賤ヶ岳の前哨戦~亀山城の戦い
天正十一年(1583年)3月3日、賤ヶ岳の前哨戦となる伊勢での戦いで亀山城が開城されました。
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賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの前哨戦である長島城攻防戦と同時進行で行われていた戦いです。
織田信長(おだのぶなが)亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決まり(6月27日参照>>)、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任しますが、亡き信長の葬儀(10月15日参照>>)を大々的に行って後継者の雰囲気を醸し出す羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と彼に同調する信雄に、岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)に拠る信孝が反発・・・(12月29日参照>>)
しかし、信孝の1番の味方である柴田勝家(しばたかついえ)の拠点=北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)が雪深い北陸にあって冬場には援軍が望めない事から、信孝は一旦、秀吉と和睦して春を待つ事にしますが、その間に秀吉は勝家所領の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を落とします(12月11日参照>>)。
一方の信孝派も・・・もう一人の味方である滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったのです。
●←賤ヶ岳前哨戦
長浜城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景地理院地図>>)
これを受けた秀吉は天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍を三方に分け、実弟=羽柴秀長(ひでなが)隊は美濃多羅口から、甥の羽柴秀次(ひでつぐ)隊は君畑越えで、秀吉自らは安楽峠越えで北伊勢へと侵入し、2月12日には峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲すると同時に一益の本拠=長島城へと迫り(2月12日参照>>)、16日には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)城下に攻め入ります。
とは言え、今回の亀山城・・・実は、一益に奪われた経緯にはお家騒動が絡んでいました。
この頃、亀山城の城主を務めていた関盛信(せきもりのぶ)は、次男の一政(かずまさ)の嫁に蒲生賢秀(がもうかたひで)(2017年6月2日参照>>)の娘を迎えて後継者とする事と決め、息子とともに秀吉のもとに年賀の挨拶に赴いていたのですが、そのスキに一部の家臣が三男の勝蔵(政盛?)を後継者に擁立・・・つまりクーデターを決行して盛信が留守の間に亀山城を奪ってしまったのです。
で、このクーデターを支援したのが一益で、今回の出陣で峯城を奪った後、この亀山城には腹心の佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)を投入して守りを固めさせていたのです。
そこへやって来た秀吉・・・自ら騎馬で以って、亀山城の構えや防備を視察して回った後、敵方の土塁を破壊して進路を断ち、コチラ側に有利な柵を構築し、かの2月16日に包囲を完了し、即座に攻撃に取り掛かります。
この16日の戦いでは、城内から門を開いて撃って出た城兵に、混乱する寄せ手側が切り崩されて散らされまくりでしたが、細川忠興(ほそかわただおき)の陪臣(ばいしん=家臣の家臣)である松井盛秀(まついもりひで)が、同僚の米田是政(こめだこれまさ)とともに、ただ二人で留まり、三の丸に放火して攻勢に転じさせたのだとか・・・
次の24日の戦いでは、病気のために出遅れてしまっていた盛秀の主君=松井康之(まついやすゆき=細川忠興の家臣)が現地に到着し、秀吉軍の先鋒の細川隊として突き進みますが、やはり敵の猛反撃に遭い、先の盛秀は討死・・・三の丸まで攻め込みながらも、城を落とす事はできませんでした。
続く26日の戦いでも、やはり攻め手を押し返す城兵に苦戦していたところ、ただ一人踏ん張る米田是政が、鉄砲の雨あられの中、その槍で以って目の前の将兵を突き倒して、城の中へ中へと奮戦・・・これを本陣から見ていた秀吉は、
「なんや、黄色に日の丸の指物(さしもの=戦場で本人の目印となる旗【姉川の七本槍】参照>>)したヤツがメッチャ頑張ってるみたいやけど、誰なん?
忠興のとこの米田みたいに見えるけど、アイツの指物は日の丸ちゃうやんな?」
と、隣にいた小姓に尋ねます。
そこで、戦場を見渡せる位置に行って確認した小姓は、
「やっぱ、アレは米田ですわ。
あの指物は日の丸やなくて、鉄砲の弾が貫通したとこが穴になってて本陣からは日の丸のように見えたようです」
と報告・・・その勇姿に秀吉も大いに感激したのだとか・・・(『細川家記』『細川忠興軍功記』)
同じく26日の戦いに参加していた山内一豊(やまうちかつとよ)は、50騎ばかりの城兵が城外に出て来たのを確認すると、一豊自ら、1番に駆け出して槍で最前線の敵兵を一突き・・・この様子を本陣のある山上から見ていた秀吉が、歓喜のあまりに床几(しょうぎ=折り畳みイス)から転げ落ちたとか・・・
また、一豊の足軽だった小崎三太夫(こさきさんだいゆう)が巽(たつみ)の櫓(やぐら)の堀下から従者の肩を踏み台に、自らの刀をはしご代わりにして、手傷を負いながらも堀をよじ登り、山内の旗を高々と掲げて
「山内猪右衛門(いえもん=一豊の事)、当城の一番乗り~!」
と叫び、味方を奮起させですが、
その一方で、三太夫の巽の櫓への1番乗りを加勢した父の代からの忠臣=五藤吉兵衛(ごとうきちべえ)が一豊の目の前で討死してしまいました。(『山内一豊武功記』『御家中名誉』)
さらに、細川&山内と同じく、この日の先鋒を任されていた加藤清正(かとうきよまさ)は、敵からの鉄砲をかいくぐって突進し、自慢の長槍を敵の鉄砲の筒へと打ち入れて払い落し、すかさず肩先から突き仕留めました。(『清正記』)
てな感じですが、御覧の通り・・・これらの記録は『細川家記』やら『山内一豊武功記』やら『清正記』やらと、どう見ても題名の彼らを主人公にじた軍記物だったり、自己申告的な英雄伝であって、おそらく話は盛に盛られているはず・・・
ただ、それでも一豊家臣の吉兵衛が討死した事なんかは事実とされていますので、やはり、この26日の戦いは激しく、亀山城側にとって、かなりの痛手となった戦いであった事は確かでしょう・・・なんせ、このすぐ後、長島城の一益から、開城を勧める使者が亀山城にやって来るのです。
大軍に囲まれてひと月足らず・・・ここまでよく耐えた、いや、むしろ大軍相手に何度も撃退を成功させつつ守りに守った佐治益氏ではありましたが、天正十一年(1583年)3月3日、亀山城は秀吉方の蒲生氏郷(うじさと=賢秀の息子・当時は教秀?)に開け渡されました。
秀吉は戦後の論功行賞で、氏郷にこの亀山城を与えようとしますが、氏郷が辞退したため、関氏の後継者である一政が治める事に・・・そのおかげで、クーデターを起こした一部の家臣たちも罪を許され、彼らは再び関氏の家臣となって、元のさやに納まったとの事・・・
(【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
とは言え、同時進行の長島城や峯城の攻防戦は、まだ続いています。
【長島城の戦い】>>
【峯城の戦い】>>
しかも、何たって、この開城の6日後に、あの勝家がいよいよ出陣・・・ご存知の賤ヶ岳が待っておりますが、それらのお話はコチラをご参照に↓
【賤ヶ岳前夜】>>
【美濃の大返し】>>
【賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝・自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
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コメント
茶々さん、おはようございます。
今回は賤ヶ岳の戦いについて調べさせていただいたのですが、北伊勢情勢はほとんど知らなかったので大変勉強になりました。
近江の本戦の話が多いので、伊勢の話も大変面白かったです。
細川家の面々が大活躍したのですね。
あと、蒲生氏郷が伊勢を領する端緒がこの戦いだったんですね!
投稿: 鷲谷 壮介 | 2021年1月12日 (火) 08時23分
鷲谷 壮介さん、こんにちは~
そうですね。
ドラマや小説等では、ほとんど賤ヶ岳の本戦しか描かれないので、秀吉大勝のように感じてしまいますが、勝家(福井)→信孝(岐阜)→一益(伊勢)の縦ラインが強固なままだったら、秀吉もかなり危なかったと思います。
投稿: 茶々 | 2021年1月12日 (火) 16時18分