主君からの独立に動く宇喜多直家~天神山城の戦い
天正三年(1575年)4月12日、浦上からの独立を画策する宇喜多直家が挙兵しました。
・・・・・・・・・
長きに渡って中国地方を二分していた山陰の雄=出雲(いずも=島根県東部)の尼子(あまこ・あまご)氏と、山陽の雄=周防(すおう=山口県の東南部)の大内(おおうち)氏を倒して西国の雄となった安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)・・・はじめは、その毛利の要請によって畿内(きない=山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国)より西へと進出しはじめた尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)でしたが、元亀二年(1571年)に、その元就が亡くなって、その後を孫の毛利輝元(てるもと)が引き継ぐ頃には、世に言う「信長包囲網」が敷かれて周囲は敵ばかり。
さらに、信長に京都を追われた第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)が毛利に身を寄せた事から、完全に敵対関係になる両者・・・
信長の命を受けた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が但馬(たじま=兵庫県北部)を、明智光秀(あけちみつひで)や細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部) ・丹後(たんご=京都府北部)を平定するようになって来ると、御大の毛利との間に挟まれた形となる備中(びっちゅう=岡山県西部)やら備前(びぜん=岡山県東南部)やら但馬(たじま=兵庫県北部)やら播磨(はりま・兵庫県南西部)・・・とにかく、そのあたりの諸将は、これまでの領地の取り合いに加え、その身の置き所も模索せねばならないわけで・・・
そんな中、備前天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の浦上宗景(うらがみむねかげ)の家臣でありながら、主君に匹敵するほどの力をつけていた宇喜多直家(うきたなおいえ)は、事実上の備中の覇者となっていた三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)を暗殺してさらに力をつけ、主家=浦上からの独立を画策して毛利に近づきます。
一方の浦上宗景は、主家を凌ぐ勢いを持つようになった直家を恐れ、信長を頼ります。
おりしも今は、備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる一連の戦いが繰り広げられている真っ最中・・・そこで、まず直家は、流浪の身となっていた浦上久松丸(ひさまつまる)を自身の居城=岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)に招いて保護します。
…というのも、そもそもは、
現在の当主である浦上宗景の父=浦上宗村(むねむら)が享禄四年(1531年)に細川管領家(ほそかわかんれいけ=室町幕府管領を代々受け継ぐ細川家)の後継者争いに巻き込まれて亡くなって(11月12日参照>>)、未だ幼き長男(つまり宗景の兄)の浦上政宗(まさむね)が播磨室山城(はりまむろやまじょう=兵庫県たつの市御津町・室津城)にて浦上家を継いだのですが、その兄弟が成長して後、兄と不仲になった宗景が天神山城を築いて離反し、備前の地を横領したといういきさつがありました。
しかもその後、浦上と敵対していた赤松政秀(あかまつまさひで)が政宗の息子の清宗(きよむね)の婚礼の席を襲撃して父子を殺害し、清宗の花嫁になるはずだった黒田職隆(くろだもとたか)の娘を、その弟の誠宗(なりむね・あきむね)の嫁として迎えて、これを浦上の後継ぎとしたのですが、さらにその後、その誠宗を宗景が暗殺・・・つまり、宗景の浦上当主の座は兄一家から奪った物だったわけで……
で、その誠宗の遺児が、上記の久松丸・・・つまり、直家は主家を討つ=謀反ではなく、あくまで「久松丸が正統な跡継ぎである」と主張して宗景の追放を目論んだわけです。
天正三年(1575年)1月、毛利と敵対する美作三浦(みうら)氏との戦い(1月22日参照>>)に参戦する事で毛利の傘下である事=宗景からの離反を明白にした直家は、その年の4月、ついに宗景打倒に動き出します。
天正三年(1575年)4月12日、天神山城の支城の1つである日笠頼房(ひかさよりふさ)の守る青山城(あおやまじょう=岡山県和気郡和気町)を攻略しようと城下にて野戦を展開しますが、この時は日笠勢の勢いに阻まれて撤退・・・
以後5月~7月にかけて、両者の配下の城を巡って、いくつかの小競り合いがあり、ともに取ったり取られたりとなりますが、この間、本家本元の天神山城が堅固な山上に築かれた山城で「ただ単に力攻めしても味方の損失が大きくなるだけ」と察していた直家は、得意の調略で以って城内にいる一部の重臣を味方にすべく誘うと同時に、周辺の国衆にも根回しして天神山城を徐々に孤立させていくのです。
やがて、例の備中兵乱(びっちゅうひょうらん)で毛利と戦っていた松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)が5月に陥落し、翌6月には城主の三村元親(みむらもとちか)が自刃し(6月2日参照>>)周囲との連携も断たれた天神山城は完全に孤立してしまいます。
天神山城合戦・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そんなこんなのある夜(日付については諸説あり)・・・
その日は天神山一帯に、とてつもない風が吹き荒れたのです。
こんな日を待っていたのが、すでに直家に同調している天神山城内の内応者・・・かねてからの計画通り、城内のあちこちに火を放つと、強風にあおられてたちまち燃え上がり、城中は瞬く間に大混乱となります。
この、火が上がるのを待っていた直家が、それを合図に一斉に天神山に攻め登ると、未だ宗景に忠義を貫く譜代の家臣らが応戦しますが、残念ながら次第に討ち取られ、その大半を失ってしまいます。
しばらくは、その様子を見ていた浦上宗景でしたが、敗戦が濃くなる中で側近に勧められ、山の背後から尾根伝いに益原(ますばら=岡山県和気郡和気町)へと脱出し、片上(かたかみ=岡山県備前市)から播磨へと逃走・・・
そこに隠れ住みつつ、幾度か上洛して、お家再興を図るべく信長に謁見するも支援は得られなかったとか・・・
あるいは、一族の浦上景行(かげゆき)が城主を務めていた富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市東片上)に籠城しつつ、天正五年(1577年)から天正七年(1579年)にかけて、天神山城奪回に撃って出るも敗戦したとか・・・
あるいは、ほとぼりがさめた頃に姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)の黒田如水(じょすい=官兵衛孝高・職隆の息子)の保護を受けた後、黒田家の筑前(ちくぜん=福岡県西部)転封にともなって福岡へ行き、そこで80余歳にて病死したとか・・・
浦上宗景のその後については複数の説がありますが、いずれも大勢の変化はなく、結果的に、この天神山城の戦いにて浦上も事実上の滅亡となります。
一方の宇喜多直家は・・・
彼にとっては、この天神山城攻めは、あくまで浦上を追放するための戦いであり、城自体は戦略的価値がなかったと見え、ほどなく城は廃城となり、直家が備前全土の覇者となります。
とは言え、
ご存知のように、直家にとっては毛利との蜜月も浦上追放のためだったようで・・・
勢いづいた信長配下の秀吉が三木城(みきじょう=兵庫県三木市)にやって来る(3月29日参照>>)天正六年(1578年)頃には、今度は信長の傘下に鞍替えして毛利と戦う事になるのですが、そのお話は【宇喜多VS毛利の作州合戦】>>でどうぞm(_ _)m
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コメント
いつも楽しく拝見しています。
文章中盤の その忠宗 の忠宗が誰なのかよく分からないのですが、どなたでしょうか?
投稿: うさくら | 2019年4月12日 (金) 15時07分
うさくらさん、こんばんは~
アチャーq(・・;q)
すみません。。。書き間違いです。
忠宗→誠宗です。
「政宗父子を赤松が殺害して誠宗に浦上を継がせた後に宗景が誠宗を殺害して浦上を乗っ取った」という事です。
早速、訂正させていただきました。
また、お気づきになりましたら、ご一報くださいませ。
ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2019年4月12日 (金) 23時11分
茶々様、こんにちわぁ~(^^)/
今日の記事を見て、いつも不思議に思ってたことをお尋ねしたいのですが...
それは家臣・主君の関係です。
現代の会社でいうなら社長・従業員の関係のように思えます。良い働きをすれば給料が上がる(知行地の増加)、信頼されれば支店長(城を与えられる)みたいな感じに思っています...
では昔からの家臣ではない外様大名、今回の記事で言うなら浦上と宇喜多との関係は...
やはりヤ*ザ映画のように上納金(上納米)のようなものがあったのでしょうか?
じゃないと自分の直轄の知行地は増えないけど外様の家臣に与えてばかりでは力関係が改善しないどころか逆転してしまう。
NHKの『風林火山』で武田信玄は切り取った土地をそのまま その土地の地侍に与えていたような...で、謀反の繰り返しだったような気がします。
そこんとこどうなんでしょう?
投稿: DAI | 2019年4月13日 (土) 11時38分
DAIさん、こんにちは~
難しいですね~
やっぱ、基本的には土地を媒介とした主従関係なんでしょうけど、直接の家臣と同盟を結んでの臣従とは違うでしょうね。
戦いの状況によっては「切り取り次第」のお墨付きを与える場合もあると思いますが、ほとんどは合戦後の論功行賞で知行を決めるんじゃないでしょうか?
その場合は、勝利して奪った土地は、一旦は全部、殿様の物になって、そこから臣下に振り分けるので、自分が損するような振り分け方はしないんじゃないか?と…
もちろん直臣=直営店と臣従=フランチャイズの違いはあると思います。
上納金?というか、贈答品のような物は下からはもちろん、上からもあったと思いますよ。
それこそ、信頼関係で成り立ってますからね。
特に戦国時代は、裏切り・謀反・独立・下剋上…アリアリの世の中なので、与える物と貰う物の微妙な采配が命取りになった時代だったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2019年4月13日 (土) 12時42分
なるほど...でも今回の記事のように力関係が逆転するくらいのイメージが私には分かりません。だって論功行賞の結果、宇喜多が浦上と同等の力を持ったわけですよね...
褒美で知行地を増やす→収入が多くなるので家臣を増やす→力関係が逆転?
....謎だな...
>自分が損するような振り分け方はしないんじゃないか?
戦国時代には斎藤道山・織田信長・上杉謙信・北条など主君(守護)と各武将(家臣)の下剋上は多々 有りますが、これらは力関係が逆転した結果だとは思いますが(まぁ、人望が大きいとは思いますが...)。
私の『上納米』の発想は知行地を与えて、その土地を納めさせてやるけど家賃を払ってもらう事で主君の力が維持できる...このようなシステムがあったのかと思っただけです。
そのうち、記事で取り上げてもらえば幸いです
(^o^)/
毎回 楽しい記事に感謝です。
投稿: DAI | 2019年4月13日 (土) 20時11分
DAIさん、こんばんは~
すみません。
一般的な主従関係ではなく、今回の宇喜多の場合でしたね。。。
m(__)m ペコペコ
宇喜多の場合は、主君=浦上のお家騒動というかモメ事が大きいかも知れませんね。
もともと浦上自身も、四職家だった名門の赤松氏の守護代の時に、あの嘉吉の乱の一件で赤松氏が風前の灯となる中、主君の赤松政則を支えて再浮上させたばかりか、政則急死後に後を継いだ幼い婿養子=赤松義村に代わって政務をこなした事で力をつけて、最終的に謀反を起こして赤松に取って代わるんですが、その謀反の時に、その浦上を支えていたのが家臣の宇喜多能家(直家の父)でした。
で、今度は、このページにも書いた通り、浦上の本流が、かつての因縁で赤松に襲撃され、その後、宗景が取って代わるという、お家騒動みたいな感じになってます。
こんな感じで主家がモメて二派に分かれた事で弱体化する…一方で1番の家臣だった者に信頼が集まり、その下の者が主家ではなく1番の家臣の方に味方してしまう…という感じなのではないでしょうか?
京極家を差し置いて浅井が出て来る時も、斯波を差し置いて浅倉家が出て来る時も、そんな感じだったと思います。
投稿: 茶々 | 2019年4月15日 (月) 01時04分
茶々様、こんにちわ。
なるほど...そんなケースもあるんですね。
現代に言い換えると『会社の経営不振で役員報酬等を減らされた社長の給料よりも固定給を貰ってた社員の方の給料が多くなった』みたいな感じかな?
なるほど...なるほど...
ありがとうございました。
投稿: DAI | 2019年4月15日 (月) 09時57分
DAIさん、こんにちは~
よくよく考えれば、あの三好長慶も、細川家の養子同士のモメ事でゴタゴタしてる間に力をつけて、結局は細川を飛び越えて将軍の足利義輝を京都に迎える感じになってますから、やはり後継者争いの影響は大きいように思います。
DAIさんの質問を受けて、私もハタと考え直す事が、よくあります。
いつもありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2019年4月15日 (月) 15時38分