで様々なぶつかりを継続する中で(2月15日参照>>) 、ここに来て西と東の両者に挟まれた形となった備中(びっちゅう=岡山県西部)や備前(びぜん=岡山県東南部)、但馬(たじま=兵庫県北部)あたりの諸将たちですが、
そんな中で、毛利の力を借りて(6月2日参照>>)、天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の浦上宗景(うらがみむねかげ)からの独立を成功させた元家臣の宇喜多直家(うきたなおいえ)は、天正五年(1577年)に信長配下の明智光秀(あけちみつひで)が籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)を攻略(10月29日参照>>)した事、毛利から自身が任されていた上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を但馬を平定(10月23日参照>>)した秀吉に落とされた事、等々から方針を変えたか?天正七年(1579年)頃から毛利とは距離を置き、その年の10月、宇喜多直家は正式に織田の配下となります(10月30日参照>>)。
とは言え、それ以前の天正七年(1579年)2月、すでに織田に寝返りそうな雰囲気を醸し出していた直家に、毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)は、叔父の吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)に3000の兵をつけて美作(みまさか=岡山県東北部)へ派遣し、宇喜多配下の諸城を攻撃させてはいたのです。
しかし、これが・・・序盤こそ、いくつかの城を落としたものの、後半に宇喜多勢の反撃に遭い、取った城も奪回されて、結局は、大きな成果が得られないまま断念・・・(2月17日参照>>)
とは言え、このまま宇喜多の離反を見過ごすわけにはいかない毛利・・・
天正八年(1580年)、今度は小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)をが1万5千の兵を率いて備前から備中へと侵攻・・・宇喜多家の宿老=戸川秀安(とがわひでやす)の息子=戸川逵安(みちやす=達安)が拠る辛川城(からかわじょう=岡山県岡山市北区)間近へと迫ります。
早速、迎え撃つ宇喜多勢・・・この時、すでに病に伏せっていた直家に代わって、弟の富山城(とみやまじょう=同北区)主=宇喜多忠家(ただいえ)が総大将を務めます。
この時、流れた「毛利軍は直家居城の岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)を攻略するのが目的」との噂に、「させるか!」とばかりに忠家が選んだ作戦は、辛川城に近い一宮(いちのみや)から、自身の富山城近くの矢坂(やさか)まで、7段の陣を立てて防戦を張り、辛川城から逵安率いる一隊を分けて、辛川村の北にある山陰に伏兵として潜ませるというもの・・・
●↑辛川合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
←位置の参考として
作州合戦の位置関係図(広域)
も参照下さい
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かくして天正八年(1580年)3月13日、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山市北区)から加茂城(かもじょう=同北区)を経て辛川城近くへと進んだ毛利勢は、真正面に陣取る宇喜多勢めがけて襲いかかります。
先頭同士で激しいぶつかり合いとなりますが、この戦いは宇喜多側にとっては、敵を誘い込むエサ・・・適当に戦って負けた感を出しつつ、間もなく退却を開始します。
そうとは知らぬ小早川の先陣が、武功を挙げんと我先に後を追い、自然と、これに続く形で隆景の本陣が進み、さらに後陣が進む・・・その後陣が辛川村を通り過ぎた時!
まさに、この時、山陰に潜んでいた逵安率いる伏兵が一斉に飛び出し、小早川軍の背後から襲い掛かったのです。
逵安、わずか13歳の初陣でした。
さらに、この伏兵の登場と同時に、忠家は7段に構えた宇喜多軍に一斉出撃をかけた事から、小早川勢は、前からも後ろからも攻撃を受ける事に・・・
さすがの小早川も陣形が乱れるところを、隆景自らが采配を打ち振って踏ん張りますが、そこへ、隆景の本陣めがけて宇喜多軍が突入・・・少し、後ずさりする所に、今度は、近くの山上から、弓隊と鉄砲隊の一斉連射をお見舞い。
さすがに総崩れとなった小早川軍は、結果的に一返しもできないまま、領国へと退却していきました。
この様子を見た忠家は
「敵は大軍…深追いは禁物である」
として、辛川村の入口あたりまで追撃しただけで、宇喜多軍も退きあげさせました。
これが、世に「辛川崩れ」と呼ばれる、毛利の大敗です。
ただし、今回の辛川合戦・・・(岡山藩士なのでたぶん)宇喜多側の史料となる『備前軍記』では「天正七年(1579年)8月の事」とされていますので、書籍によってはその日付になっている場合もあるのですが、毛利側の『湯浅文書』では「天正八年(1580年)3月13日辛川口敗戦」となっているのです。
この前後の出来事を踏まえ、近年では、おそらくは、この3か月後の6月に起こる祝山(いわいやま=岡山県津山市)合戦(6月15日参照>>)に向けての地固め&準備戦の意味合いでの出兵であるとの見方が強く、天正八年(1580年)3月13日が正しいのでは?とされているという事で、本日は、この日付でご紹介させていただきました。
辛川の次は、上記の祝山(いわいやま=岡山県津山市)合戦(6月15日参照>>)に突入・・・その後の毛利は宇喜多・・・というより、その上にいる織田を相手に~と展開していきます。
・・・にても、もともと毛利勢の中では小早川隆景が戦上手として1番カッコイイんじゃないか?と思っていたところに、今回は、その上をいく宇喜多忠家・・・しかも、13歳初陣の戸川逵安の勇姿を思い浮かべると・・・もう、戦国女子はメロメロですがな゜.+:。(*´v`*)゜.+:。
ま、出どころが軍記物なので、話半分な感じではありますが、本日は、この宇喜多勢のカッコ良さに浸らせていただきましょう~---------(*^ 0 ^A----------ドップリ
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