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2019年6月26日 (水)

本能寺の変の余波~前田利家に迫る石動荒山の戦い

 

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変での織田信長の死を受けて、能登での前田利家支配に反発する石動山天平寺衆徒による一揆=石動荒山の戦いが起こりました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、ご存知のように京都の本能寺(ほんのうじ)にて、織田信長(おだのぶなが)が、すでに家督を譲っていた嫡男=織田信忠(のぶただ)とともに死亡します(2015年6月2日参照>>)

この時の信長は、すでに天下に1番近い男とは言え、未だ配下の武将たちは、3ヶ月前に切り取ったばかりの武田(たけだ)領地(3月24日参照>>)維持管理や未だ従わぬ者との交戦に翻弄していたので、信長横死の知らせを聞いた諸将は、すぐでも京都に向かい、仇となった明智光秀(あけちみつひで)を討ちたいところではあったものの、なかなか思うようには動けなかったわけで・・・

北陸柴田勢魚津城の攻防>>
中国羽柴勢備中高松城の水攻め>>
甲斐河尻秀隆(かわじりひでたか)武田残党&甲州一揆>> 
上野滝川一益(たきがわかずます)神流川の戦い>>
信濃森長可(もりながよし)東濃制圧戦>> 
美濃の=稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)本田・北方合戦>>

また、当日、本能寺の1番近くにいて1番早く異変を知った徳川家康(とくがわいえやす)は、わずかの側近しか連れていなかったため、決死の伊賀越え(6月4日参照>>)で領国へと戻り、その後は自身の領地拡大を狙って天正壬午の乱へ突入>>
ま、家康は信長の家臣ではなく、あくまで同盟者なので…

そして、ご存知のように・・・
そんな中でいち早く合戦を休止して(6月4日参照>>)中国大返しで以って畿内に戻り(6月6日参照>>)、四国方面への出兵の準備中だった信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)丹羽長秀(にわながひで)らと合流して、6月13日の山崎の合戦(6月13日参照>>)にて光秀を敗走からの死亡に追いやったのが、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)だったわけです。

一方、上記の通り、北陸にて越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と交戦中だった柴田勢・・・上杉配下の魚津城(うおずじょう=富山県魚津市)を陥落させたのが、本能寺の変の翌日の6月3日で、その異変の一報を知ったのが、さらに翌日の6月4日でした。

上杉謙信(けんしん)亡き後の後継者争いのゴタゴタ(3月17日参照>>)があったため、信長サイドに越中(えっちゅう=富山県)奥深くまで侵入され(10月4日参照>>)、今回の魚津城攻防戦でも、援軍として近くまで行ったものの、結局、静観するしかなかった景勝ではありますが、「信長が死んだ」となれば話は別・・・その混乱に乗じて侵撃に転じるやも知れませんから、先の魚津城攻防戦に参加していた織田政権の北陸担当の面々も、うかつに領地を離れられず、むしろ今以上に防備を固める事に力を注がねばならなくなっていたのです。

織田政権下のでの北陸方面担当は、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)柴田勝家(しばたかついえ)を筆頭に、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)佐久間盛政(さくまもりまさ)などなど・・・

Maedatosiie 『高徳公親翰』なる史料には、この時の前田利家が、
「山崎の合戦にて逆臣の光秀が討たれた事は、まことにめだたい事ですが、当地では浪人が一揆の準備をしているとの噂があったので僕は光秀討伐には参加できませんでした」
的な事を、柴田勝家に報告している事が記録されています。

そう、この時、信長死亡のドサクサで一揆を起こしたのが、かねてより能登(のと=石川県の能登半島)にて利家に反発していた石動山天平寺(いするぎざんてんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町)の衆徒でした。

一揆方は、かつて、能登守護であった畠山(はたけやま)氏の内紛の際に上杉に寝返った事で(9月13日参照>>)、逆に信長を味方につけた長連龍(ちょうつらたつ)によって七尾城を追われ(10月22日参照>>)、その後、上杉領内に亡命していた旧畠山の重臣の温井景隆(ぬくいかげたか)三宅長盛(みやけながもり)兄弟と、そのゴタゴタで一族を失った遊佐景光(ゆさかげみつ=遊佐続光の孫?)らに、
「速やかに援軍を出してくれたら、コチラもお宅らをお助けしまっせ」
と声をかけます。

もちろん、彼ら兄弟にとっては失地を回復するまたとないチャンスですから、この船に乗らない手はありません。

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石動・荒山の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十年(1582年)6月23日早朝、上杉景勝の計らいにより、越後の兵・約4千騎(3千とも)を借りた温井らは、海路から越中女良浦(めらのうら=富山県氷見市女良)に上陸し、その日のうちに石動山天平寺へと入り、翌日から早速(とりで)の構築に取り掛かりました。

砦が構築されたのは、七尾街道で芹川(せりかわ=同鹿島郡中能登町)から氷見(ひみ=富山県氷見市)へと抜ける国境にある荒山(あらやま)の北に位置する四方が崖に囲まれた要害の地で、天平寺の南西1kmほどの地点にあり、寺を守るには完璧な場所でした。

とは言え、さすがに、すぐさま完璧な砦が構築できるわけではないですので、この温井らの行動を知った前田利家は、翌日の6月24日付けで、柴田勝家と佐久間盛政宛てに援軍要請の手紙を送り、砦が完成する前に叩く事に・・・

早速、この要請を受けた佐久間盛政が6月25日に兵を率いて出陣して芹川付近に野営すると、前田利家も七尾を出陣して石動山と荒山の中間地点にある芝峠(しばとうげ=同鹿島郡中能登町)に布陣します。

こうして準備を整えた翌日の天正十年(1582年)6月26日、そうとは知らぬ温井勢が一揆の衆徒らとともに荒山砦の修築に石動山を出て来たところに、一気に攻撃を仕掛ける前田軍・・・混乱した一揆軍は、温井&三宅の軍団は石動山へ、遊佐の率いる軍団は荒山の要害へと逃げ込んで体制を整えようとしますが、これが、お察しの通り、前田サイドから見れば、完全に一揆軍を分断した形となったわけです。

これを知った佐久間盛政は、チャンス!とばかりに一斉に荒山砦に向かって攻撃を開始します。

至近距離で銃弾が飛び交う激しい戦いとなる中、温井景隆&三宅長盛兄弟は壮絶な討死を遂げ、天平寺衆徒で「今弁慶」と呼ばれていた猛者=般若院(はんにゃいん)は、まさに弁慶(べんけい)の如く無数の矢を受けて倒れます。

こうして形勢不利となっていく一揆勢・・・温井配下の者には「もはやこれまで!」と自刃する者も出る中、一部の衆徒は石動山目指して逃走しますが、これらの大半は、すでに石動山方面の守備を固めていた拝郷家嘉(はいごういえよし=織田政権の大聖寺城主)によって討たれてしまいました。

一方、早朝に一揆勢の分断に成功した前田利家は、かの長連龍や配下の奥村永福(おくむらながとみ=前田家臣)らを率いて石動山へと進み、仁王門から侵入して天平寺を急襲します。

護摩祈祷中だった僧侶らが驚いて逃げ惑う中、数百人を撫で斬りにする地獄のような光景だったとか・・・

さらに、討ち取った千余りの首を山門に並べたうえ、利家配下の伊賀の忍びによって堂宇(どうう)に火がかけられ、石動山は全山焼亡し、それはまるで、信長の比叡山焼き討ちのようだったと伝わります。

とは言え、これにて前田利家による能登の支配は確立されました。

また一説には、この時、援軍としてやって来ていた佐久間盛政は、実はこのドサクサで利家を背後から攻めて能登を奪い取るつもりでいたので、それを防ぐために長連龍が寺に火を放った・・・てな話もありますが、その話が記されているのが『長氏家譜』という連龍サイドの文献なので、おそらくは、この戦いにより、利家と長連龍との関係が強固な物になって、この後、連龍&その子孫は前田家の家老として加賀藩を支える事になるという、後日談ありきの創作ではないか?とされています。

と、まぁ、ここまで名前だけ登場して本人様が出て来なかった柴田勝家・・・ご存知のように、今回の合戦の翌日が、あの清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)(6月27日参照>>)なので、援軍の手配はしたかも知れませんが、勝家自身は、清須会議への準備に勤しんでいたか?と思われます。

ドラマ等では、本能寺からの秀吉の光秀討伐の後は、話が清須会議に飛ぶ事が多いですが、冒頭に書いたように、甲斐や信濃etcそして今回の荒山と、複数の争いが一斉に起こっています。

信長の死が、かなりの混乱を与えていた事がわかりますね。
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2019年6月20日 (木)

明智光秀の丹波攻略最終段階~和藤合戦と山家城の戦い

 

天正八年(1580年)6月20日、城の破却に応じない和久左衛門佐の山家城を明智光秀が攻撃しました。

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兵庫県の北東部と京都府の中部にまたがる広大な丹波(たんば)の地は、室町幕府政権下において守護=細川氏が長きに渡って支配する所でありましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の時に、東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の下で活躍した功績により多紀郡(たきぐん=現在の兵庫県丹波篠山市付近)を与えられた波多野(はたの)一族が、その後の、細川家内のゴタゴタ(2月13日参照>>)の隙間を縫って力をつけて行き、波多野元清(はたのもときよ=稙通)の時代に、八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)にて独立し、その孫(曾孫かも)波多野秀治(ひではる)の頃に全盛期を迎え、もはや丹波一円を支配するほどになっていきます。

しかし、そんな中、天正の頃から、畿内より西の中国地方(山陽&山陰)に手をのばしはじめたのが、ご存知、織田信長(おだのぶなが)

とは言え、この信長の中国地方侵出も、はじめは・・・
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛して(9月7日参照>>)、ほぼほぼ畿内を制していた信長に対し、自らが滅ぼした周防(すおう=山口県)大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党と交戦中の安芸(あき=広島県)毛利元就もうりもとなり)が、その背後を突こうとする出雲(いずも=島根県)尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党と、それに協力する但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と依頼して来た事がキッカケだったわけですが、

その後、山名も尼子も信長の傘下となるのですが、逆に、足利義昭が信長と敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)北近江(きたおう=滋賀県北部)浅井(あざい)に味方し、そこに本願寺顕如(けんにょ)が参戦(9月12日参照>>)し・・・となって、結局、毛利も信長に敵対するに至って、この中国地方は西の大物=毛利と、畿内の織田に挟まれる形となったのです。

で、元亀四年(天正元年=1573年)の7月には、その義昭を追放(7月18日参照>>)、続く8月には朝倉(8月20日参照>>)と浅井(8月28日参照>>)を倒した信長は、各地に起こる本願寺門徒の一向一揆も徐々に制圧していった(長島>>越前>>)天正三年(1575年)頃から、いよいよ中国地方の平定に乗り出し、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)但馬播磨(はりま=兵庫県南西部)方面の攻略を(10月23日参照>>)明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波丹後(たんご=京都府北部)方面の攻略を命じたのです。

はじめは信長に好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)が途中で毛利に転じ、それに同調した波多野も敵に回る中、籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)こそ、すんなり落とせたものの(10月29日参照>>)、波多野の八上城(1月15日参照>>)と赤井の黒井城は(8月9日参照>>)は、なかなかの苦戦だったわけで・・・

そこに同調したのが、丹波の土豪(どごう=土地に根付く小豪族)たちでした。

一旦、丹波をほぼ制覇していた波多野が、今回、ゴタゴタしている事で勢いづいた彼らが、チャンスとばかりに領地拡大に動き出したのです。

その一人が八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)・・・この人は、もとの名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、江口の戦い (6月24日参照>>)に勝利して戦国初の天下人となるあの三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣として頭角を現し、信長からも一目置かれていた松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟ですが、遅咲きの兄より、むしろ彼の方が先に三好政権下で大活躍をし、長慶の信頼も厚かった中で、波多野元清らに八木城を攻められて戦死した内藤国貞(くにさだ)に代わって城を奪還し、その国貞の娘と結婚して内藤氏を継いでいたのでした。

『内藤丹波年代記』等によると・・・
天正四年(1576年)、この機会に綾部(あやべ=京都府綾部市)福知山(ふくちやま=同福知山市)方面を抑えようと考えた宗勝は、その2月、高津(たかつ=綾部市高津町)に入り、綾部に根を張る大槻(おおつき)高津城(たかつじょう=綾部市高津町)栗城(くりじょう=綾部市栗町)を陥落させて、4月には山家城(やまがじょう=綾部市広瀬町)に拠る和久左衛門佐(わくさえもんのすけ=義国?)を攻めたのです。

和久左衛門佐は山家(やまが=綾部市東山町)から和知(わち=京都府船井郡京丹波町)口上林(かんばやし=綾部市武吉町)一帯を領域としていた丹波の武将で、福知山一帯を領していた横山城(よこやまじょう=京都府福知山市・後の福知山城)城主=塩見頼勝(しおみよりかつ)の3男か4男とされ、もともと本城としていたのは福知山にあった和久城(わくじょう=福知山市厚安尾)でコチラの山家城は支城の一つだったようですが、丹波内の紛争により、どこかの段階で和久城を捨て、山家に移っていたらしい・・・(←このあたりは不明瞭)

とにもかくにも、ここで約3000の大軍を率いて下原(しもばら=綾部市下原町)まで侵攻して来た内藤軍を迎え撃つべく、和久方は客将の白浪瀬忠次(しらはせただつぐ=白波瀬忠義とも)が家臣16名と郷土民=数百名を率いて防戦を試みますが、なんせ多勢に無勢・・・劣勢に次ぐ劣勢で、どうにも勝ちが見えないため、やむなく一旦、休戦&和議を申し出る事に、、、

しかし、実はこれが、相手を油断させる作戦で、和議をすると見せかけて下原にある庵に内藤方を誘い込み、真夜中に急襲したのです。

おりしもその日の夜は、激しい風雨吹き荒れる真っ暗な夜・・・いきなりの襲撃に慌てて敗走する内藤勢でしたが、ここは和久領にて地の利もなく、ましてや雨風にさらされて逃げる足取りも重く疲れる。。。

なんとか八木城を目指していた内藤宗勝自身も、途中で力尽きたところを白波瀬の兵に囲まれて討たれしまったとの事。

この天正四年(1576年)の戦いが和藤合戦(わとうがっせん)と呼ばれる戦いです。

ただ、この一連の流れは、上記の『内藤丹波年代記』他、複数の文献で天正四年(1576年)8月4日の出来事としていますが、永禄六年(1563年)の出来事としている文献もあり、また、内藤宗勝の討死の時期&場所については、永禄八年(1565年)の8月2日の黒井城攻撃中とする説もあるようなのですが、

現在の綾部下原には、今回の和藤合戦の古戦場とされる場所があり、宗勝は古戦場内にある戦死したその場所=備州ヶ尾に葬られていると伝えられています。

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★山家城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで・・・
そんなこんなしてるうちの天正七年(1579年)、各地の籠城戦に手間取っていた信長の丹波攻略が一気に動き始めます。

この年の5月になって、信長が光秀の支援をすべく、羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)丹羽長秀(にわながひで)丹波に派遣します。

その5月4日に羽柴秀長が波多野の支城である氷上城(ひかみじょう=兵庫県丹波市・霧山城とも)を落とすと、丹羽長秀が19日に玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)を攻略し、6月4日には、明智光秀もようやく八上城を落とし、続いて、8月9日には黒井城を攻略し、さらに8月20日には塩見氏の横山城猪崎城(いざきじょう=同福知山・猪ノ崎城)(7月22日参照>>)も落とします。

その後、その横山城は福知山城と名を変えて明智の城となり、10月にはウキウキモードで丹波の平定を信長に報告しています(10月24日参照>>)

この横山城の塩見とは・・・そう、山家城の和久左衛門佐の本家です。

この時の和久左衛門佐は、自身の城の破却を条件にいち早く降伏し、一族の皆が自刃あるいは討死する中で、なんとか、その血脈を残す事に成功しました(5月19日参照>>)

とは言え、どうにもこうにもかなわぬ大軍相手に一応、条件を呑んで降伏はしてみたものの、和久左衛門佐としては何とか山家城の破却は免れたいわけで・・・

そこで左衛門佐・・・山家城の城郭内には照福寺(しょうふくじ=現在は綾部市鷹栖町)という寺が建っていた事を理由に、
「ここは城ではなく、寺なんで…」
と、光秀からの再三の破却命令を、のらりくらりとかわしながら約1年間やり過ごして来たのですが、そんなこんなの天正八年(1580年)6月20日さすがにブチ切れた光秀が山家城に攻撃を開始します。

そうなると、「さすがに太刀打ちできない」と判断した左衛門佐は、城を捨てていずくともなく逃げ延びて行ったとか、
また、この年の8月に光秀に誘い出されて騙し討ちされたという話もあります。

とにもかくにも、これにて明智光秀の丹波攻略は完全に終了した・・・という事になります。

・‥…━━━☆

これ、来年の大河ドラマでやってくれるのかな?
友人に(本人曰く)この後は綾部の山奥に隠れ住んで血脈をつないだという和久さんの子孫がいてはるので、やってくれるとウレシイかも・・・
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2019年6月14日 (金)

豊臣秀吉の小田原征伐~鉢形城の攻防戦が終結

 

天正十八年(1590年)6月14日、豊臣秀吉の小田原征伐における攻防戦で鉢形城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(参照>>)後に、その傘下を引き継ぐ(参照>>)傍ら、畿内(参照>>)、四国(参照>>)、北陸(参照>>)、九州(参照>>)を平定し、ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、
【関白・秀吉の政庁…絢爛豪華聚楽第】参照>>
【太政大臣&豊臣姓賜る】参照>>
【北野大茶会】参照>>
天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪った(10月23日参照>>)事を『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令) に違反する行為として関東に君臨する条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)・・・天正十八年(1590年)3月29日に伊豆半島を縦ラインで結ぶ足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)の同時攻撃にて、小田原征伐の幕が上がったのです。(3月29日参照>>)

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

攻撃開始の当日に山中城を、翌日には足柄城を奪取し、早くも4月2日には大本営の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市を完全包囲した豊臣東海進軍本隊(4月2日参照>>)は、そのまま小田原城を包囲しつつ、一部を武蔵(むさし=東京都・埼玉県・神奈川県の一部)房総(ぼうそう=主に千葉県)下野(しもつけ=栃木県)常陸(ひたち=茨城県)など、関東一円の諸城の攻略に向かわせ、次々と手中に収めていきます。

一方、越後(えちご=新潟県)北陸方面から東山道(とうさんどう)を進軍して関東に入って来た上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)らは、4月中には上野(こうずけ=群馬県)の諸城を攻略していましたが、5月13日、秀吉は松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)にあった景勝に鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)の攻略を指示します。

この時の鉢形城主は北条氏政の弟=北条氏邦(うじくに=氏康の5男)

実は、この氏邦さん・・・秀吉の小田原征伐が決まった最初の段階で、
まずは、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)自らが出陣して、今は徳川家康(とくがわいえやす)の傘下となっている駿河沼津城(ぬまずじょう=静岡県沼津市大手町)を奪った後、そこを本拠に豊臣軍を迎え撃ち「富士川を越えさせない!」作戦を提案していたのですが、例の小田原評定で、その作戦は却下され、本城の小田原城に籠城する作戦となったため、一旦は小田原城に入るものの、結局、小田原には自身に代わる養子の直定(なおさだ)を入らせて、氏邦自身は配下の留守居役300余名&約2700の雑兵とともに鉢形城に籠城して抵抗する事にしたのでした。

とは言え、この鉢形城周辺には秩父(ちちぶ=埼玉県北西部)領の日尾城(ひおじょう=埼玉県秩父郡小鹿野町)をはじめとする複数の出城が構築されているうえ、かの猪俣邦憲が300余名を率いて加勢に駆け付け、その守備兵力はかなりのもの・・・

かくして5月19日、真田昌幸(さなだまさゆき)依田康国(よだやすくに)らの信濃隊が小前田(埼玉県深谷市)から寄居(よりい=同大里郡)方面に陣取ると、上杉景勝&前田利家・利長父子らの北陸隊は赤浜(あかはま=埼玉県大里郡)を通って鉢形城の東側へと向かい、上杉が大手から、前田が搦手(からめて)から、合計35000余の軍勢で以って攻撃を開始します。

6月3日には津久井城(つくいじょう=神奈川県相模原市)を攻撃していた本多忠勝(ほんだただかつ)鳥居元忠(とりいもとただ)らの徳川勢が攻撃に加わり、28人持ちの大筒で城内に石火矢(いしびや=石を弾丸にした火砲)を撃ち込み、大きな被害を与えたと言います。

そんな中、現在景勝の配下となっている藤田信吉(ふじたのぶよし)が、氏邦が養子(娘婿)に入った藤田家の者(氏邦の義父の息子とも)である縁から使者として赴き、氏邦に降伏するよう説得を開始します。

やがて天正十八年(1590年)6月14日、氏邦は
「家臣たちに代わって、俺が自害するから…」
と言って、鉢形城を開け渡し、剃髪して正龍寺(しょうりゅうじ=埼玉県大里郡寄居町)に入りました。

ここに、小田原征伐における鉢形城の攻防戦は終結しましたが、結局、氏邦の身は前田利家の預かりとなり、その利家が助命嘆願した事から、その命は助かり、氏邦は敵からも味方からの「前代未聞の比興(ひきょう)と言われたとか・・・また、力攻めではなく降伏勧告に終始した利家のやり方には秀吉さんもたいそうご立腹だったようです。

とは言え、戦場で華と散るも戦国武将、生きて一族の血脈を繋ぐも戦国武将・・・このブログでも度々お話させていただいているように、血で血を洗う戦国時代には、「もう、アカン」となった時、一族もろとも滅亡する方が稀で、誰かが生き残っての血筋を残す事の方が多いです。→【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事…】参照>>

そうしないと「家」自体が歴史上から消えてしまうかも・・・「虎は死して皮残す。人は死して名を遺す『十訓抄』どころか、ヘタすりゃ一族もろとも「いなかった事」にされる可能性だってありますからね。

で、今回の小田原征伐での北条氏の場合を見てみると・・・
嫡流(*氏政は次男ですが長男の新九郎が16歳で夭折したため氏政が世子)の前当主の氏政とその息子で現当主の氏直。

一方、氏政の弟たちは・・・
3男で八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)北条氏照(うじてる)
4男で韮山城の北条氏規(うじのり)
5男で今回の鉢形城の氏邦、
以下、6男の北条氏忠(うじただ)と8男か9男の北条氏光(うじみつ)
(7男は上杉家の養子になった景虎(かげとら)=参照>>で、すでに死亡)

この中で上の3人=氏照と氏邦と氏規は、単なる支城の城主ではなく、独立した一大領国支配を行っていた感がありますが、終始小田原に籠城して兄=氏政とともにイケイケムードで徹底抗戦を主張した氏照と、足柄城をすんなり捨てて小田原城内に走った氏光と、はなから小田原籠城組だった氏忠に対し、それぞれの城に残った氏邦と氏規には、ひょっとしたら、その血筋を残す役目があったのかも・・・あくまで私的な解釈ですが、私はそう感じているのです。

今回の氏邦さんに関しては、先々代の北条氏康(うじやす=氏政や氏邦の父)に降伏して傘下となった藤田康邦(ふじたやすくに)の娘と結婚して婿養子となった藤田家の人として藤田氏邦の名前で古文書等に記載されているところから見ても、そんな気がします。

残念ながら、この後、前田家の家臣となった氏邦の血筋は途中で絶えてしまうようですが、以前書かせていただいたように、氏規さんの血筋は脈々と受け継がれ、無事、明治維新を迎えています(2月8日参照>>)

例え「前代未聞の比興」と言われようが、イザという時に「生き残る事」こそが氏邦さんの使命だったのかも知れません。

この前後の小田原征伐は・・・
●4月20日【松井田城攻防戦】>>
●5月29日【館林城・攻防戦】>>
●6月16日【忍城・攻防戦】>>
●6月23日【八王子城・攻防戦】>>
●6月26日【石垣山城一夜城】>>
●7月5日【小田原城・開城】>>
へと続きます。
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2019年6月 8日 (土)

細川高国が自刃…大物崩れ~中嶋・天王寺の戦い

 

享禄四年(1531年)6月8日、天王寺の戦いに敗れて大物崩れとなった細川高国が自刃しました。

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応仁の乱後に、明応の政変(4月22日参照>>)で以って政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)は、その政変の前後の状況変化ゆえ、3人の養子を迎える事になりますが、その死後に、3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の間で後継者争いが勃発・・・その中で、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)と永正十七年(1520年)の等持院表(とうじいんおもて)の戦い (5月5日参照>>)に勝利して一人勝ちとなった高国は足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立確固たる高国政権樹立に成功します。

Hosokawatakakuni600a しかし大永六年(1526年)、高国は自らの勘違いで重臣の香西元盛(こうざいもともり)を上意討ちしてしまった事から、その兄弟である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野元清(はたのもときよ=稙通)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高国に反旗を翻し(10月23日参照>>)、しかも、このタイミングで阿波(あわ=徳島県)に退いていた亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と配下の三好元長(みよし もとなが)らが挙兵して上洛して来ます。

大永七年(1527年)2月13日、波多野&柳本勢に合流した晴元は桂川原(かつらかわら)の戦い に勝利(2月13日参照>>)・・・負けた高国は将軍=義晴とともに近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きます。

その後、しばらくは京都の奪回に向けて奔走する高国は、享禄元年(1528年)11月には伊賀(いが=三重県西部)仁木義広(にっきよしひろ)のもとに、翌年1月には娘婿に当たる伊勢(いせ=三重県中北部)北畠晴具(きたばたけはるとも)のもとに、5月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉孝景(あさくらたかかげ)に、8月には出雲(いずも=島根県東部)尼子経久(あまごつねひさ)に、翌9月には三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上村宗(うらがみむらむね)に会い・・・と、あちこちを転々として各人に出兵を要請して廻ります。

浦上滞在中の享禄三年(1530年)6月29日に播磨依藤城(よりふじじょう=兵庫県小野市・豊地城)を攻撃中の柳本賢治に刺客を派遣して暗殺に成功した(6月29日参照>>)うえに浦上の援軍を得た高国は、ここ最近、晴元と元長の関係がギクシャクし始めて元長が阿波に戻っていた事をチャンスと見て、いよいよ摂津(せっつ=大阪府中北部)に出陣します。

7月には別所就治(べっしょなりはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を攻略し、8月には神呪寺(かんのうじ=兵庫県西宮市・神咒寺)に、本陣を設けて後、9月から11月にかけて、晴元派の富松城(とまつじょう=兵庫県尼崎市)を陥落させ、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)での戦いにも勝利します。

一方の晴元も、諸城の守りを強化して防戦に努めますが、高国勢の勢いは止まらず、京都の各所に出没して禁裏(きんり=天皇の住まい)をも脅かすようになります。

さらに勢いづく高国勢が、年が明けた享禄四年(1531年)3月に池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を落とすと、近江の朽木(くつき=滋賀県高島市)に身を隠していた将軍=義晴も坂本まで進出し、京都奪回の機会をうかがいます。

この高国勢の快進撃に、いよいよヤバくなって来た晴元は京都を脱出し、自らが擁立した堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)のいる(さかい=大阪府堺市)へ・・・そんな晴元は、これまで頼りにしていた柳本賢治も今は亡く、ここは何とか、あの三好元長に戻って来てもらいたい(^人^) オ・ネ・ガ・イ♪

実は元長・・・先の等持院表の戦いで祖父(もしくは父)三好之長(みよしゆきなが)を亡くしています。。。つまり高国は、元長にとって、もともと祖父の仇なわけで、、、

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四天王寺・西門

かくして享禄四年(1531年)3月、元長は、堺を制圧すべく住吉(すみよし=大阪市住吉区)に出撃して来た高国勢に対し、摂津中嶋(なかじま=現在の天王寺周辺)に布陣して高国勢の先鋒を少し後退させますが、高国も天王寺(てんのうじ)難波(なんば)今宮(いまみや)に陣取り、浦上勢も野田福島(のだ・ふくしま=大阪市福島区)に布陣します。

これから5月頃まで、天王寺表にて小競り合いはあるものの、決着のつかないこう着状態が続く両者でしたが、6月2日に高国の援軍として神呪寺に布陣していた赤松晴政(あかまつはるまさ=政祐)が、晴元の要請に応じて寝返って浦上軍を背後から奇襲した事でこう着状態が崩れます。

実はコッチも・・・赤松晴政の父=赤松義村(よしむら)を暗殺したのが、誰あろう浦上村宗なわけでして(11月12日参照>>)(どんだけ恨み買うとんねん(><))、いつか仇を討とうと機会を狙っていたわけですが、この赤松の寝返りについては、高国側にもかなりの動揺があったようで・・・「赤松旧好の侍吾も吾もと神咒寺の陣に加わり」『備前軍記』と、名門赤松なればこそ、それに追随する者も少なくなかったようです。

とにもかくにも、この状況を受けた元長は、その2日後の6月4日高国陣営に総攻撃を仕掛けたのです。

もはや流れはすっかり変わりました。

かの浦上村宗をはじめ、松田元陸(まつだもとみち)伊丹国扶(いたみくにすけ)薬師寺国盛(やくしじくにもり)など、主だった武将の多くを失い、多大なる戦死者を出して、高国軍は大敗してしまうのです。

この戦いで中嶋を流れる野里川は死体で埋め尽くされ、まるで塚のようになってしまったのだとか・・・

敗戦の混乱の中、戦場を脱出した高国は、大物城(だいもつじょう=兵庫県尼崎市大物町・尼崎城と同一説あり)へと向かいますが、すでに追手が回っていたため、尼崎町内の藍染屋に逃げ込み、カメの中で身を潜めていたところを翌6月5日に発見され、享禄四年(1531年)6月8日、晴元の命により、広徳寺(こうとくじ=兵庫県尼崎市寺町)にて切腹・・・享年48でした。

この時、高国が詠んだ時世の句は
♪絵にうつし 石をつくりし 海山を
 後の世までも 目からずや見む  ♪
娘婿の北畠晴具に送った物で、三重県津市の北畠神社(きたばたけじんじゃ)に今も残る庭園の事を詠んだ物だそうで・・・この時の高国は、永遠に残る庭園の美しさと、散りゆく自らの儚さを感じていたのかも知れません。

今回の戦いは、その地名をとって「中嶋の戦い」と呼ばれたり「天王寺の戦い」とも言われますが、高国が最後に目指した場所とその衰退を含んで「大物崩れ(だいもつくずれ)とも呼ばれます。

これにて長きに渡った細川管領家を巡る争いは終わる事に・・・と言いたいところですが、実は、高国の養子である細川氏綱(うじつな)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい=元長の息子) の力を借りて晴元を倒し、最後の管領になるのです。

・・・と、そのお話は9月14日 【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】でどうぞ>>
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2019年6月 2日 (日)

信長とともに散った織田政権ただ一人の京都所司代…村井貞勝

 

天正十年(1582年)6月2日、織田信長の家臣で京都所司代を担っていた村井貞勝が、本能寺の変で討死しました。

・・・・・・・・・

 村井貞勝(むらいさだかつ)は、その生年や出身などは不明なものの、かなり早くから織田信長(おだのぶなが)に仕えて信頼を得、重用された家臣です。

Muraisadakatu600a 弘治二年(1556年)に、弟の織田信行(のぶゆき=信勝とも)を推すメンバーが信長に謀反(8月24日参照>>)を起こした時には、母の土田御前(どたごぜん)の要請を受けて間に入り、敵対勢力と和平交渉して治めたばかりか、

敵チームの主力の一人であった柴田勝家(しばたかついえ)を取り込んで、最終的に勝家にその信行を葬り去る(11月2日参照>>)お手伝いをさせちゃうくらいの信長チームメイトにさせたのが彼=村井貞勝だったとか・・・

そう、勝は、戦の最前線に立って武功を挙げるというよりは、交渉術に長けた内政に手腕を発揮する軍師的な家臣だったのです。

その後、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)攻略に向けての美濃三人衆(みのさんにんしゅう=稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の懐柔(8月1日参照>>)や、あの足利義昭(あしかがよしあき=15代室町幕府将軍)を奉じての信長上洛(9月7日参照>>)の際の義昭の受け入れ準備も担当しました。

さらに上洛後の一大事業=二条御所(義昭御所)の造営(2月2日参照>>)にも手腕を発揮・・・
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参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、この頃の信長は、未だ複数の家臣たちに京都の市政を分担させていましたが、元亀元年(1570年)に重臣の森可成(もりよしなり)が討死した(9月20日参照>>)事、浅井&朝倉との戦いに本願寺(2014年9月12日参照>>)やら比叡山(2006年9月12日参照>>)やら色んな敵が参戦して来て世に言う信長包囲網ができあがっていく中で、佐久間信盛(さくまのぶもり)明智光秀(あけちみつひで)といった畿内周辺担当の家臣たちの合戦への出陣も増えて来た事で、

反旗を翻した足利義昭(7月18日参照>>)を追放した元亀四年(天正元年=1573年)、貞勝を天下所司代=いわゆる京都所司代(きょうとしょしだい)に任じたのです。

これは、今で言えば京都府知事と警視総監(京都が首都なので…)を兼務したうえに、朝廷とのなんやかやもあるので宮内庁長官まで兼ねたような?要職です。

そんな中で貞勝は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)禁裏(きんり=京都御所)の修復や、新しい二条御所(二条御新造・信長の宿舎)の築造等の工事も担当しつつ、京都の治安維持や、最難関の朝廷や貴族や寺社との関係改善にも尽力していきます。

ご存知のように、天下目前のこの時期の信長さんは、次々と大きな政策を打ち出していきますので(←これは史実なので)ドラマ等で描かれる時は、少々強引に高圧的な人物に表現されていたりします。

それでなくとも、大体の時代において、政権を握った武門と朝廷&寺社の関係は、アッという間にギスギスした感じになっていくの常なんですが・・・

しかし、以前に、あの東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)削り事件のページ(3月22日参照>>)で書かせていただいたように、実際には朝廷&寺社と信長の関係は、それほど悪い物では無かったようです。

それもこれも、貞勝が間に立って、あれやこれやの食い違いをウマイ事まとめていった故・・・あの一大イベントの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)に天皇様自らお出ましになるのも、交渉上手の貞勝のなせる業といったところでしょう。

ところで、この村井貞勝が関わったとされる事で、「三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)というのがあります。

これは、もはや天下目前の信長が、未だ上位の官職についていない事で、天正十年(1582年)5月、公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が村井貞勝のもとを訪れ、信長が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=部門の最高位)太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職・名誉職)関白(かんぱく=天皇の補佐役で実質上の公家の最高位)のうちどれかに任官することについて話し合った・・・てな事が晴豊本人の日記『晴豊公記』に記されているのですが、これを、信長側から申し出たのか?朝廷側から言い出したのか?がわからないために「問題」となっているのです。

しかも、ご存知のように、この少し後の6月に、信長がその返答をしないまま本能寺(ほんのうじ)で亡くなってしまう(6月2日参照>>) ため、信長の朝廷に対する考えや、両者の関係が謎なままになってしまう・・・もちろん、どちらが言い出したかわからないのには、肝心かなめの貞勝自身も、かの本能寺で死んでしまうから・・・

そう・・・天正十年(1582年)6月2日、本能寺の向かいにある自宅にいた村井貞勝は、異変を知るや息子たちとともに、すぐさま自邸を飛び出しますが、その時には、もうすでに本能寺は火の海・・・やむなく、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)が宿所としていた妙覚寺(みょうかくじ=京都府京都市上京区)に駆け込みます。

「もはや本能寺は敗れて、御殿も焼け落ちましたよって、敵は必ずここも攻めて来るでしょう。ここより、二条の新御所(同中京区)の方が、守りが堅固で立て籠もりやすいと思います」
と貞勝が進言した事で、隣接する二条御所へと移動した信忠は、御所にいた誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第5皇子)和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子で後の後陽成天皇)
「ここは戦場となりますので、お二人は内裏(だいり)の方へお移りください」
と、別れの挨拶をして送り出し、ここで明智勢を迎え撃つ事にしますが、残念ながら、ご存知のように事態は多勢に無勢・・・(一般的には、明智軍=1万3000に対し、織田勢は、信長=100名、この後の信忠=500名と言われています)

「もはや、これまで!」
を悟った信忠は自刃し、最後まで主君を守った村井貞勝も討死しました。

一説には、先の三職推任の話は「貞勝が朝廷に強要した」という説もあるようですが、交渉上手な貞勝なら、強要というよりは、両者納得の良い話にまとめていたような気がしないでもありませんが、今は何とも・・・これに関する新しい史料の発見が待ち遠しいですね。
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