明智光秀の丹波攻略最終段階~和藤合戦と山家城の戦い
天正八年(1580年)6月20日、城の破却に応じない和久左衛門佐の山家城を明智光秀が攻撃しました。
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兵庫県の北東部と京都府の中部にまたがる広大な丹波(たんば)の地は、室町幕府政権下において守護=細川氏が長きに渡って支配する所でありましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の時に、東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の下で活躍した功績により多紀郡(たきぐん=現在の兵庫県丹波篠山市付近)を与えられた波多野(はたの)一族が、その後の、細川家内のゴタゴタ(2月13日参照>>)の隙間を縫って力をつけて行き、波多野元清(はたのもときよ=稙通)の時代に、八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)にて独立し、その孫(曾孫かも)の波多野秀治(ひではる)の頃に全盛期を迎え、もはや丹波一円を支配するほどになっていきます。
しかし、そんな中、天正の頃から、畿内より西の中国地方(山陽&山陰)に手をのばしはじめたのが、ご存知、織田信長(おだのぶなが)。
とは言え、この信長の中国地方侵出も、はじめは・・・
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛して(9月7日参照>>)、ほぼほぼ畿内を制していた信長に対し、自らが滅ぼした周防(すおう=山口県)の大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党と交戦中の安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)が、その背後を突こうとする出雲(いずも=島根県)の尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党と、それに協力する但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)を「けん制してほしい」と依頼して来た事がキッカケだったわけですが、
その後、山名も尼子も信長の傘下となるのですが、逆に、足利義昭が信長と敵対する越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉(あさくら)や北近江(きたおう=滋賀県北部)の浅井(あざい)に味方し、そこに本願寺顕如(けんにょ)が参戦(9月12日参照>>)し・・・となって、結局、毛利も信長に敵対するに至って、この中国地方は西の大物=毛利と、畿内の織田に挟まれる形となったのです。
で、元亀四年(天正元年=1573年)の7月には、その義昭を追放し(7月18日参照>>)、続く8月には朝倉(8月20日参照>>)と浅井(8月28日参照>>)を倒した信長は、各地に起こる本願寺門徒の一向一揆も徐々に制圧していった(長島>>・越前>>)天正三年(1575年)頃から、いよいよ中国地方の平定に乗り出し、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)に但馬&播磨(はりま=兵庫県南西部)方面の攻略を(10月23日参照>>)、明智光秀(あけちみつひで)や細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波&丹後(たんご=京都府北部)方面の攻略を命じたのです。
はじめは信長に好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)の赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)が途中で毛利に転じ、それに同調した波多野も敵に回る中、籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)こそ、すんなり落とせたものの(10月29日参照>>)、波多野の八上城(1月15日参照>>)と赤井の黒井城は(8月9日参照>>)は、なかなかの苦戦だったわけで・・・
そこに同調したのが、丹波の土豪(どごう=土地に根付く小豪族)たちでした。
一旦、丹波をほぼ制覇していた波多野が、今回、ゴタゴタしている事で勢いづいた彼らが、チャンスとばかりに領地拡大に動き出したのです。
その一人が八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)の内藤宗勝(ないとうそうしょう)・・・この人は、もとの名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、江口の戦い (6月24日参照>>)に勝利して戦国初の天下人となるあの三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣として頭角を現し、信長からも一目置かれていた松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟ですが、遅咲きの兄より、むしろ彼の方が先に三好政権下で大活躍をし、長慶の信頼も厚かった中で、波多野元清らに八木城を攻められて戦死した内藤国貞(くにさだ)に代わって城を奪還し、その国貞の娘と結婚して内藤氏を継いでいたのでした。
『内藤丹波年代記』等によると・・・
天正四年(1576年)、この機会に綾部(あやべ=京都府綾部市)&福知山(ふくちやま=同福知山市)方面を抑えようと考えた宗勝は、その2月、高津(たかつ=綾部市高津町)に入り、綾部に根を張る大槻(おおつき)氏の高津城(たかつじょう=綾部市高津町)と栗城(くりじょう=綾部市栗町)を陥落させて、4月には山家城(やまがじょう=綾部市広瀬町)に拠る和久左衛門佐(わくさえもんのすけ=義国?)を攻めたのです。
和久左衛門佐は山家(やまが=綾部市東山町)から和知(わち=京都府船井郡京丹波町)・口上林(かんばやし=綾部市武吉町)一帯を領域としていた丹波の武将で、福知山一帯を領していた横山城(よこやまじょう=京都府福知山市・後の福知山城)城主=塩見頼勝(しおみよりかつ)の3男か4男とされ、もともと本城としていたのは福知山にあった和久城(わくじょう=福知山市厚安尾)でコチラの山家城は支城の一つだったようですが、丹波内の紛争により、どこかの段階で和久城を捨て、山家に移っていたらしい・・・(←このあたりは不明瞭)
とにもかくにも、ここで約3000の大軍を率いて下原(しもばら=綾部市下原町)まで侵攻して来た内藤軍を迎え撃つべく、和久方は客将の白浪瀬忠次(しらはせただつぐ=白波瀬忠義とも)が家臣16名と郷土民=数百名を率いて防戦を試みますが、なんせ多勢に無勢・・・劣勢に次ぐ劣勢で、どうにも勝ちが見えないため、やむなく一旦、休戦&和議を申し出る事に、、、
しかし、実はこれが、相手を油断させる作戦で、和議をすると見せかけて下原にある庵に内藤方を誘い込み、真夜中に急襲したのです。
おりしもその日の夜は、激しい風雨吹き荒れる真っ暗な夜・・・いきなりの襲撃に慌てて敗走する内藤勢でしたが、ここは和久領にて地の利もなく、ましてや雨風にさらされて逃げる足取りも重く疲れる。。。
なんとか八木城を目指していた内藤宗勝自身も、途中で力尽きたところを白波瀬の兵に囲まれて討たれしまったとの事。
この天正四年(1576年)の戦いが和藤合戦(わとうがっせん)と呼ばれる戦いです。
ただ、この一連の流れは、上記の『内藤丹波年代記』他、複数の文献で天正四年(1576年)8月4日の出来事としていますが、永禄六年(1563年)の出来事としている文献もあり、また、内藤宗勝の討死の時期&場所については、永禄八年(1565年)の8月2日の黒井城攻撃中とする説もあるようなのですが、
現在の綾部下原には、今回の和藤合戦の古戦場とされる場所があり、宗勝は古戦場内にある戦死したその場所=備州ヶ尾に葬られていると伝えられています。
★山家城の戦いの位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
ところで・・・
そんなこんなしてるうちの天正七年(1579年)、各地の籠城戦に手間取っていた信長の丹波攻略が一気に動き始めます。
この年の5月になって、信長が光秀の支援をすべく、羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)と丹羽長秀(にわながひで)を丹波に派遣します。
その5月4日に羽柴秀長が波多野の支城である氷上城(ひかみじょう=兵庫県丹波市・霧山城とも)を落とすと、丹羽長秀が19日に玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)を攻略し、6月4日には、明智光秀もようやく八上城を落とし、続いて、8月9日には黒井城を攻略し、さらに8月20日には塩見氏の横山城と猪崎城(いざきじょう=同福知山・猪ノ崎城)(7月22日参照>>)も落とします。
その後、その横山城は福知山城と名を変えて明智の城となり、10月にはウキウキモードで丹波の平定を信長に報告しています(10月24日参照>>)。
この横山城の塩見とは・・・そう、山家城の和久左衛門佐の本家です。
この時の和久左衛門佐は、自身の城の破却を条件にいち早く降伏し、一族の皆が自刃あるいは討死する中で、なんとか、その血脈を残す事に成功しました(5月19日参照>>)。
とは言え、どうにもこうにもかなわぬ大軍相手に一応、条件を呑んで降伏はしてみたものの、和久左衛門佐としては何とか山家城の破却は免れたいわけで・・・
そこで左衛門佐・・・山家城の城郭内には照福寺(しょうふくじ=現在は綾部市鷹栖町)という寺が建っていた事を理由に、
「ここは城ではなく、寺なんで…」
と、光秀からの再三の破却命令を、のらりくらりとかわしながら約1年間やり過ごして来たのですが、そんなこんなの天正八年(1580年)6月20日、さすがにブチ切れた光秀が山家城に攻撃を開始します。
そうなると、「さすがに太刀打ちできない」と判断した左衛門佐は、城を捨てていずくともなく逃げ延びて行ったとか、
また、この年の8月に光秀に誘い出されて騙し討ちされたという話もあります。
とにもかくにも、これにて明智光秀の丹波攻略は完全に終了した・・・という事になります。
・‥…━━━☆
これ、来年の大河ドラマでやってくれるのかな?
友人に(本人曰く)この後は綾部の山奥に隠れ住んで血脈をつないだという和久さんの子孫がいてはるので、やってくれるとウレシイかも・・・
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