信長の雑賀攻め後に…雑賀同志の太田城の戦い
天正七年(1579年)3月7日、石山本願寺の下間頼廉が紀州の本願寺門徒に雑賀衆が味方についた事を報告しました。
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天正五年(1577年)2月~3月に行われた織田信長(おだのぶなが)による雑賀攻め・・・
●孝子峠の戦いと中野落城>>
●雑賀攻め・和睦>>
雑賀(さいが・さいか)衆とは、紀州(きしゅう=和歌山県)は紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団で、小説やドラマ当では「鉄砲を駆使し、石山本願寺の要請に応えて信長と戦った集団」のイメージが強いですが、水軍を保有して交易をする人たちや、農業でお生計をたてる者もいて、決して一枚岩では無い地元民の集合体みたいな感じです。
以前、その雑賀衆のリーダーとされる雑賀孫一(まごいち・孫市?)をご紹介したページ(5月2日参照>>)で、その冠に「傭兵」とつけるかどうか悩んだ事なんかもお話させていただきましたが、私としては、やはり「傭兵」の冠が合うように思います。
もちろん、それは金銭だけではなく、「利害関係」や「主義主張」等が絡むので「100%金で雇われた傭兵」とは違うわけですが、信長と敵対する本願寺の第11代法主(ほっす)=顕如(けんにょ)の要請で「信者ではない彼らが本願寺を手助けする」という構図は、やっぱ傭兵?って感じます。
現に、上記の通り一枚岩では無い雑賀衆は、この雑賀攻めの時も、信長と敵対する側と信長を受け入れる側に分かれていたわけですから・・・
●↑雑賀衆の太田城攻防戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そもそも、この雑賀衆は、その支配圏により雑賀庄(さいかのしょう)・十ヶ郷(じっかごう)・宮郷(みやごう)・中郷(なかつごう)・南郷(なんごう)という五つの惣(そう=地域の共同体)に大まかに分かれていて、同郷の仲間とは言え、その境界線や利害関係でちょくちょくモメてる間柄でもあったのです。
で、結局、例の天正五年(1577年)の雑賀攻めの時は、宮郷&中郷&南郷の3ヶ所の土豪(どごう=その地に根付いた半農の武士たち)たちは、信長の味方だったわけで・・・
そんな中で、天正五年(1577年)2月に始まった雑賀攻めは、翌3月に和睦を結び、一応の終結となるのですが(双方が勝利したと言ってますので、結局は引き分けかな?)、この雑賀の地には遺恨が残りました。
そう、味方した彼らに対してです。
特に太田党を中心とする宮郷の者たちが、道案内等、積極的に信長に協力していた事から、信長と戦った側の彼らは、信長軍が撤退して間もなく、報復を開始するのです。
ただし、ここらあたりの記録は文献によって曖昧で、そのキッカケも・・・
雑賀攻め以前に、宮郷の中にいた「本願寺に味方にしよう」と説いて回っていた者たちを、イザその時となったら追放して信長の味方になった事が、そもそもの原因・・・とされたり、
いやいや、
そもそも農耕に適した地に乏しい雑賀庄の者が、農業が盛んだった宮郷の地を「力づくで奪ったレ!」って暴れだしたのが発端・・・という話もあります。
結局は、信長云々というより、これまでの積年の恨みという感じだったのかも知れません。
なんせ、先に書いた「境界線でちょくちょくモメてる」というのも、雑賀庄の者たちが、農耕に適した豊かな土地を求めて進行していく中で、どんどん奥へ奥へと宮郷の地を侵食して行く・・・という形の境界線争いで、決して宮郷側から雑賀庄へ仕掛ける事は無かったのです。
つまり、今回も、たまたま雑賀攻めの直後だっただけで、通例の雑賀庄からの宮郷への押し込み・・・って事なのかも知れません。
というのも、今回の戦いで宮郷が本拠とする太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)への攻撃側には、雑賀攻めで宮郷と同じように信長の味方となった中郷や南郷、そして十ヶ郷に属する貴志(きし=和歌山県紀の川市貴志川町)の人たちも加わっていたようなので、やはり、信長の件とは、また別の話かも・・・
とにもかくにも、こうして始まった雑賀衆による太田城攻め・・・
太田城を取り囲んだ攻め手の一手は、鍬(くわ)で以って城の堀を叩き崩し、もう一手は、城外にいる宮郷の者や、太田の援軍として迫りくる根来衆(ねごろしゅう=根来寺(和歌山県岩出市)を中心に居住する僧兵集団)を城へと近づかせないために、中間の要路を遮断しました。
そこに、応援に駆け付けた者たちと遮断組とが激しい戦いに・・・
このように、完全に周囲敵ばかりの状態となった太田城ではありましたが、最初の攻撃から約1ヶ月経っても城は落ちず、結局、和議となって、攻め手の雑賀衆が立ち去り、今回の一件は終了となりました。
しかし、直接的な戦いは終了したとは言え、この後も、何らかの圧迫は続けられていたのか?
結局、宮郷は、雑賀の湊(みなと)の人々に間に入ってもらって本願寺に頭を下げ、
「これからは、他の雑賀衆たちと心を一つにして、本願寺の奉仕します」
と許しを請うたのです。
おそらく天正七年(1579年)と思われる3月7日の日付の文書にて、石山本願寺の坊官(ぼうかん=寺の事務的方面の長)である下間頼廉(しもつまらいれん)が、紀州の本願寺門徒に宛てて
「アイツら、詫び入れて来よったから許したった」
との報告をしている事から、この頃に、雑賀の里から信長派が一掃された物と思われます。
しかし、現実とは皮肉なもの・・・
この翌年の天正八年(1580年)3月、顕如と信長との間に和睦が成立して、約半年後の8月に顕如が本願寺を退去した事で、約10年に渡った石山合戦が終結となります(8月2日参照>>)。
信仰ではなく、あくまで雇われ?要請?によって信長と戦う立場だった雑賀衆の行く末は・・・?
石山合戦での活躍で一躍名を挙げた例の雑賀孫一(拠点は平井城)は、早速、信長に近づいて昔ながらの雑賀の筆頭であった土橋(どばし・つちはし)を倒したりなんぞしますが、その信長も天正十年(1582年)の本能寺で亡くなってしまうわけで・・・(6月2日参照>>)
しかも、この本能寺のドサクサで再燃した雑賀の内紛によって孫一自身も行方知れず?(6月4日参照>>)あるいは世代交代しちゃってる?可能性もあり・・・
一旦、その動向が読めなくなる雑賀の彼らたちですが、その後、信長の後に天下を狙う豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)の前に登場して来る事になるのですが・・・
そのお話は
【小牧長久手~岸和田城・攻防戦】>>
【秀吉の紀州征伐~太田城攻防戦】>>
で、ご覧くださいませ~m(_ _)m
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コメント
こんばんは。
雑賀衆の話、非常に面白いですね。
鈴木孫一らの宮郷攻撃は、信長に味方したことへの報復というよりも今までのいざこざの延長線上では?という話、特に面白かったです。
本願寺内部でも五組同士のもめ事が起こっていたのかもしれませんね。
この辺、もっと調べてみたら楽しそうですね。
投稿: 鷲谷 壮介 | 2020年9月14日 (月) 01時31分
鷲谷 壮介さん、こんばんは~
戦国も末期になると、中央勢力が圧倒的な強さなので、ちょっとやそっとの兵力では太刀打ちできないため、どうやって生き残っていくか?
大変だったでしょうね。
おっしゃる通り、内部紛争もありますしね。
投稿: 茶々 | 2020年9月15日 (火) 03時06分