当方滅亡!~上杉を支えた名執事=太田道灌の最期
文明十八年(1486年)7月26日、主君=上杉定正の命により、太田道灌が暗殺されました。
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太田道灌(おおたどうかん=資長)は戦国初期に登場する屈指の名将です。
そもそもは、初代の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自身の地元が関東でありながら、南北朝の動乱やら何やらで京都にて室町幕府を開く事になり、そうなると、足利家のトップである将軍は京都におらねばならないため、その間、留守となった地元=関東の支配を誰かに任せねばならない・・・
そこで尊氏は自身の三男の 義詮(よしあきら)に将軍職を譲り、その弟の四男=基氏(もとうじ)を地元を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東に派遣し、以来、義詮の血筋が将軍を、基氏の血筋が公方を、代々継承していったわけですが、その公方の補佐役が執事(しつじ)・・・後に関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれる役職で、それを交代々々で歴任していたのが両上杉家(うえすぎけ)=惣領家が山内上杉(やまのうちうえすぎ)と言い、分家が扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)です(9月19日参照>>)。
ところが、やがて「京都の将軍家とは距離を置いて、関東は関東でやっていきたい!」と考える第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)が登場・・・それを時の将軍である第6代=足利義教(よしのり)が何とか鎮圧しますが(永享の乱>>)・(結城合戦>>)、その後、持氏の遺児の足利成氏(しげうじ)が次期公方を勝手に名乗って関東で大暴れ・・・そのために、幕府から任命された新たな公方が鎌倉に入る事ができないという事態に・・・
そうなると、ここで何とか関東をまとめなければならないのが、最初っから公方の補佐として関東にいる両上杉家なわけですが、そんな扇谷上杉家の執事だったのが太田道灌です。
幼き頃からその天才ぶりはズバ抜けていて、その優秀さを心配した父=太田資清(すけきよ)が、
「障子は直立してこそ役に立つけど、曲がって倒れてたら役に立たんのやぞ」
(↑「過ぎるほどの才能をまっすぐに良い方向へ使え」という意味)
と忠告すると
「障子はそうですやろけど、屏風はまっすぐやと立ちません。屏風は曲がってこそ役に立ちます」
と言い返して父を黙らせたとか・・・
なんと、生意気な憎ったらしい子供・・・と思いますが、成長した道灌は周囲から反感を買う事は少なかったのだとか・・・思うに、本当に頭が良くて、周囲から見ても別格なんでしょうね~もう、そんじょそこらの人じゃ太刀打ちできないくらいの差があるとか…たぶん。
長禄元年(1457年)には、そんな自称公方らから関東を守るべく江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築し(4月8日参照>>)、扇谷上杉家のため、八面六臂の活躍をする道灌・・・
中でも特筆すべきは、この後の時代の手本となるような足軽(あしがる)の扱い方・・・
以前書かせていただいたように、大乱を聞きつけて近隣の農村から集まって来る喰いっぱぐれた農民くずれや無頼の輩・・・いわゆる雑兵(ぞうひょう)を雇い入れ、鎧も兜も身に着けず刀も槍も持たないまま軽装で大量に自軍に参加させ、これまでの一騎撃ちスタイルから、互いに集団戦で戦う、まさに、私たちが思う戦国合戦スタイルに劇的に変化させたのは、あの応仁の乱で東軍総大将となった細川勝元(ほそかわかつもと)ではありますが(3月21日参照>>)、この勝元の時代は、なんだかんで、ただただ集団でワーワーやるだけの烏合(うごう)の衆でしかなかったのです。
それを、統率のとれた組織編制をして、大河ドラマ等で描かれるような足軽集団にしたのが道灌と言われています。
『太田家記』には、道灌が作ったとされる
♪小机は まづ手習ひの 初めにて
いろはにほへと 散り散りになる ♪
という戯れ歌が書かれているのですが、
この小机というのは、道灌の良きライバルである長尾景春(ながおかげはる)の小机城(こづくえじょう=神奈川県横浜市)の事・・・
この景春の長尾家は、代々、山上上杉家の執事を務める家柄ですから、扇谷上杉家執事の太田道灌とは、まさに同じ立場の人だったのですが、その長尾家の後継者の決定に主君の山上上杉家が介入して来た事で、それに不満を持った長尾景春が反旗を翻した。。。この時、道灌はちょっと景春の気持ちが理解できる雰囲気で、それ察した景春が道灌を自軍に誘う場面もあったようですが、やはり道灌は主君を裏切れず、結局、その良きライバルを攻める事になるのですが・・・
●【江古田・沼袋(東京都中野区)の戦い】参照>>
●【武蔵・用土原(埼玉県深谷市)の戦い】参照>>
この時に、上記の歌を繰り返し、呪文のように口ずさませながら、足軽たちの士気を高めるとともに、太鼓の音の代わりに、それぞれの隊に一斉にタイミングを合わせる行動を取らせて攻撃を仕掛け、勝利に導いたのです。
今で言うなら、ラジオ体操のピアノと掛け声みたいな感じ?
あのピアノとリーダーの掛け声があるからこそ、公園に集まった人たちは、同じタイミングで同じ動きをするわけで・・・これにより、烏合の集団だった素人戦士の足軽たちが、まさに軍隊へと変貌したわけです。
おかげで、いつしか分家の扇谷上杉が惣領家の山内上杉をしのぐ勢いを示すようになるのです。
しかし、この道灌のあまりの優秀さが、文字通り、命取りとなります。
文明十八年(1486年)7月26日、道灌は、相模糟屋(かすや=神奈川県伊勢原市)にある主君=上杉定正(うえすぎさだまさ)の招きを受けます。
江戸城から上杉邸まで、距離にして約50kmほど・・・その労をねぎらうように風呂を勧められ、やがて出ようとした、その時、定正の命を受けた曽我兵庫(そがひょうご)なる武将が太刀で斬りつけ、道灌を暗殺したのです。
道灌は倒れながら、「当方滅亡!」と一言叫んだのだとか・・・
「当方滅亡」とは、
「俺のいない上杉家は滅びるぞ!」
という意味です。
一般的には、そのあまりの優秀さに、定正が「いつか取って代わられるのではないか?」との不安にかられたため殺害に至った・・・とされています。
ただし『北条記』では、定正が道灌討伐のために糟屋へと出陣したのを、迎え撃った道灌が、馬上にて槍に突かれて落とされ、
♪かかる時 さこそ命の 惜しからめ
かねてなき身と 思い知らずば ♪
「はなから、(自分は)この世にはいない物やと悟ってるから、こんな時でも命推しくはないんや!」
との辞世の句を残して首を取られた・・・つまり、合戦での討死だとされています。
また、別の史料では糟屋の洞昌院(とうしょういん=公所寺)で殺害されたとの記録もありますが、かの『太田家記』では、この洞昌院は道灌が荼毘に付された場所とされていて、現在も、隣接する境内に道灌の胴塚と伝えられる塚があります。
さらに、近くの大慈寺(だいじじ)にも道灌の首塚とされる塚があって、江戸時代の太田家は、お参りの際には、この両方の墓所に参詣していたと伝えられていますので、暗殺にしろ、討死にしろ、道灌は斬首されたという事なのかも知れません。
それから何年後かに上杉定正は、
「道灌は、江戸城を堅固にして上杉顕定(あきさだ=山内上杉家当主)に歯向かおうとしたので、俺が度々注意しててけど、言う事聞かへんから成敗した」
てな内容を手紙に書き残していますが、これは、あくまで定正の言い分・・・
ただ、先の江古田・沼袋>>や用土原>>のページにも書かせていただいたように、道灌自身も両上杉家に対し、少々の不満があった事も確かだし、分家の定正が惣領家の山内上杉家に気をつかっていた事も確かで、「いつしか惣領家に分家が取って代わるのではないか?」と道灌の強さに脅威を抱いていたのは、直接の主君である定正ではなく上杉顕定の方だったかも知れませんね。
果たして・・・この後、
長尾景春という執事を失った山内上杉家と、太田道灌という執事を失った扇谷上杉家は、同族で激しく争う事になり、やがて、そのゴタゴタの合間を縫って関東に勢力を伸ばし始めた北条(ほうじょう)によって、道灌の予言通り、扇谷上杉家は滅亡する事となるのです(【戦国屈指の夜襲で公方壊滅~河越夜戦】参照>>) 。
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