長島一向一揆の討伐に織田信長が出陣
元亀二年(1571年)5月12日、織田信長が長島一向一揆討伐のため5万の大軍を率いて尾張津島へ出陣しました。
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永禄十一年(1568年)9月、今は亡き第13代将軍=足利義輝(あしかがよしてる)の弟=足利義昭(よしあき=義秋)を奉じて(10月4日参照>>)上洛する織田信長(おだのぶなが)は、その行く手を阻む南近江(滋賀県南部)の六角承禎(ろっかくじょうてい・義賢)を蹴散らし(9月12日参照>>)、畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らを、彼らが担ぐ14代将軍=足利義栄(よしひで)&管領=細川昭元(ほそかわあきもと)もろとも阿波(あわ=徳島県)へと退かせ(9月7日参照>>)、無事、義昭を第15代室町幕府将軍の座に座らせました(10月18日参照>>)。
しかし、その後、何度かの打診にも関わらず、いっこうに新将軍への挨拶に来ない越前(福井県)一乗谷の朝倉義景(あさくらよしかげ)に対し、信長が、元亀元年(1570年)4月、その最前線となる手筒山・金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始する(4月26日参照>>)と妹(もしくは姪)のお市の方を嫁がせて味方につけていたはずの北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)(2011年6月28日の前半部分参照>>)が、朝倉方にて参戦して来た事から、挟み撃ちを恐れた信長が撤退・・・これが有名な「金ヶ崎の退き口」ですが(4月27日参照>>)、、、
ここで危機一髪の苦汁をなめさされた信長は、2か月後に近江へ侵攻して、浅井朝倉連合軍との姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利します(6月28日参照>>)。
しかし、ここで深追いせずにいた事で、ある程度の力を温存できた浅井朝倉が南下して来て、宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)や堅田(かただ=同大津市)の戦い(11月26日参照>>)などで抵抗し、そこから逃げた残党を比叡山延暦寺(えんりゃくじ=同大津市)が匿った事が翌年の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)へと発展して~と、ここらあたりから、いわゆる「信長包囲網」が形成されていくわけですが・・・
信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そんな浅井朝倉とドンパチやってる真っただ中でも信長は忙しい・・・畿内に舞い戻って信長に抵抗していた三好三人衆との野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の戦い(8月26日参照>>)さ中の元亀元年(1570年)9月、この野田福島の戦いに本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が参戦して来たのです(9月13日参照>>)。
実は、
もともと本拠としていた山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を40年ほど前に焼き討ちされた(8月23日参照>>)後、浄土真宗本願寺が現在本拠としていたのが、かつて第8代法主=蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の隠居所だった大坂御坊(3月25日の後半部分参照>>)=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市・現在の大阪城の場所)だったのですが、ここ最近、この絶好の場所を「譲ってほしい」と信長が言って来ており、それに対抗すべく全国の信徒に向けて一揆を蜂起するよう檄文を発布し、自らが先頭に立っての参戦でした。
・・・で、
「教祖様が立ちあがったひにゃ、ワシらも!」
とばかりに蜂起したのが、木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)の河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)の本願寺門徒・・・ここは、室町中期に蓮如の息子である蓮淳(れんじゅん)が願証寺(がんしょうじ)を建立して以来、寺を中心に本願寺門徒が周辺の国人領主(地元に根付いた武士)を取り込んで、砦などを設けて武装化した本願寺門徒の一大拠点となっていた場所でした。
元亀元年(1570年)11月、武装した一揆衆は、代々伊藤一族が城主を務めていた長島城(ながしまじょう=三重県桑名市)に大軍で押し寄せて伊藤一族を追放して城を奪取した後、この長島城を拠点に、信長の弟=織田信与(のぶとも・信與)が守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃し、信与を自害に追い込んだのです(11月12日参照>>)。
長島一向一揆&小木江城の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
弟が犠牲になったのですから、そりゃもう、信長さんも激おこMAX!!
早速信長は、未だ絶賛戦闘中の六角承禎父子らと和睦したり、足利義昭などを通じて浅井朝倉などとも和睦調停を結び、とりあえずこの年の暮れには、一旦、周辺を落ち着かせる事に成功します。
ところが、翌元亀二年(1571年)早々、信長配下で横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を任されていた木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)を佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)をごと寝返らせた(2月24日参照>>)事から、5月 6日、今度は浅井長政が、その前年に浅井から織田へと転身した堀秀村(ほりひでむら)らが守る箕浦城(みのうらじょう=滋賀県米原市箕浦)を襲撃・・・これに近江の一向一揆が浅井を加勢します。
しかし、即座に反応した秀吉が見事これを鎮圧・・・(5月6日参照>>)
これに気をよくした信長は、元亀二年(1571年)5月12日、長島一向一揆をせん滅すべく5万の大軍を長島に派遣し、自らも尾張津島(つしま=愛知県津島市)まで出陣します。
津島に着陣すると同時に信長は、佐久間信盛(さくまのぶもり)以下、浅井政貞(あざいまささだ)、和田定利(わださだとし)らの一隊を中筋口(長島町大鳥居)の島東部から、柴田勝家(しばたかついえ)以下、氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)、稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)、不破光治(ふわ みつはる)らの一隊を揖斐(いび)川西岸の多岐(たぎ)山麓から太田口に向かって進撃させました。
5月16日、周辺の村々に放火した織田軍は、この日は、そのまま退去するつもりで兵を退きあげようとしますが、一揆勢は、そこをすかさず山側に移動・・・待ち伏せの体制を取り、眼下の道を織田軍の最後尾が通るタイミングで以って、待機していた弓&鉄砲の名手が一斉に射撃を開始すると同時に歩兵がドッと攻めかかります。
右は揖斐川、左は一揆の射撃隊がいる山の崖・・・しかも崖の下のこの道は、騎馬なら一騎ずつしか通れないような細い道で、もし敵に出会おうものならお互いに一騎打ちで対戦するしかないような場所でした。
そう・・・地の利を知る一揆勢が、少数で大軍を迎え撃つために選んだ最高の場所だったというワケです。
混乱する中でも戦う織田勢・・・織田軍本隊と、少し先を行っていた佐久間隊は、すぐに兵を退かせる事に成功しますが、殿(しんがり=軍隊の最後尾)を務めていた柴田隊は完全にピンチ!
それでも、踏ん張って防戦する柴田隊でしたが、惜しくも勝家自身が負傷したため撤退します。
その後、殿の2番手だった氏家隊が敵を受け止めて戦いを継続しますが、残念ながら氏家卜全は討死してしまいました。
もちろん、彼らの配下の将兵の死傷者は数知れず・・・信長による長島一向一揆攻めの初回は、見事な敗北となってしまったのです。
この後、9月には
【近江一向一揆】>>
例の
【信長の比叡山焼き討ち】>>
さらに、その翌年には
【越中一向一揆】>>(←これは上杉謙信との戦いですが)
と、一向一揆は激しさを増していきますが、
どうやら、一揆側も一枚岩では無いようで・・・と、そのお話は【石山本願寺の総大将・下間頼総の追放】>> でどうぞm(_ _)m
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コメント
お久しぶりです。
大阪史跡旅ではお世話になりました。
一般レベルの歴史では、華々しく活躍した信長さんですけど詳しく知るほどピンチの多い人生送ってますよね!
敵に包囲されまくりです(笑)
私は明日からGWの振替休日で長野・新潟に上杉謙信女性説を検証すべく旅に出ます〜!
茶々様はGWは、楽しめましたか?
(#・∀・)
投稿: 真 | 2019年5月13日 (月) 12時44分
真さん、こんにちは~
私は…寝GWでしたww
長野・新潟の旅、楽しんで来てくださいませ。。。
投稿: 茶々 | 2019年5月14日 (火) 09時54分