信長ピンチの「金ヶ崎の退き口」で殿の木下藤吉郎秀吉は…
元亀元年(1570年)4月28日、金ヶ崎城の戦いにて浅井と朝倉の挟み撃ちに遭った織田信長が無事に退くため、織田軍の殿を務めた木下藤吉郎が金ヶ崎城より撤退しました。
・・・・・・・
永禄十一年(1568年)7月に、越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)は、義昭を奉じて上洛すべく、妹(もしくは姪)のお市の方を嫁にやって縁を結んでいた北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)の下を、出発の前月に訪れて上洛の道筋を再確認し(6月28日前半部分参照>>)、永禄十一年(1568年)9月7日、いよいよ岐阜(きふ=岐阜県岐阜市)を出立しました(9月7日参照>>)。
途中、浅井とは逆に上洛の道筋を譲ってはくれなかった六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)(9月12日参照>>)や三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)(9月23日参照>>)などを蹴散らして、無事、上洛を果たし、10月18日に朝廷からの将軍宣下を受けた義昭が第15代室町幕府将軍に就任する(10月18日参照>>)という、ご存知の展開・・・
その後、信長は将軍=義昭の名のもとに、各地の諸将に将軍就任の挨拶に上洛するよう要請するのですが、それを拒んだのが、かの朝倉義景でした。
それは、かつては同じ主君=斯波(しば)氏のもとにいた織田へのプライドなのか?それとも、すでにギクシャクし始めていた義昭と信長の関係(1月23日参照>>)を見据えてか?・・・とにかく、翌年になっても信長の要請を拒みつづけます。
かくして元亀元年(1570年)4月20日、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、同月25日から、朝倉の前線である天筒山・金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始したのです(4月26日参照>>)。
これに困惑したのが近江の浅井長政です。
なんせ朝倉とは長期に渡って同盟を結んでいる旧知の友・・・一方の信長とも、嫁の兄(もしくは叔父)として同盟を結んでいるわけで。
悩んだ末に結局、朝倉に味方する事とした長政に対し、この状況を知った信長が、「このままでは挟み撃ちになる!」とばかりに、即座に撤退を決断し、わずかの手勢を連れて金ヶ崎を出発する・・・という、有名な「金ヶ崎の退き口」ですが、
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
この信長さんの状況については、以前の4月27日のページ>>を見ていただくとして、本日は、その殿(しんがり)を務めたとされる木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし=後の豊臣秀吉)のお話を、『絵本太閤記』に沿ってご紹介させていただきたいと思います。
ご存知のように、殿とは、軍を撤退する時の最後尾の位置・・・合戦における行軍は、向かう時よりも撤退する時の方がはるかに難しく、その中でも最後尾は、敵に追われながらの死を覚悟の乱戦となるは必至な場所ですから、最も危険な任務なわけで・・・
そんな危険な任務に秀吉が自ら名乗り出て・・・と、言いましても、実のところ、この「秀吉が殿軍の大将」という一件に関しては信ぴょう性が疑われる部分もあり、まして「太閤記」などは主人公が秀吉=殿下様々なので、まさにヒーロー伝説盛りまくりな部分も感じられるのではありますが、本日は、そこンとこを踏まえつつ、話半分な感じでよろしくお願いします。
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絶賛攻撃中の4月27日、「浅井長政の挙兵に合わせ、朝倉義景も自らが本拠=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町)を出馬する」。。。との一報が届いた織田軍の陣中にて、すぐに行われた評議の席にて、
「大量の旗を立てて、本隊が本道を退いて行って、本隊に信長さんがおると思って、朝倉の目をソチラに向けて食い止めてる間に信長さんは側近を連れて間道を進んで下さい。
例え朝倉勢が何千何万とおろうとも、この藤吉郎が殿を務め、2~3日は食い止めてみせますから安心しといて下さい」
と、秀吉が殿軍の大将を買って出ると、信長は
「よし!」
と・・・
かくして元亀元年(1570年)4月28日夜、佐久間信盛(さくまのぶもり)や佐々成政(さっさなりまさ)など、一部の諸将を連れて陣を引き払い、西近江路を避けて若狭(わかさ=福井県西部)方面から琵琶湖(びわこ)の西岸を抜けるルートをひた走ります。
一方、柴田勝家(しばたかついえ)や明智光秀(あけちみつひで)、池田勝正(いけだかつまさ)らが率いる総勢6万の本隊(←盛ってるっぽい)は、信長の旗をド真ん中に守りつつ、堂々と本来の近江方面へ向けて撤退を開始します。
これを迎え撃つ浅井長政は、地の利を持つ本願寺門徒が示す要所に軍を配置して、信長と雌雄を決すべく構え、やって来た本隊に向けて鉄砲をお見舞いしますが、やがて、その本隊に信長がいない事を知って、
「どうやら、他の道で逃げたようだ」と察し、
ならば、戦うはムダと判断して、そのまま兵を退きます。
この間に手勢3千人(ホンマかいな?)で以って金ヶ崎に留まっていた秀吉は、残った彼らに向かって、
「俺は、ここで朝倉の大軍相手に稀代の武功を挙げ、先輩たちをアッと言わせたるねん」
と言って、その作戦を伝えます。
おそらく大軍を率いてやって来る義景は、もはや夜の10時を過ぎた今、到着後すぐに戦いを仕掛けて来る事は無いだろうと、まずは蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)・又十郎(またじゅうろう)兄弟に千人を与えて城から離れた(敵をおびき寄せる予定の)道筋に伏兵として隠し、次に堀尾吉晴(ほりおよしはる)らの諸将に500人を付けて、それぞれに松明(たいまつ)と紙で作った旗らしき物を持たせ周辺の山や谷に放ち、合図に応じて一斉に松明に火をつけて旗を照らしつつ徘徊するよう手はずを整えます。
さらに浅野長政(あさのながまさ)に500人を付けて周辺の山々でかがり火を焚き、いかにも大軍がいるように見せ書けるよう頼み、秀吉自身は千余人で以って、城の前面にて構えます。
そこへ、3万5千余騎(←同じく盛ってるっぽい)を率いた朝倉義景が金ヶ崎城周辺に到着・・・しかし、まわりは日暮れはとうに過ぎた暗闇。
その中を遥かに望めば、左右の山におびただしい数の陣がかがり火を焚いて夜営中、
「さては、未だ信長は退いてはいなかったか?」
と思うものの、さすがにこの闇夜では大軍の統率も取り難く、味方の人馬の疲れもあり、朝倉勢も、この近くにて夜営をすべく陣を構えます。
「朝倉が夜営を敷いた」
との知らせを聞いた秀吉は
「計画どおり」
とほくそ笑みつつ、その夜も更けた頃・・・「今だ!」
とばかりに、まずは自身が1500人で以って朝倉の陣営を襲撃します。
朝倉勢が驚いて迎え撃つところに、秀吉の合図にて、四方の山々に隠れていた諸将の軍勢が一斉に松明に火をつけて鬨(とき)の声を挙げると、昼間のように明るくなる中で数え切れぬほどの旗が翻るさまは、まるで大軍が忽然と目の前に現れたかに見え、さらに驚く朝倉軍は、たちまち崩れ、散り散りに敗走していくのです。
そこをすかさず斬りこんで、あたりは瞬く間に屍の山と・・・
もちろん、中には冷静な将もいて、
「慌てるな!敵は小勢や。味方同士で同士撃ちするな!」
と声かけますが、もはや大勢がパニック状態になっている中では崩れていく一方です。
そこを何とか逃げ出せた者にも、前方に待ち構えていた蜂須賀隊が斬って入る・・・そうなると、もはやどうしようもなく、大軍は総敗軍となって、それぞれに落ちて行くのが精いっぱい。
やがて白々と夜が明けると・・・
「…敵を討つ事八千余人、味方の手負い一人もなく…」(『絵本太閤記』談)
(さすがに、これ↑は盛り過ぎか?)
3千余兵は威風堂々と引き取った・・・と、、
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と、まぁ、さすがに秀吉側の死傷者ゼロな点は、話半分どころか、話4分の1くらいな盛り感満載ですが、ご承知の通り、この時の信長が無事この窮地を脱した事は事実ですし、琵琶湖の西を行った信長に対し、越前から近江にかけての敗走の道で、織田軍の殿が頑張った事は確か・・・
また、永禄六年(1563年)から続いていた若狭の武田(たけだ)氏との戦い(8月13日参照>>)の影響で、この頃の朝倉軍はかなり疲弊していたとも言われ、そこに、相手が大軍と言えど、殿軍が奮戦できる余地があったのかも知れませんね。
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