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2019年9月 1日 (日)

織田信長の美濃侵攻~関城の戦い

 

永禄八年(1565年)9月1日、織田信長が斎藤方の長井道利の拠る美濃関城を攻め落としました。

・・・・・・

かねてより、度々隣国同志で争っていた尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)(9月22日参照>>)でありましたが、天文十八年(1549年)頃に、尾張の織田信秀(おだのぶひで)の息子=信長(のぶなが)と、美濃の斉藤道三(さいとうどうさん)の娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)との婚姻が成立して和睦(4月20日参照>>)、ひとときの平穏が保たれました。

しかし弘治二年(1556年)に、その道三が息子の義龍(よしたつ)に敗れて(4月22日参照>>)政権交代した事で、直後から義父の弔い合戦を意識する信長・・・なんせ信長は、自分を裏切った息子と戦う先日の道三から【「美濃を譲る」の遺言状】>>を受け取っていたという話もありますから (遺言状は偽物の噂もありますが…)

Odanobunaga400aとは言え、かの義龍がなかなかの名将であった事で美濃には容易に手は出せず、また、自身の弟=信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)尾張を統一の事など・・・目先の事も解決しなければならないわけで・・・

しかし、そんんなこんなの永禄三年(1560年)、信長が、ご存知桶狭間(おけはざま)今川義元(いまがわよしもと)を破って(5月19日参照>>)全国ネットに躍り出る一方で、斎藤では、この翌年=永禄四年(1561年)5月11日に義龍が死去し、未だ14歳の息子=龍興(たつおき)が家督を継ぐという出来事が・・・

これをチャンスと見た信長は、即座に美濃攻略に出陣・・・5月14日の森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)と23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)に勝利しました。

さらに、翌年の永禄五年(1562年)に織田信賢(のぶかた)を追放して尾張一国を統一した信長は、いよいよ本格的に美濃攻略に乗り出す決意を固め、永禄六年(1563年)には、美濃侵攻の拠点とするべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に新たな城を築きました。

Minosinkousekizyou
信長の美濃侵攻~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後、永禄七年(1564年)に犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)の家老の内応により、その犬山城が織田方の物となると、斎藤配下だった加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)佐藤忠能(さとうただよし)忠康(ただやす)父子が織田方に転向します。

そして犬山城攻略の勢いに乗った織田勢は、犬山と加治田の間にある大沢基康(おおさわもとやす)鵜沼城うぬまじょう=岐阜県各務原市多治見修理(たじみしゅり)猿啄城(さるばみじょう=岐阜県加茂郡坂祝町)を攻略し、両城から敗走した兵が逃げ込んだ岸信周(きしのぶちか)堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)を囲みます。

ここで、速やかなる開城を交渉する信長でしたが、岸信周は堂洞城にて預かっていた佐藤忠能の娘を磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処して反発・・・結局、大激戦の末、堂洞城は陥落する(8月28日参照>>)のですが、この時、堂洞城の後方支援として織田勢の背後を狙っていたのが、関城(せきじょう=岐阜県関市)長井道利(ながいみちとし)でした。

この長い道利は、斎藤道三の息子ともされる人物で(8月28日参照>>)、それならば現当主=龍興の叔父になるわけですが、その真偽はともかく、かなり主家に近しい人物であり、龍興が信頼を寄せる武将でした。

今回の信長の美濃侵攻に当たっても、その忠誠心で以って、先の佐藤忠能や岸信周らと「信長との徹底抗戦」を誓い、互いに同盟を結んでいたわけですが、上記の通り佐藤忠能には裏切られ、そのせいもあって、堂洞城を目の前にしながら岸信周を自刃させてしまった事に、誰よりも悔しい思いをしていたのです。

かくして、憎い信長を迎え撃つべく関城に籠城する道利・・・

この関城は、南側に3つの砦が連立したさらに南に津保川(つぼがわ)が西に向かって流れ、北側は湧き水による湿地帯・・・しかも、その湿地帯から城の東西両側を2つの川が南下するという見事な天然の要害で、備える兵力もなかなかの物なうえに、それを指揮するのが長井道利という事で、信長も、堂洞城陥落後すぐに攻撃を仕掛けず、しっかりと見据えつつ、まずは、佐藤忠能に斎藤新五(しんご=新五郎利治・長龍:斎藤道三の末子?)を加勢につけて攻めさせる事に・・・

8月29日、連日の晴天続きで、かなり水かさが減っていた津保川をなんなく渡河した織田勢・約1000は、関城を守る砦の一つである肥田瀬砦(ひだせとりで=岐阜県関市)の攻撃に取り掛かりますが、ここで「関城からの救援が無い」と見て、さらに進んで関城の大手口へと迫ります。

しかし、ここで長井勢の強い反撃を受けて撤退・・・翌日、丸一日かけて将兵の休息と、今後の作戦を練って大勢を整えた永禄八年(1565年)9月1日、先と同じく斎藤&佐藤勢を先鋒に、丹羽長秀(にわながひで)隊、河尻秀隆(かわじりひでたか)隊、金森長近(かなもりながちか)隊などの諸隊が続き、やはり先日と同じく津保川を渡って関城へと迫り、各所の砦を攻撃し始めます。

ここを支えきれなくなった砦の守兵は次々と本城へと退いて、籠城戦に加わっていきました。

ここまで、長井道利のゲリラ的奇襲を警戒して遠くから指示を出していた信長は、ここで、自身の本陣を肥田瀬へと移動して、「東西南の三方向から一気に関城に総攻撃をかけよ!」と指示を出します。

もちろん、道利も檄を飛ばして必死の防戦に努めますが、東からの斎藤勢の攻撃に対抗していると西からの丹羽勢が攻めかかり・・・と、城内外入り乱れての大混戦となるうち、長井勢が次々と討たれはじめ、とうとう、道利の息子=道勝(みちかつ=井上道勝*討死してない説もあります)など、側近までも討死してしまいます。

「もはや、これまで!」
と自刃も覚悟した道利でしたが、主君=龍興の今後を思うと、
やはり「ここで死ぬわけにはいかない!」
と思い直し、数人の従者を連れて城を脱出・・・主を失った関城は陥落しました。

これにて東濃(とうのう=美濃東部=岐阜県南東部)における反信長勢力は一掃され、斎藤氏の本拠=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)の外郭を抑えた事になります。

こうして、信長はいよいよ念願の稲葉山城攻略へと向かうわけですが、そのお話は約2年後の永禄十年(1567年)・・・
*8月1日の【美濃三人衆の内応】>>
*8月15日の【天下への第一歩~稲葉山城・陥落】>>
それぞれのページでどうぞ
(内容がかぶってる部分もありますが、お許しを…m(_ _)m)
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