織田信長の鉄甲船の堺入港を阻む雑賀衆~丹和沖の海戦
天正六年(1578年)7月14日、織田信長が建造した鉄甲船を含む7隻の大船が、堺の港に到着しました。
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去る永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たした(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、やがて、幕府の権威回復を夢見る義昭と天下布武を掲げる信長の間に亀裂が入り始めます。
そんな中、元亀元年(1570年)6月に信長に敵対する越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)と北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)との姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月28日参照>>)が勃発すると、
時を合わせるかのように、かつて畿内を追われていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らが野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)で挙兵(8月26日参照>>)・・・
さらに、その野田福島に石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・現在の大阪城)を本拠とする本願寺顕如(けんにょ)が参戦(9月12日参照>>)した事で、各地の本願寺門徒による一向一揆(いっこういっき)も蜂起します(11月21日参照>>)。
浅井朝倉の残党を比叡山(ひえいざん)が匿うわ(9月12日参照>>)、
甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)は上洛の兆しを見せるわ(12月22日参照>>)、
しているうちにかの足利義昭が挙兵(7月18日参照>>)・・・
信長に敗れた義昭が安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)のもとに身を寄せた事から、この西国の大物も信長の敵になる間に、信玄が病死し(4月16日参照>>)、浅井朝倉を倒すものの(8月28日参照>>)、信玄の後を継いだ息子=武田勝頼(たけだかつより)とも敵対関係(5月21日参照>>)は継続中。
そんなこんなの天正四年(1576年)5月、なんだかんだで10年にも渡る信長VS本願寺の石山合戦の中でも、屈指の激戦&直接対決となった天王寺合戦(てんのうじかっせん)が展開されます(5月3日参照>>)。
しかも、その5日後には、これまで長年敵対していた越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)が石山本願寺と和睦し、この越後の大物も信長の敵に回り(5月18日参照>>)、世に言う信長包囲網も真っ盛り状態。
★参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
さらに、この7月には、海から、石山本願寺に兵糧を送り込もうとする瀬戸内の村上水軍(むらかみすいぐん)を要した毛利軍と、それを阻止しようとする織田軍の木津川(きづがわ)口の海戦(7月13日参照>>)で、織田方は手痛い敗北を喰らい、まんまと兵糧を運び込まれてしまいます。
籠城戦で、籠城する側の補給路が確保されてしまっては、囲む側もしんどい・・・そこで信長は、配下の者の中でも海系に強い滝川一益(たきがわかずます)&九鬼嘉隆(くきよしたか)らに、村上水軍に勝ち、木津川の河口をふさいでしまうような大きな軍船の建造を命じます。
ご存知、鉄甲船です。
『信長公記』には、「1隻が滝川一益が建造した白舟(白木の船)で、残りの6隻が九鬼嘉隆が建造した黒光りの大船」と記されていますので、この嘉隆の建造した6隻がいわゆる鉄甲船かと思われますが、さすがに、6隻もの鉄の船はムリなような・・・この『信長公記』の記述も公家の日記の伝聞のような雰囲気ですので、6隻のうちのいくつか(鉄製は1隻だけだったかも?)だったようにも思いますが、実際に船を見た人のいくつかの記録を踏まえると、鉄はともかく、その大きさ&豪華さはトンデモない物だったようです。
・・・で、この新しく建造された7隻の大船が、順風を見計らった天正六年(1578年)6月26日、建造場所だった伊勢(いせ=三重県北中部)浦を出て、紀伊半島沖を大阪湾目指して出発したのです。
これは捨て置けぬ石山本願寺・・・7月8日付け、坊官(ぼうかん=寺の責任者の秘書みたいな?)=下間仲之(しもつまなかゆき)の名で以って紀州諸浦門徒中宛ての命令を発します。
「近日中に信長の大船が紀州沖を回航するとの情報が入ったので、これを浦々にて迎撃せよ!」
この紀州諸浦門徒というのは「和歌山県の海岸沿いに住む本願寺門徒」という事ですが、今回の場合は主に紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団のである雑賀(さいが・さいか)衆の事だと思われます。
なんせ彼らは、先の天王寺合戦や木津川口の戦いでも大活躍していて「大元の本願寺より、先にコッチを潰さな!」とばかりに、前年=天正五年(1577年)2月から、まともに信長の攻撃を受けてましたから・・・(2月22日参照>>)
とは言え、その2月22日>>にも書かせていただいたように、彼ら雑賀衆も一枚岩ではなく、信長に敵対する者もいれば味方になる者もおり、その生活も、農民からの歩兵であったり漁民や海上輸送民からの海兵だったり形態も様々でしたから、それを踏まえると、今回の場合は「信長に敵対する雑賀衆のうち戦闘艦となる大船や漁船を持つ者」宛て…という感じになると思います。
同じく『信長公記』では、かの6月26日に信長の大船が出発したところ、
「雑賀や丹和(たんのわ=大阪府泉南郡岬町・淡輪)の浦々から、その行く手を阻止せんと数をも知れぬ小舟が矢や鉄砲を放ちながら四方を取り囲んで攻撃して来たものの、指揮を取る九鬼嘉隆は、はじめ、山のような大船に従う味方の小舟に、わざと敵を近づけておいて、適当にあしらいながら、やがて7隻の大船の大砲を一度ににぶっ放した事で、敵の小舟が一斉にダメージを受け、それ以降は近づく事さえできず…やがて天正六年(1578年)7月14日、船団は何事も無かったかのように堺の港に入港した」
とあり、それを「丹和沖の海戦」と称しています。
丹和沖海戦の関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
この文章だけ読めば、さも海戦が6月26日にあったかのように思ってしまいますが、上記の通り、石山本願寺が雑賀衆らに出兵を要請するのが7月8日なので、海戦は、おそらく、それ以降・・・
なんせ、(先にも書きましたが…)彼らは、普段は漁師であり運送業者であって、常に戦闘準備をしてる常備軍ではありませんので、織田方の動きを見て自ら出兵するはずはなく、本願寺からの要請あってこその迎撃であったはずですから・・・
なので、海戦があった日付は、あくまで7月8日以降で、港に到着する7月14日以前という事になります。
また、場所においても、「丹和沖」…というのは、少々考え難いです。
それは、室町初期の足利尊氏(あしかがたかうじ)の時代から長きに渡って、この淡輪の地の領主を務めていた淡輪氏の当主=淡輪徹斎(たんなわてっさい・隆重?良重?)は、早くから信長についており、かの木津川口の戦いにも織田海軍の一員として参戦し、その後の雑賀への攻撃にも織田方として参加しています。
つまり、今回の雑賀の出兵に丹和の浦々が協力する事は、たぶん無いし、そうなると、敵の真っただ中である丹和の沖に、雑賀衆がわざわざ出向いて攻撃を仕掛けるとは考え難いわけで、おそらく海戦のあった場所も、もう少し南の加太(かだ=和歌山県和歌山市)沖か雑賀崎(さいかざき=同和歌山市)沖であったと思われます。
しかも、この丹和の海戦にて雑賀衆を撃破した鉄甲船を含む船隊が、その直後、淡輪に入港して小休止した記録も別資料に残っていますので、やはり、場所は、加太より南のあたりだと・・・それこそ、雑賀衆だって、自分たちに地の利…いや海の利?がある場所で戦った方が有利ですからね。
また、揺れる船の上から、周辺の小舟に向かって大砲ぶっ放して命中するほどの精度があったのか?否か?の疑問も残りますが、こういう場合、当たる当たらないより、小舟に向かって大砲をぶっ放す事こそが有益で、「それでビビらせる事ができれはOK!」という感じだったのでしょう。
ちにみに、信長はコレ以前にも、琵琶湖を渡るための大船を建造してます(おそらく将軍=義昭をビビさせるため?)が、それも1度しか使ってません(7月3日参照>>)。
とにもかくにも、今回の海戦で敵を蹴散らした大船は、2か月半後の9月30日に広く公開され(9月30日参照>>)、華麗な大船の完成に大喜びの信長は、この年の11月に、再びの石山本願寺との海戦=第2次木津川口の戦いに挑む事になります。
そのお話は11月6日の【信長VS石山本願寺~第2次木津川口海戦】>>でどうぞm(_ _)m
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