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2019年3月19日 (火)

織田信秀VS今川義元&松平広忠~第2次小豆坂の戦い

 

天文十七年(1548年)3月19日、今川&松平連合軍と織田が戦った第2次小豆坂の戦いがありました。

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享禄二年(1529年)、祖父の代からの念願だった三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たした松平清康(まつだいらきよやす)は、次に隣国の尾張(おわり=愛知県西部)へと手を伸ばし、当時、清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人で尾張古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市)主だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めたのですが、その陣中にあった天文四年(1535年)、家臣によって斬殺されてしまいます(12月5日参照>>)

24歳という若さで亡くなった清康の後を継いだのは、わずか10歳の息子=松平広忠(ひろただ)でしたが、案の定、このドサクサを狙って、一族の松平信定(のぶさだ)が謀反を起こし、居城の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)を追われて流浪の身となってしまったのです。

Imagawyosimoto600a やむなく叔母(父の妹)の嫁ぎ先である吉良持広(きらもちひろ)のもとへ身を寄せますが、その関係で、この後、駿河遠江(静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)からの支援を受ける事になって(*吉良と今川はともに足利宗家の流れを汲む関係)、何とか岡崎城を奪還・・・その後、ようやく三河に帰還します。

この頃に起こったのが第一次小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い・・・(日付に関しては天文十一年(1542年)の8月説と12月説あり)

とは言え、日付も曖昧な時点でお察しのように、その勝敗も、一応、今川&松平連合軍の勝利だとされていますが、負けた織田側にも、さほど大きなダメージはなさげな雰囲気です。

その翌年=天文十二年(1543年)には、松平家内で叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)との内紛が勃発し(8月27日参照>>)、その信孝が織田に降った事で、松平×織田の関係はますます悪化していきます。

一方の織田信秀は、松平が弱体化したこの間に三河へと侵攻し、松平に属する安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市)を奪い取ります。
(奪い取った時期に関しては天文九年(1540年)説と天文十三年(1544年)説あり)

これに対し、安祥城の奪還を図る広忠でしたが、あえなく敗北・・・しかも、この天文十三年(1544年)には、広忠の正室=於大の方(おだいのかた)の兄である水野信元(みずののぶもと)織田方に降る事態に・・・この一件により於大の方は広忠に離縁され、実家に戻っています(8月28日参照>>)

ますますの織田からの攻撃に耐えかねるとともに、かの水野信元が松平に仕える一方で今川に仕えていた事もあって、ここらで、今一度、今川との関係を強固にして、その支援を仰ごうと考えた広忠は、於大の方との間にもうけた嫡男=竹千代(たけちよ=後の徳川家康)を今川への人質として送りますが、この大事な人質が、途中で織田方に奪われてしまうという大失態(8月2日参照>>)

もちろん、これを機会に、信秀は広忠に織田の傘下に入るよう要求するのですが、広忠は断固拒否・・・現状のまま、今川を頼って織田と戦う事を選びます。

そんなこんなの織田信秀ですが、ここんとこ尾張の北東部分に勢力拡大を図っていた彼は、実は、松平=三河&その向こうの今川=遠江という東側と同時に、北側の隣国=美濃(みの=岐阜県南部)斎藤道三(さいとうどうさん=利政)とも度々衝突していた(9月23日参照>>)わけで・・・

しかし、天文十六年(1547年・天文十三年説もあり)加納口(かのうぐち=岐阜県岐阜市)の戦い(9月22日参照>>)で大敗を喰らった信秀は、とりあえずは北の脅威を削いで東の三河攻略に専念すべく、自らの息子=信長(のぶなが)と道三の娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の結婚話(2月24日参照>>)を進めて、美濃の斎藤とは和睦をする事にします。

こうして天文十七年(1548年)3月、岡崎城の奪取を狙い、4000余の兵を率いて安祥城を出陣する信秀・・・

一方の今川義元も、織田×松平の境界の最前線となる安祥城は、味方の手に入れておきたいわけで・・・松平救援のために太原雪斎(たいげんせっさい=崇孚)を大将に据え、朝比奈泰能(あさひなやすよし)(2011年3月19日参照>>)とともに出陣させます。

矢作川(やはぎがわ)を渡って上和田(かみわだ=愛知県岡崎市)に着陣する織田軍・・・その向こうの小豆坂の頂上付近に陣取る今川軍・・・

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↑第2次小豆坂の戦い・合戦図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天文十七年(1548年)3月19日未明、小豆坂にてぶつかった両者でしたが、『孫子の兵法・行軍編』(6月17日参照>>)でお馴染みの通り、こういう場合、高い位置に布陣してる側が断然有利・・・って事で、最初は今川勢が優勢で、織田の第一の備えは完全に崩されてしまいますが、

劣勢を悟った織田勢は、第二の備えが本隊付近まで後退して踏ん張り、本隊の力を借りて巻き返し、今度は今川勢の先陣を務めていた松平勢が崩れ始めます。

しかし、この時、これを予期していたかのように仕込まれていた岡部元信(おかべもとのぶ)率いる今川の伏兵が、勢いづいて突進する織田勢の横から突きかかりました。

予期せぬ方向から本隊を脅かされた織田勢は、それがキッカケとなり軍全体が総崩れとなり、あれよあれよという間に今川勝利に織田の負け・・・信秀は兵を退きあげて安祥城へと戻るしかありませんでした。

とまぁ、川&松平の勝利とは言え、結果的には信秀が安祥城を失う事もなく、両者の関係に大きな変化は無かったわけですが、その翌年の両者の運命が真逆に!

信秀は配下の謀反を見事抑える(1月17日参照>>)一方で、広忠は、自らの家臣によって殺害されてしまう(3月6日参照>>) のです。

このために岡崎城の城主はいなくなってしまったわけですが、先に書いた通り、この時、広忠の後を継ぐべき息子=竹千代は、今現在、織田のもとにいるわけで・・・

そこで、今川は、何とか松平の後継ぎ=後の家康を自らの保護下に置こうと、織田信広(のぶひろ=信秀の長男)が拠る安祥城へ迫る事になるのですが、そのお話は11月6日【安祥城の戦い~信長&家康に今川と絡む運命の糸】>>でどうぞ

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