信長とともに散った織田政権ただ一人の京都所司代…村井貞勝
天正十年(1582年)6月2日、織田信長の家臣で京都所司代を担っていた村井貞勝が、本能寺の変で討死しました。
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村井貞勝(むらいさだかつ)は、その生年や出身などは不明なものの、かなり早くから織田信長(おだのぶなが)に仕えて信頼を得、重用された家臣です。
弘治二年(1556年)に、弟の織田信行(のぶゆき=信勝とも)を推すメンバーが信長に謀反(8月24日参照>>)を起こした時には、母の土田御前(どたごぜん)の要請を受けて間に入り、敵対勢力と和平交渉して治めたばかりか、
敵チームの主力の一人であった柴田勝家(しばたかついえ)を取り込んで、最終的に勝家にその信行を葬り去る(11月2日参照>>)お手伝いをさせちゃうくらいの信長チームメイトにさせたのが彼=村井貞勝だったとか・・・
そう、貞勝は、戦の最前線に立って武功を挙げるというよりは、交渉術に長けた内政に手腕を発揮する軍師的な家臣だったのです。
その後、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)攻略に向けての美濃三人衆(みのさんにんしゅう=稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の懐柔(8月1日参照>>)や、あの足利義昭(あしかがよしあき=15代室町幕府将軍)を奉じての信長上洛(9月7日参照>>)の際の義昭の受け入れ準備も担当しました。
さらに上洛後の一大事業=二条御所(義昭御所)の造営(2月2日参照>>)にも手腕を発揮・・・
★参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
とは言え、この頃の信長は、未だ複数の家臣たちに京都の市政を分担させていましたが、元亀元年(1570年)に重臣の森可成(もりよしなり)が討死した(9月20日参照>>)事、浅井&朝倉との戦いに本願寺(2014年9月12日参照>>)やら比叡山(2006年9月12日参照>>)やら色んな敵が参戦して来て世に言う信長包囲網ができあがっていく中で、佐久間信盛(さくまのぶもり)や明智光秀(あけちみつひで)といった畿内周辺担当の家臣たちの合戦への出陣も増えて来た事で、
反旗を翻した足利義昭(7月18日参照>>)を追放した元亀四年(天正元年=1573年)、貞勝を天下所司代=いわゆる京都所司代(きょうとしょしだい)に任じたのです。
これは、今で言えば京都府知事と警視総監(京都が首都なので…)を兼務したうえに、朝廷とのなんやかやもあるので宮内庁長官まで兼ねたような?要職です。
そんな中で貞勝は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の禁裏(きんり=京都御所)の修復や、新しい二条御所(二条御新造・信長の宿舎)の築造等の工事も担当しつつ、京都の治安維持や、最難関の朝廷や貴族や寺社との関係改善にも尽力していきます。
ご存知のように、天下目前のこの時期の信長さんは、次々と大きな政策を打ち出していきますので(←これは史実なので)ドラマ等で描かれる時は、少々強引に高圧的な人物に表現されていたりします。
それでなくとも、大体の時代において、政権を握った武門と朝廷&寺社の関係は、アッという間にギスギスした感じになっていくの常なんですが・・・
しかし、以前に、あの東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)削り事件のページ(3月22日参照>>)で書かせていただいたように、実際には朝廷&寺社と信長の関係は、それほど悪い物では無かったようです。
それもこれも、貞勝が間に立って、あれやこれやの食い違いをウマイ事まとめていった故・・・あの一大イベントの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)に天皇様自らお出ましになるのも、交渉上手の貞勝のなせる業といったところでしょう。
ところで、この村井貞勝が関わったとされる事で、「三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)」というのがあります。
これは、もはや天下目前の信長が、未だ上位の官職についていない事で、天正十年(1582年)5月、公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が村井貞勝のもとを訪れ、信長が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=部門の最高位)か太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職・名誉職)か関白(かんぱく=天皇の補佐役で実質上の公家の最高位)のうちどれかに任官することについて話し合った・・・てな事が晴豊本人の日記『晴豊公記』に記されているのですが、これを、信長側から申し出たのか?朝廷側から言い出したのか?がわからないために「問題」となっているのです。
しかも、ご存知のように、この少し後の6月に、信長がその返答をしないまま本能寺(ほんのうじ)で亡くなってしまう(6月2日参照>>) ため、信長の朝廷に対する考えや、両者の関係が謎なままになってしまう・・・もちろん、どちらが言い出したかわからないのには、肝心かなめの貞勝自身も、かの本能寺で死んでしまうから・・・
そう・・・天正十年(1582年)6月2日、本能寺の向かいにある自宅にいた村井貞勝は、異変を知るや息子たちとともに、すぐさま自邸を飛び出しますが、その時には、もうすでに本能寺は火の海・・・やむなく、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)が宿所としていた妙覚寺(みょうかくじ=京都府京都市上京区)に駆け込みます。
「もはや本能寺は敗れて、御殿も焼け落ちましたよって、敵は必ずここも攻めて来るでしょう。ここより、二条の新御所(同中京区)の方が、守りが堅固で立て籠もりやすいと思います」
と貞勝が進言した事で、隣接する二条御所へと移動した信忠は、御所にいた誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第5皇子)と和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子で後の後陽成天皇)に
「ここは戦場となりますので、お二人は内裏(だいり)の方へお移りください」
と、別れの挨拶をして送り出し、ここで明智勢を迎え撃つ事にしますが、残念ながら、ご存知のように事態は多勢に無勢・・・(一般的には、明智軍=1万3000に対し、織田勢は、信長=100名、この後の信忠=500名と言われています)
「もはや、これまで!」
を悟った信忠は自刃し、最後まで主君を守った村井貞勝も討死しました。
一説には、先の三職推任の話は「貞勝が朝廷に強要した」という説もあるようですが、交渉上手な貞勝なら、強要というよりは、両者納得の良い話にまとめていたような気がしないでもありませんが、今は何とも・・・これに関する新しい史料の発見が待ち遠しいですね。
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