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2019年8月20日 (火)

朝倉義景が自刃で朝倉氏滅亡~一乗谷の戦い

 

天正元年(1573年)8月20日、織田信長に一乗谷まで攻め込まれた朝倉義景が自刃しました。

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永禄十一年(1568年)の9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その後の再三の上洛要請に応じなかった越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう=福井県敦賀市)を攻撃したのが元亀元年(1570年)4月の手筒山・金ヶ崎の戦い(4月26日参照>>)

しかし、この時、自身の妹(もしくは姪)お市の方(おいちのかた)を嫁にやって味方につけていたはずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)が朝倉に味方した事で、挟み撃ち寸前の危機一髪で、信長はなんとか岐阜(ぎふ)に戻ってこれました(金ヶ崎の退き口>>)

Asakurayosikage500a その報復とばかりに、その3か月後に浅井を攻めたのが、ご存知、姉川の戦い(6月28日参照>>)・・・

さらに、その2か月後には、絶賛敵対中の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らとの戦いに石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が参戦して(9月12日参照>>)各地で一向一揆(いっこういっき)が起こるわ(5月12日参照>>)、浅井&朝倉の残党を比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)がかくまうわ(9月12日参照>>)武田信玄(たけだしんげん)は上洛の雰囲気を醸しだすわ(12月22日参照>>)・・・

そんな信長の周りは敵だらけ状態な中の元亀四年(天正元年・1573年)2月には、とうとう将軍=足利義昭もが信長に反旗をひるがえします(2月20日参照>>)

その間にもゲリラ的作戦を展開する浅井&朝倉と何度か刃を交える(7月22日参照>>)信長は、この年の7月に槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻撃(7月18日参照>>)して義昭を京都から追放した後、8月8日に、浅井配下の近江山本山城(やまもとやまじょう=滋賀県長浜市)の城主・阿閉貞征(あつじさだゆき) 織田方についた事をキッカケに、浅井長政の本拠=小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)主力部隊を投入します。

そこに援軍として駆け付けて来たのが朝倉義景の軍・・・小谷城の北側で展開された戦いで分が悪く、敗走しはじめた朝倉軍を追撃する形で、そのまま越前へと向かった織田軍は、8月13日~14日にかけて刀禰坂(刀根坂・とねざか=福井県敦賀市)で展開された戦いに勝利(8月14日参照>>)し、その勢いのまま朝倉義景が逃げ込んだ疋壇城(ひきだじょう=同敦賀市疋田)へと乱入し、奪い取ります。

ここで3日間、敦賀(つるが)に滞在して、更なる作戦を練った信長は、17日、朝倉の本拠地=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町)に向けて出発します。

この間、疋壇を追われた朝倉義景は、わずか5~6騎の従者となり、何度も「自刃しようか」と考えながらも家臣に押し留めらつつ、15日の夕方に何とか一乗谷の館に到着します。

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越前一乗谷朝倉氏遺跡
史跡については【戦国のポンペイ…一乗谷朝倉氏遺跡】のページで>>

あの小谷から、ここ一乗谷に戻るまでの間に、一乗谷守護代の前波吉継(まえばよしつぐ=後の桂田長俊)(1月20日参照>>)をはじめ、朝倉景健(かげたけ=後の安居景健)朝倉景冬(かげふゆ=後の三富景冬)などなど、主だった武将の多くが「形勢悪し」とばかりに、朝倉から織田へと寝返ってしまったのです。

「殿中蕭条(さびしく)女臈(じょろう)も涙に袖を濡らす」『朝倉始末記』
「谷中の老若貴賤(ろうにゃくきせん=老いも若きも身分の高い者も低い者も)は泣き悲しみ上を下へのおおさわぎ…東西南北に逃げる有様も見るに堪えず…」『越前戦国野史』
と、まあ・・・激しく落ち込んで戻って来た義景主従を目の当たりにした家族や近侍たちが…いや、もはや一乗谷中が驚き動揺します。

主だった家臣団が離反した今となっては、この少人数で一乗谷を守る事は難しい・・・

今や数少ない味方である一族の朝倉景鏡(かげあきら)の進言に従い、翌8月16日の午前10時頃、最愛の女性=小少将(こしょうしょう)と彼女との間にもうけた息子=愛王丸(あいおうまる)、母=高徳院(こうとくいん)と、未だ従ってくれるわずかの重臣を従えて一乗谷の館を出た義景は、氏神の赤渕(あかぶち)大明神にお参りした後、景鏡の居城である亥山城(いぬやまじょう=福井県大野市日吉町)へと落ちていくのでした。

その日の午後8時頃、朝倉景鏡とは旧知の間柄である大野の東雲寺(とううんじ=福井県大野市)に入った義景は、翌17日、平泉寺(へいせんじ=福井県勝山市平泉寺町)救援要請の書状を送ります。

しかし手紙を受け取った平泉寺では、一山大衆の協議の結果、「織田軍優勢」と見て織田に味方する事とし、逆に、義景が滞在中の東雲寺付近に放火・・・さらに別動隊が一乗谷にも乱入して、主郭や社寺、家臣団の館などに次々と放火して回り、その炎は三日三晩に渡って城下町を焼き尽くし、朝倉五代の栄華誇り、越前の小京都と呼ばれた一乗谷は焦土と化してしまったのです。

もはや一乗谷に戻る事もできなくなってしまった義景ご一行・・・「東雲寺では防備に不安」と進言する朝倉景鏡に従い、今度は賢松寺(けんしょうじ=福井県大野市泉町)に入りました。

ところが天正元年(1573年)8月20日、早朝の賢松寺に、けたたましく兵の叫び声が響きます。

本来なら義景を守るべき朝倉景鏡の兵が堂内に乱入して来たのです。

最後の最後、景鏡までもが織田に寝返ったのですね。

「織田優勢」の形勢を見て、自分だけは助かろうとした?
と一般的に言われますが、戦国時代の一般常識を考えると、以前【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】のページ>>に書かせていただいたような、「血筋を残すための最後の手段」だったのかも知れません。

なんせ景鏡は10代当主=朝倉孝景(たかかげ=義景の父)の弟の子・・・つまり義景の従兄弟(いとこ)なわけで。。。

この戦国武将の一般常識が暗黙の了解となっていたのであれば、今回の景鏡配下の兵の乱入で「最後のの手段」の発動を悟ったであろう義景・・・覚悟を決めた義景は「無念!」と言い残し、その腹を真一文字に割いて、腹から腸(はらわた)をつかみ出し、その血で

七転八倒(しちてんばっとう)
四十年中(しじゅうのうち)
無他無目(たなくじなく)
四大本空(しだいもとよりくう)
「いろんな事があった40年の人生やったけど、結局は、他人も俺も実体もないカラッポな物なんやな」

という辞世の句を襖に書き残した壮絶な最期だったのだとか・・・
(↑切腹した本人が内蔵を…は、実際にはおそらく無理なので軍記物の常とう手段で盛ってると思いますが…)

残された妻子&母は、京都に送られる途中の今庄(いまじょう=福井県南条郡南越前町)付近で刺殺されたと言われ、ここに朝倉は滅亡しました。

この後、朝倉の滅亡で孤立した浅井長政の小谷城を信長が攻めるのが1週間後の8月27日・・・
★参照ページ↓
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】>>
【落城の生き残り~海北友松の熱い思い】>>
【浅井長政・最後の手紙】>>

こうして、いわゆる「信長包囲網」の一角が崩れました。

ちなみに、今回討ち取った朝倉義景や浅井長政らの首に薄濃(はくだみ=漆でかため金などで彩色したもの)を施して、翌年の正月の宴の席で盃変わりにして信長が酒を飲んだというお話は、今では、信長の残忍さを強調するための創作であったと考えられています。

もし「首に薄濃」が事実だったとしても、それは死んだ相手に敬意を表する「死化粧」の一種と思われ・・・それも、先の「親兄弟で敵味方に分かれる話」と同様に、戦国の一般常識を現代の一般常識で考えてしまっては、間違った解釈をしてしまう事になりますので、注意が必要ですね。
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コメント

来年の「麒麟が来る」で大河ドラマでは久々の登場となりますね。明智光秀は一時期朝倉氏の家臣でもあったので。

余談ですが、先日名古屋市内の信長像が破損されたとの報道を耳にしました。
岐阜市内にも信長像があるので心配です。

投稿: えびすこ | 2019年8月25日 (日) 15時10分

えびすこさん、こんばんは~

銅像やらオブジェやらに何かする人、、、いますね~ホント残念です。

投稿: 茶々 | 2019年8月26日 (月) 01時18分

こんばんは!

また茶々さんの記事を参考に記事を書かせていただきました!

景鏡の裏切りに対する好意的な解釈、面白いですね。

ただ残念なのは景鏡自身もすぐに亡くなってしまったし、景鏡の子孫も滅びてしまったことですかね。

世間に朝倉さんはちらほらいらっしゃいますが、明確に越前朝倉氏の子孫だ、という方はほぼいないのも残念です。

名族なのに><

投稿: Sosuke Washiya | 2020年4月 9日 (木) 22時23分

Sosuke Washiyaさん、こんばんは~

>景鏡の裏切りに対する好意的な解釈

そうなんですよ~
戦国では、「もはやこれまで!」となった時に身内が裏切る場面が多々あるんですよね。
現在の常識で考えると「家族への情が薄い」って事になりますが、それにしては多すぎる気が…
やはり、「個々の家族」より「家単位」で生き残る事を重視してたんじゃないか?と思う次第です。

投稿: 茶々 | 2020年4月10日 (金) 03時59分

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