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2019年8月 1日 (木)

上杉謙信VS長尾房長&政景~坂戸城の戦い

 

天文二十年(1551年)8月1日、上杉謙信が長尾房長&政景父子の籠る坂戸城への総攻撃を通告しました。

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坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)の城主=長尾房長(ながおふさなが)は、越後(えちご=新潟県)守護代(しゅごだい=副知事)を務める越後長尾(ながお)の分家である上田長尾(うえだながお)の6代目当主。

本家の越後長尾家の当主である長尾為景(ためかげ)とは兄弟だったという説もあるものの、一般的には実父が長尾憲長(のりなが)、養父がその弟の長尾景隆(かげたか=つまり房長の叔父)で、越後長尾家の一族ではあったものの、関東管領(かんとうかんれい=室町幕府将軍補佐)越後守護(しゅご=県知事)でもある山内上杉(やまのうちうえすぎ)被官(ひかん=官僚)であったとされます。

そんな中、ここんとこの戦国下剋上で守護代の為景が守護の上杉をしのぐ勢いを見せて来ていた(長森原の戦い参照>>永正の乱参照>>)ものの、一方で越後内での争いにより、為景は天文五年(1536年)に隠居に追い込まれ、嫡男の長尾晴景(はるかげ)が、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)にて、その後を継ぐ事になります。

しかし、この晴景さん・・・戦いにはあまり向かない穏やかな性格であったようで、ある程度越後の内乱は収めたものの、当時の越後守護=上杉定実(さだざね=晴景の養父)が絡んだ奥州(おうしゅう=東北地方)伊達(だて)の内紛(4月14日参照>>)の影響を受け、なかなか国内の情勢は定まらない・・・

そんな中、仏門に入っていた晴景の弟が還俗(げんぞく=仏門に入っていたいた人が一般人に戻る事)して長尾景虎(かげとら)と名乗って栃尾城(とちおじょう=新潟県長岡市)の城主となって、謀反を起こした黒田秀忠(くろだひでただ)を倒した事から、一部の家臣の間で景虎を当主に擁立する動きが見え始めます。

Uesugikensin500 この景虎が後の上杉謙信(けんしん)です。
(後で養子の景虎が出て来てややこしいので、ここからは謙信の名で…)

当然、家中は晴景派と謙信派、真っ二つに分かれる事に・・・この時、謙信の母=虎御前(とらごせん)の実家である古志長尾(こしながお)の勢力が一族内で強大になる事を恐れた長尾房長は、晴景に味方し、両者一触即発の状態となりますが、ここに上杉定実が仲裁に入ります。

現状は「上杉>長尾」とは言え、なんだかんだで定実は長尾家の主君ですから、とりあえず、このゴタゴタは晴景派が矛を収め、天文十七年(1548年)12月に晴景は謙信と「父子の義」を結んで隠居し、19歳の若き謙信が春日山城主となりました。

とは言え、当然ですが、房長の心の奥底には、多少の不満は残ったまま・・・そんなこんなの天文十九年(1550年)2月、かの上杉定実が亡くなります。

定実には後継ぎがいなかった事から、その死の直後に、謙信は、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる)から、実質的な国主待遇を許可されたのです。
つまり、それは「上杉家に代わって、守護をやれ」という事・・・

ここで、房長の中にあった悶々とした不満が、一気に噴出します。

天文十九年(1550年)12月、房長は息子の長尾政景(まさかげ)とともに、坂戸城に籠って反謙信の旗を揚げるのです。

これを知った謙信は、先手を取って、房長に味方しそうな会津黒川城(くろかわじょう=会津若松市)主の蘆名盛氏(あしなもりうじ)に対し、その家臣である松本右京亮(まつもとうきょうのすけ)に宛てた12月28日付けの書状にて(おそらく味方にならぬよう釘を刺す意味で)房長&政景謀反の報告をします。

こうしておいて、年が明けた天文二十年(1551年)1月15日、謙信は、板木城(いたぎじょう=新潟県魚沼市板木)に本拠を持つ房長方の発智長芳(ほっちながよし)を襲撃します。

発智のピンチを聞きつけた金子尚綱(かねこなおつな)が即座に出陣し板木に向かいましたが、時すでに遅し・・・現地に到着した時は、発智長芳の妻子らが人質として春日山城に連行された後でした。

さらに謙信は、2月14日にも、こんこんと雪が降り積もる中、発智長芳への攻撃に向かいますが、さすがに雪深く、この時は決定打を放つ事はできませんでした。

そんな中、房長&政景父子は、なんだかんだで「謙信には勝てない」と、この春頃から、かたくなな姿勢を緩めて和平に向けて交渉を開始しますが、謙信に許す気配はなし・・・

かくして天文二十年(1551年)8月1日謙信は、坂戸城への総攻撃を通告したのです。

謙信の襲撃計画を知った房長&政景父子は、慌てて誓詞(せいし=忠誠を神仏に誓う文書)を提出し降伏しました。

それでも、許すつもりは無かった謙信でしたが、古くからの老臣たちの助命嘆願があった事や、なんだかんだで同じ長尾の一族である事から、最終的に房長&政景父子を許す事とし、謙信の姉=仙桃院(せんとういん=当時は綾?)が、息子の政景に嫁ぐ事で両者の溝を埋め、今回は一件略着となるのです。

ただし、この政景と仙桃院との結婚については天文五年(1536年)~六年前後という説もあり、その場合は上田長尾家と越後長尾家の関係強化のための婚姻であり、その縁があるからこそ、今回の謀反も許したのでは?と考えられています。

とにもかくにも、謙信にとっては、ここで長尾房長&政景父子を臣下とした事で、長尾家相続以来くすぶっていた一族の中での争いに終止符を打つことができ、憂いなく外へと目を向ける事ができるようになり、この後、わずか22歳で越後を統一する事になります。

一方の房長&政景父子・・・父の房長は、この翌年の天文二十一年(1552年)に亡くなりますが、その後を継いだ政景は、自身もろとも謙信の配下となった上田衆(上田長尾家の家臣)を率いて、越後長尾家の重臣として活躍し、あの弘治二年(1556年)の謙信出家騒動の時にも、必死のパッチで主君を引き留め、何とか思いとどまらせています(6月28日参照>>)

しかし、その8年後の永禄七年(1564年)7月、坂戸城近くの野尻池にて舟遊びをしていたところ、ともに舟に乗っていた謙信の重臣=宇佐美定満(うさみさだみつ)もろとも舟から落ち、溺死してしまうのです(7月5日参照>>)

その7月5日のページに書かせていただいたように、この溺死に関しては、イロイロ言われています。

舟の上でお酒を飲んでいた事から、酔った勢いの事故説もありますが、謙信の命を受けた宇佐美定満による命懸けの暗殺とも・・・どうやら、なんだかんだで越後長尾家と上田長尾家の溝は埋まってはいなかったようで・・・ その因縁は謙信の死後のアレコレを見るとなんとなく見えて来ます。

そうです・・・子供がいなかった謙信が、自身の養子として迎えた上杉景勝(かげかつ)は、この政景さんと仙桃院の子供・・・

謙信亡き後に、もう一人の養子=上杉景虎(かげとら=実父は北条氏康)と後継者を巡って争った御館の乱(おたてのらん)の時、景虎の支援をしたのが古志長尾家で、一方の景勝の配下は当然、実家でもある上田衆なわけですが、ご存知のように、結果的に景勝が勝利し(3月17日参照>>)上杉家の後継者は景勝・・・となる。

なんだか、かつて晴景派と謙信派に分かれた、あの時の古志長尾家VS上田長尾家の代理戦争のよう・・・

ところで、この御館の乱の景勝勝利には、景勝側が、未だ謙信が生きている間に、いち早く春日山城の本丸と武器庫と金蔵を占拠したと、当時、景虎実家の北条と同盟を結んでいて景虎に援軍を出すつもりでいたた甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)寝返らせた事が大きく関わっているのですが・・・

もちろん、御館の乱は上杉家を真っ二つに分けた家中の大乱ですから、その勝因&敗因も色々ありますが、私個人的には、上記の2件が成功した事が景勝勝利につながる、かなり重要度が高い出来事だと思っています。

が、この二つ一大事業をやってのけたのは、実は、景勝直属の上田衆ではい無い人・・・ 春日山城の占拠は、上杉定実の一族の上条政繁(じょうじょうまさしげ)という人で、武田との交渉は越後の北部を領していた新発田重家(しばたしげいえ)だったとされています。

しかし、この戦いの後、上杉家内で大きく出世するのが上田衆だった・・・

そのためか?結局、上条政繁は豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)のもとへと走り、新発田重家は独立を夢見て反旗を翻す事になるのですが、そのお話は【上杉景勝の宿敵~独立を夢見た新発田重家】>>でどうぞm(_ _)m
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コメント

茶々様、こんにちわ~(^^)/

>謙信の姉=仙桃院が、息子の政景に嫁ぐ事で両 >者の溝を埋め、今回は一件略着となるのです

これ...理解できないですね~。
大河ドラマの『風林火山』を見ていた時も不思議に思ったんですが、優勢な謙信が房長&政景に人質をだしたような形に思えてしまう...

普通だったら、房長&政景の女親族(女がいたかどうかは分かりませんが)を謙信の嫁にもらうとか、房長&政景の生母を謙信に人質として出させるというのが戦国時代の普通だと認識してる私には理解出来ないですね...

投稿: DAI | 2019年8月 1日 (木) 07時51分

はじめまして。
手取川の戦いのことを調べていて、たまたま茶々さんのブログにたどり着きました。
見させていただく限り、10年以上もブログを続けてらっしゃるということで...
普通ならば絶対に出来ないことだと思います。
本当に素晴らしく、また几帳面な方なのだなあと感動致しましたので、今ここに感想を書いている次第です。
今日から応援させていただきたいと思います。

投稿: うさみ | 2019年8月 2日 (金) 00時31分

DAIさん、こんばんは~

確かに…
ちょっとわからない部分もありますね。。。

「嫁に行く=人質を差し出す」という感じもしますが、今回の場合は「縁を結ぶ事で臣下になる」という部分もあるように思います。
「嫁に行く」と「婿を取る」とが完全に一致なのか?微妙に違うのか?
私も未だによくわかってない部分あります。

人質として送られた子供の場合は縁が切れたら殺される場合がほとんどですが、結婚の場合は、家康のお母さんや信玄の娘さんみたいに縁が切れたら実家に戻って来る人もいますから、やはり結婚は人質とは少し考え方が違うのかも知れません。

どちらも、両者の架け橋であり、うまくいってる間はできるだけ丁寧に扱うという点は一致してると思いますが…

投稿: 茶々 | 2019年8月 2日 (金) 02時09分

うさみさん、こんばんは~

うれしいお言葉、ありがとうございます。
励みになります。

また、時折りお越しくださいませm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2019年8月 2日 (金) 02時12分

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