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2019年5月25日 (土)

本多政康の枚方城の面影を求めて枚方寺内町から万年寺山を行く

 

不肖私は、大阪城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を間近に仰ぎ見つつ生まれ育ち、長じて枚方(ひらかた)or高槻(たかつき)にて仕事に従事しつつ、10年間の富山(とやま)生活を経て舞い戻り、今もなお、ドップリのおけいはん(京阪電車を利用する人)なわけですが・・・

そんな京阪電車の主要駅の一つである枚方は、もともと京都と大坂の中間地点にある交通の要所でありましたが、かの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川の氾濫を防ぐため、文禄三年(1594年)に構築を開始した文禄堤(ぶんろくつつみ=完成は慶長元年1596年)に沿って京都と大坂を行き来する京街道(きょうかいどう)を整備した後、徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を大坂まで延長して、その途中となる伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で益々賑やかな宿場町へと発展・・・

さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになり(2007年8月10日参照>>) 、そこに、先の大坂の陣にて家康一行を救った功績により天下御免のお墨付き=独占営業権をもらった船頭たちが運営する「くらわんか舟」なる名物も登場して、益々賑やかになって行く・・・【枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話】も参照>>)

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三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

とまぁ、そのような宿場町としての枚方の話は有名なのですが、実は、未だ江戸になる前の豊臣の時代には、ここ枚方にも枚方城(ひらかたじょう)というお城があったのですよ。

『日本城郭大系』によると、
この枚方城を居城としていたのは百済王氏(くだらのこにきしし)の末裔を称する本多政康(ほんだまさやす)という人物で、城の立地は枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている条件の良い場所であるものの、その遺構は残っていない・・・との事で、現在、枚方小学校が建っている場所が城の比定地とされています。

Dscn2774a 実は、この枚方は、かつて朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)に攻められて滅亡した(8月27日参照>>)百済(くだら)の王の一族が亡命して移り住んだ地とされ、奈良時代から平安時代にかけて活躍した彼ら一族は百済王の姓を得て、河内守(かわちのかみ)に任ぜられ、奈良時代中期に建立されたとされる百済王氏の氏寺である百済寺(くだらじ)の跡も、枚方を流れる天野川(あまのがわ)の東側にて発掘されていします。

なので「百済王の末裔」の話も、あながち荒唐無稽とは言い難い雰囲気です。
(ちなみに、長野の善光寺を創建した飛鳥時代の人物=本多善光(ほんだよしみつ=本田善光)と同流とも言われます)

に、しても、推定地が枚方小学校の場所とされていても、現段階では遺構がまったく無い状況では寂しい・・・ここは一つ、地元の地の利を活かし、ちょっくら、在りし日の枚方城の姿を妄想してみるのも一興かと、周辺を散策してみる事に・・・

なんせ、小学校のある場所は、万年寺山(まんねんじやま)と呼ばれる山の、ほぼ1番高い場所なので、戦国後期の城郭の雰囲気を考え、かつ上記の『日本城郭大系』 の記述を踏まえれば、おそらくは、ここを主郭とし、天然の山の高低差をうまく利用した平山城の造りになっていたでしょうかからね・・・(ただし、このあたりはほとんど住宅開発されているので、あくまで、現在の高低差から想像する状況である事は否めないところではありますが)

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写真①枚方大橋南詰から見た万年寺山(正面右寄りに見える小高い森が万年寺山です)

このブログでも度々ご紹介しております通り、現在、この万年寺山には梅林で有名な意賀美(おかみ)神社(2月27日参照>>)が鎮座しますが、もともとは、古墳時代前期と思われる古墳(万年寺山古墳)があったものの、経年により、その存在が忘れ去られた推古天皇(592年~628年)の時代に、高句麗(こうくり)の僧=恵灌(けいかん)が草庵を営み、それが、万年寺の基となりました。

やがて平安時代の僧=聖宝(しょうぼう)が開祖となって名称も万年寺となり、貞観十四年(872年)に流行した疫病の終息祈願のために境内に牛頭天王(ごずてんのう)を祀る須賀(すが)神社を建立・・・明治になる前は神仏習合(しんぶつしゅうごう=仏が神となって現れる考え方)が一般的で、お寺の中に神社があったり、神社にお寺がくっついているのはごくごく当たり前で、その形のまま、平安~江戸を生き抜いた万年寺でしたが、その後、明治維新を迎えますが、ご存知の明治初期の神仏分離&廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により万年寺が廃寺とされ、残った須賀神社に、山の麓の鎮守の神であった意賀美神社と日吉神社を合祀して、現在の意賀美神社に至る・・・という事です。

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万年寺の面影を残す十三重の石塔

また、戦国時代の永禄二年(1559年)には、万年寺より南西側の高台の御坊山(ごぼうやま)周辺に本願寺8代蓮如(れんにょ)の13男である実従(じつじゅう)による枚方御坊順興寺(じゅんこうじ)が営まれ、この順興寺を中心に枚方寺内町(じないちょう・じないまち=寺院や坊を中心に形成された自治集落で濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持つ)ができていましたが、元亀元年(1570年)、 例の織田信長(おだのぶなが)包囲網に本願寺代11代顕如(けんにょ=蓮如の玄孫)が参戦(9月12日参照>>)・・・いわゆる石山合戦が勃発した事から信長の焼き討ちに遭い、順興寺は焼失していまいます。

Dscf4139a650tt ★現在の御坊山(順興寺跡地)には実従上人のお墓があります→

しかしながら、順興寺はなくなったものの、町衆の経済&流通中心の寺内町の機能は残り、 やがて慶長十六年(1611年)に順興寺が枚方御坊(後に願生坊に改名)として現在の場所(枚方元町)に復活(同時期に大隆寺も建立)・・・

万年寺山と御坊山に挟まれたそこは、江戸時代を通じて枚方宿の物資の流通を担う問屋場の一時保管の場所として蔵が建ち並び、ここから三矢の浜(淀川の浜辺です)あたりまでは蔵の谷と呼ばれる地となります。

つまり、豊臣の時代=枚方城があった時代は、万年寺山には万年寺と須賀神社と枚方城があり、順興寺を失った枚方寺内町が京街道の宿場町の様相へと変化する転換期という事になります。

で、そんな中で、その位置を探る1番の目安となるのは、以前もご紹介した意賀美神社の梅林の西側にある御茶屋御殿(おちゃやごてん)跡・・・(9月27日参照>>)

三矢村(みつやむら=現在の枚方市三矢町)に残る記録『奥田家文書』によれば、自らの家臣となった本多政康の娘=乙御前(おとごぜん)をたいそう気に入った秀吉は、文禄四年(1595年)に、京街道を見下ろすこの地に彼女のための御殿を建てて側室とした事で、以来、この万年寺山は御殿山とも呼ばれ、政康の本多家も大いに栄えたものの、あの大坂の陣>>で豊臣方についた本多政康は討死し、本多家も豊臣とともに滅亡して枚方城は廃城となってしまったとか。。。

ただ、その後も御茶屋御殿は残り、元和九年(1623年)には、家康の後を継いだ第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠(ひでただ)の宿泊施設として大改築されたものの、その後は利用される事無く、倉庫のようになっていた中、延宝七年(1679年)に起こった枚方宿の火災によって延焼&焼失したと伝えられます。

Dscf3884a この御茶屋御殿跡は、万年寺山の北端の位置にあたり、そこから北側はかなり高低差のある斜面となっていて、淀川の流れが望める風光明媚な場所で、すぐ下には京阪電車が走っています(写真②御茶屋御殿付近から北面を望む↑)

また、御殿跡から続く神社参道には、「長松山萬年寺」と刻まれた石柱や十三重の石塔があり、これが万年寺の名残り・・・つまり、この周辺が万年寺の境内だった事がわかりますので、おそらく枚方城の建物などは、ここから南に建っていた物と思われます。

で、ここから、そのまま南に参道沿いを進んで行くと、大きな(むく)の木を従えた田中家鋳物工場跡(たなかけいものこうじょうあと)に行きつきます。

この椋の木は、枚方市の天然記念物に指定されており、樹齢600年~700年と言われていますので、つまりは、ここに枚方城があった時から(こんなに大きくないかも知れないけれど)立っていた事になります。
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↑写真③椋の木の東側の斜面(パノラマ撮影・左上の大きな木が椋の木です)

代々鋳物師(いもじ)として繁栄して来た田中家の歴史は古く、元明天皇の和銅年間(708~15年)の頃には、すでに鋳物職を生業とし、皇室から硬貨の鋳造を命じられたりしていたそうですが、この地に工場を構えたのが確実視されるのは安土桃山時代以降・・・椋の木は鋳物製品の研磨に用いられていた事から、「鋳物師あるところムクノキあり」と言われるそうなので、察するに、枚方城が廃城となるかならないかのあたりに、この大きな椋の木を求めて、田中家が、この地に移転して来られたものと思われますが、この椋の木の東側が、これまた崖のような高低差となっています。

そして、この田中家鋳物工場跡を、さらに南に進んで行くと、枚方城の比定地とされる枚方小学校となるのですが、この枚方小学校のグランドの南東側に隣接する坊主池公園との高低差が、またまたスゴイ事になっているのです。

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(写真④小学校横から坊主池公園への高低差↑左)
(写真⑤坊主池公園側から小学校への高低差を仰ぎ見る↑右)
↑の右写真では、光が飛んで見え難くなってますが、階段を上った上に小学校グランドのネットが肉眼では見えているんです。
小学校の建ってる場所はけっこう平坦なので「わざとやろ?」っていうくらい、いきなりの崖ですww

Dscf4150a1000 (写真⑥御坊山(右手前)麓から万年寺山(奥)を望む→)
また、万年寺山から蔵の谷を挟んで南西側の御坊山(順興寺跡地)には、現在は実従上人の墓所となっていますが、この御坊山の周囲もメチャメチャ崖なんですよ。

・‥…━━━☆

ではでは、
Hirakatazyou1 この周辺の「地理院地図」>>をお借りして、

Hirakatazyou2 そこに高低差(起伏)を示した地図を重ね、

上記の目安となる場所を書き込んでみると……こんな感じ↓

Hirakatazyou3c
万年寺山の高低差を踏まえ、その高低差を天然の要害として利用したとすれば、おそらく、この地図の真ん中あたりに城の様々な建物が構築されていたと思われます。

これなら、上記の『日本城郭大系』にあった「枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている」という条件にも当てはまります。

Hirakatazyou4c ←の、未だ宅地開発される前の大正十一年(1922年)の古地図を重ねてみても、なんとなく納得の雰囲気ですね。

京街道沿いには、すでに家屋が建っていますが、万年寺山には田中家あたりに家があるものの、まだ多くが、そのままの状態になっているように見えます。

とは言え、御坊山周囲の崖的な雰囲気を見てもお解りの通り、先の寺内町時代にも、交野(かたの)など、近隣の村々からの侵入を防ぐための土塁や土居堀などが構築されていたようですから、枚方城オリジナルではなく、すでにあったそれらの防御策を利用しての構築だったと思われますので、そこも加味して考えないといけませんが。。。

てな事で、今回は、地の利を活かし、かつて枚方にあった枚方城の痕跡を求めて、周辺を散策してしてみましたが、少しは垣間見えたでしょうか?

写真は地図も含め、すべてクリックで大きく表示されますので、じっくりと、その高低差を確認してみてください。
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